2018年10月31日水曜日

森田さん

森田雄三さんという演出家がいる。
イッセー尾形さんの演出として知られているが、私が初めて会ったのは身体文学という小説を書くワークショップである。
実は文章をよく書く木野妹に連れられて行ったので、彼のところでは木野姉と呼ばれ、姉妹揃ってお世話になった。妹は特にイッセーさんの札幌公演なども手伝っていたし、奥様含め家族のように関わっていたと思う。

身体文学は即興的に言葉を繰り出しながら、全然関係なさそうな言葉を結びつけたり、連想ゲームのように遊びながら想像を膨らましていこうとする文章創作法で、私はダンスの人間なだけに言葉の語彙力がないのでなかなか苦労する。そして普通思いつかないような言葉のつながりを作ったりという部分は非常に苦手で、よく泣かされていた。私が即興が苦手というのは本当なのだ。

いろいろ書いているうちに木野姉妹の共通点が浮かび上がり、ああ、これはうちの家族全体に言えることで、そしてそれはそうそう変えられることでも治せるようなものでもないということを私たちは知った。そもそも妹ともそんなに話すことがなかっただけに貴重な経験となり、そこから少しずつ話ができるようになっていった。生き方はまるで違うし、木野妹は私のようなずぼらさや突拍子のなさはない。普通に会社員をしている。(姉はこんなにへんてこりんな人生を送っているが、まっとう)しかし根本的に持っている質感みたいなものは共通している。
それがわかったので、たくさん泣いたし、悲しかったけれど、大分生きやすくはなった。私も妹にもそれは確実に言えると思う。世間一般的な幸せの形とはどうもずれているけれども(2人とも未だ独身だし)、それはそれで納得できるようにはなった。
演出家というお仕事はおそらくたくさんの生き方を見ながら、その人の役割を見出していくものなのかもしれないと思う。(そういう意味で私は演出家ではない、私はただそのままにあり、見えてしまったものをあらわしているだけ。だから踊子)

長らくお会いしていない。そもそも私が今鳥取に暮らしている事もお知らせしていない。(基本的に今のことで精一杯でそれ以上手が回っていない状態だ)そんなままお会いできなくなってしまった。普通に今もいるような気がする。年のせいかそういうことが増えてきた。今日会ったひとが来年はもう会えないかもしれない。今日という日をだいじに、そう思う。


2018年10月29日月曜日

山陰アートミーティング(仮)

山陰アートミーティング(仮)という山陰地域で個人的に活動するアート関係者が集まってくる会ができておよそ1年。3回目の会合がKIAC(城崎国際アートセンター)であり、およそ1ヶ月ぶりに伺いました。(KIACはすでに家のように懐かしい感じがしている)
ゆるやかに繋がっているこの非公式団体はアーティストから大学関係者(私は一応大学の人でもある)まで様々。それぞれの問題点や、こんなことできそうだよねなどを話し合い、情報共有をする会。
今回の話し合いでも助成金とかとって事業をする案も出ないわけではないのですが、基本的に”自助活動”として、皆が集まれるときに集まって様々なことを話し、自分は一人ではないと再確認し、勇気をもらい、もし偶発的にコラボなどが起きたらラッキーだけれど、事業を起こすための団体にするのはやめようという話になりました。むしろ自分たちで集まりたいから集まる、そのための非公式会。まるで秘密結社(同僚はフリーメーソンみたいとつぶやきました)。
何かをしようとして助成金をとってでもそれを回すためにとらわれて自分たちが本当にやりたかったことを見失うというのは良くない。大切なことはちゃんと自分の地元に根を張って活動を継続的に行うことだというこのスタンス。個人だからこそ余計に大事なのかもしれません。京丹後、福知山あたりからもお越し頂き、また今は愛知だけれど去年まで舞鶴で働いていたコーディネーターさんや、福知山出身でこれから何かできないかと考えている方まで少しずつゆるくつながる会。
こういう人たちが頑張っているから面白い。
そんな山陰。
やっぱり隠れているところもまた山陰。裏日本。
何だかよくわからないけれど大きなうねりみたいなのが起きていて、でもそういう流れに流されず自分の速度で考えようとしているこの人たちの感覚本当はすごく大事なことなのではないかと私は思います。

私自身は銀河鉄道抱えているし、来年までは走りぬけなきゃいけないんだけれど。

2018年10月24日水曜日

おもかげさん

死者の書再読で登場するおもかげさん(沈みゆく夕陽に郎女は面影を見るんですね)。
ひょんなところから鳥取の女声合唱団コールおもかげさんに振付を頼まれました。そのためちょこちょこ顔を出し、指揮を務める松田千恵さん(昨年高木東六の鶴で歌ってくれた歌手さんです)のお手伝いをしています。

