2013年4月11日木曜日

アシュフォードさん再び

ちょっと前のことになるがアシュフォードさんがオーストラリアの帰りに日本によってから帰ったのでおしゃべりをする。(奥さんが日本人なので本当によく日本にいる)
オーストラリアの人とカナダの人と打ち合わせが難航して結構苦労しているらしいです。

その中で
日本では既にネットなどで「踊ってみた」「歌ってみた」、漫画や小説の投稿など自分で表現をする文化がどんどんはやり、プロフェッショナルなものにお金を支払うという発想が抜け落ちてきているという話しをした。特にアニメや漫画は顕著で、本当に上の方のプロと呼ばれる人をのぞいて総アマチュア化というのだろうか、皆そこで利益を求めようと思わず趣味なのだけれどすごいハイクオリティという現象がおきてきている。
ダンスもあちこちでワークショップが行われ、裾野が広がり、踊る人口はふえてきていると思う。がそれがプロフェッショナルなダンスを見に行くことにつながっているのかは実は疑問だ。
たくさんコミュニティダンス作品ができる、そしてその作品をつくるのには作家(振付家)が必要だというのはわかる。でも実はダンサーは自分で自分の首を絞めるのではないか?それでもつくりつづけていくことが大事なんだよね、というような話しをした。
単純に踊ること自体に力があり、下手な作品を見ているよりは自分で踊った方が楽しいのは確実である。スポーツとしてダンスをとらえれば健康効果もあげられる。すばらしいことづくめ。
逆に言えばあえてそこでプロフェッショナルというのであれば、あるいは発表会ではなくお金をとるというのであれば、そういうのを圧倒的に上回る力量みたいなものが必要で、ハードルは高くなる。

選ばれた人のための選ばれた人によるダンスから、すべての人ためのすべての人によるダンスへと時代は向かっている感じがします。

4 件のコメント:

  1. 経済効率を考えず、ただ暇な時間を使って思うとおりに評価なんかをあまり考えず、何かをつくると、思わずとても良いものができたりします。そういうものをつくる「アマチュア」とそのものづくりによって日々の糧を得ている「プロフェッショナル」の違いはどこにあるのか?それはとてもおもしろい問題提起だと思います。
    「選ばれた人のための選ばれた人によるダンスから、すべての人ためのすべての人によるダンスへと時代は向かっている感じがします」
    私もその思います。ハードルは高くなっていいんじゃないんでしょうか。最近大学で、ダンサーを別に目指してるわけじゃない生徒さんたちに教えてて、私はそう感じます。乱暴ですが、それで絞まってしまう首を持ったダンサーは、絞まってしまったほうが良いとさえ思います。

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  2. 日本のダンサー環境として明らかにプロフェッショナルとしていえる身体訓練を積んだ(積んでいる)人がどれだけいるのだろうか?と考えます。
    ほとんどが大学などでダンスを始め、仕事をしながら続けている状況で、明らかにレベルが違う身体であるというのはかなり厳しい状況です。
    アシュフォードさんとの話しでは「たとえどんなコミュニティに対するダンスでも作品と仕上げるために振付家の視点が必要になるわけで」ということで振付家としての視点がプロフェッショナルとして必要とされうるととらえたのですが、
    正直、「すごいからだ」をみるのであればサーカスや体操選手をみた方がいいし、若い世代で将来プロフェッショナルとなるべく「すごいからだ」を目指す子にはそれなりのトレーニングを課さねば生き延びていけないと感じます。
    私はどちらかというと身体能力があまり高くないタイプのダンサーなだけに、特にそんなことを思います。

    私もダンサーを目指しているわけではない一般学生さんのダンス授業を担当しますが、ダンスの面白さ、楽しさ、多様さに触れてもらうと考えています。つくるための苦しみに触れないでいきます。
    その苦しみやつらさに向かい合って生きていく覚悟みたいなものがあるかどうかはある意味「プロフェッショナル」の境で、しかし苦しみに向かい合う必要は必ずしもないしそれは経済活動とは関係がありません。
    そもそもなぜ踊り続けるのか、踊らねばならないのか、もっといえばなぜ生きていかなければいけないのか。
    首が絞まるというのは自分自身の存在価値が歪むということで、それを感じないでいられる人はある意味強いですが、ある意味鈍感なのかもと私は思います。

    おそらく近いうちにダンサーという職業はどんどん成り立たなくなっていくでしょう。ヨーロッパ圏内でもプロジェクト契約が増え、ダンサーだけで生きていく人は減っていっています。日本ではなおさら。では、どうする?振付家に流れるか、教える仕事についていくか。ダンスが社会につながっていく方法論としては全うですが、なんだかさみしい気がします。

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  3. ブログ書きました。
    http://ryuzodance.blogspot.com/2013/04/blog-post.html

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  4. Ryuzoさん
    ありがとうございます。Ryuzoさんとの交換ブログも3回目(?)ぜひそのうちお話ししましょうー。

    プロとして深化させる意識を持って活動することはできるし、多分多くの方がそうしているのですが、経済活動には結びついていかないのが日本の現在の状態で、時代の流れ的にはよりいっそう難しくなっていくと感じています。

    先日よんだ論文に某地域で地元の劇場維持のために募金をするとしたら毎月いくら出しますか?というアンケートをとった人たちがいて、その結果からは「あったらうれしいけれど、自分たちがお金を払ってまで維持したいとは思えない」層がかなり大きいということがでてきました。なので公的な支えが必要だという論文の流れです。
    コミュニティダンスの文脈も仕掛ける人が必要で、何のために、なぜ行うのかという目的が見えていないといけないな(特に公的資金による運営の場合)と思いました。現在日本では地域創造やJCDN、劇場が企画運営しているケースが多いと思うのですが、ダンサーとしてできることはなんだろうと考えています。

    余談ですが私がいたラッセルのカンパニーでは、一般の人に1、2回のワークショップを行っても自分のしている動きが伝わるわけはないしできないという考えから、ワークショップやスタジオでのオープンクラスを長らく行っていませんでした。(これは私をはじめ言語能力に問題があるダンサーが多く、ラッセルが任せるのをためらったのではないかとも個人的に思っています)それに伴い2008年の海外公演中心から教育と連動する方向へシフトさせる助成制度の変革に乗り遅れ経営不振に陥りました。その後ワークショップなども行うようになって現在に至っています。
    日本ではコミュニティダンスという言い方が一般的ですがその元となる英国での事例を多くみてきて(The placeもカムデンエリアの小学校の授業を請け負っていたり、一般向けの夜クラスなどが展開されているコミュニティダンスのメッカでした。)つたない英語で、ダンスを教えるよりは日本の人にいろんなダンスの話しをしたほうが楽しいのではないかと思ったわけですが、なかなかお仕事にはならない状況が続いています。
    お仕事にはならないですが、踊っちゃうリコーダーグループとか踊っちゃう新百合チームとかいろんな人にはであえているのでよしとします。
    そんなわけでプロとしての経歴を持ってきましたが、プロともあまりいえない状態で、肩身はちょっとせまいです。。。


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