おもかげというのはこの地域の公民館が面影公民館(地区名が面影)で、この地域の60歳から80歳代の女性が週に2回集まって合唱練習をしています。来月発表会があって、その時の第3部で踊りたいと。曲は恋のバカンスや愛燦燦とという昭和歌謡。(木野の指定ではないです)
でも年齢のこともあり、実際にはヒールを履いていたり、段差もあって上り下りや座ったりも全然出来ない状況なので(何名かは椅子も使用)、無理はできません。できることを丁寧に。自然と手を使う振りが増えるものの、手のシワがまた美しい。踊る事も歌う事も観客席にいる誰かに話しかけているようなもので、ちゃんと伝えようとすることが大事なんですよとお話をしてみました。
歳をとりうごけなくなる身体ではあるけれど、このように続けていくことが出来る幸せ。この合唱団は30年以上続けていて(その結果メンバーが高齢化している)、いつものメンバーにあって話す事もまた楽しい時の様子。先日のダンスポケット(ダンスコング他佐分利育代先生のグループの合同発表会)40周年に引き続き、鳥取で活動を続けている文化団体コミュニティーの強さを感じました。

11月18日が本番だそう。(この日はわらべ館ワークショップで残念ながら伺えずです)

2018年10月23日火曜日

秘密荘厳住心

ワタリウムに行った時に黄色い(俗に言うレモン色)本があって、手に取ったら万博の時に収集したコレクションの図録でした。短い期間で収集したこともあり、その方法論に問題があったのではないかという指摘もふくみつつ、一つの時代を表す展示だったのだと思います。(この時収集したものがのちに民博になります。)
万博の話をちょうどしたところだったので(ダンスハ体育ナリ2では1940オリンピックと一緒に万博も開催しようとしていて潰れてしまうという話をします。ちなみに2020オリンピックでいう文化プログラムみたいなものですね)、読んでみると、万博もまたえらいことになっているというのがわかります。オリンピックの時に参考文献にしていた吉見俊哉さんがやはり万博も追求していたりしてこの繰り返しをしていたのだなあとつくづく思ってしまいます。そしてそれをもう一度!みたいな感覚があるんだなあと。

で、岡本太郎さんに行きついて、そうか、この人今私が引っかかっているもの全部指摘している人だということを思い出し、ちょっと読んでみようと図書館で手にした本を開いたら曼荼羅について書いてあったのでした。(当麻ではなく、高野山だけれど)
授業の関係で読んでおかなきゃいけない美術系の本を読もうとふと開けたら秘密の話で、その次にふと開けたら今度は岡本太郎さんの話。芸術ってなんだっけ?となった時に呪術という言葉を思い出す。呪うとかくとちょっとおどろおどろしいが、単純に念のようなものを込める作業。

 「人間を突き上げ、おし出す、そうせずにはいられない何か」とした時に絶対としてあるもの、でありながら隠れ、隠されているもの、あらわれていながら、あらわれていない。それは「秘密」である。宗教も芸術も、まさしく秘密であることによってのみ、そのものでありえる。その強烈な充実がある。(『曼荼羅頌』)


どんな人にもそれぞれに抱えている何かはあり、それがある以上全ての人において芸術は可能であり、等しくある。みせるということは必ずしも必要ない。(つうも織っているとこみせないし。)
激しい呪術を込めて「これだ」と言わなければならない。絶対の虚無をみ、そこから有に転じる瞬間は、全てのひとに等しくあるとアマチュアの1踊子としては信じている。プロフェッショナルにはあまり向いていない。1公演ごとにオールアウトしてしまう情けなさ。でもちゃんとなすべき時になそうと思うのでした。


時々本が自分をよんでいるのかなと思う。本が少し光る(冗談みたいですが)。図書館の神様の思し召しかもしれない。


追記:今日(2018.10.23)ミルキーウェイでだしたおみくじクッキー、私は
「吉、人にあかすな」
をひきました。なにを?!
他のメンバーは大吉で、「思い立ったが吉日」とかなのに。山陰なだけにかくれてなさいってことなのかなあ。とりあえず、秘密、はしばらくのテーマのようです。

2018年10月17日水曜日

ダンスハ体育ナリについて(北里義之さん)

北里義之さんが長文のレポート(レビュー)を書いてくれていたので、転載します。
いろんな意味でいろんなところに引っかかりを残すこの作品。私もその1が2回目、その2は3回目ですが、毎回考えさせられています。
ちゃんと作品見ている人は最後のところの記述がちょっと違うことがわかります。北里さんに話したところ、そうあってほしいなあーっていうことなので、じゃあ、その形でそのまま載せてしまいましょう。ちなみに「死者の書再読」チラシが黄色いのは檸檬に合わせたからではありません。


10月7日(日)東京ドイツ文化センターにて、木野彩子さんのレクチャー・パフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?』を観劇。<DANCE NEW AIR 2018>参加作品。暗黒舞踏で知られる大野一雄が体育教師だったことを切り口に、「ダンスとはなにか」という大きな問いを掲げながら体育とダンスの関係をさぐりつつ、女子体育の実際についてレクチャーした第一弾「ダンスハ體育ナリ」(2016年2月)と、国策として進められた戦前オリンピックの招致や「建国体操」に代表される国民運動を通して、男子体育=国民体育の実際やスポーツとの関連についてレクチャーした第二弾「建国体操ヲ踊ッテミタ」(2018年2月、5月)を連続して公演、ふたつのレクチャーの間にバスガイド姿で付近を案内(高橋是清翁像、同記念公演、草月会館、赤坂御所など)する「課外授業」で、東京ドイツ文化センターが建つ土地の歴史にも触れられました。レクチャーにはその後の研究の進展による新情報も盛られていましたが、構成そのものに大きな変化はなく、ダンスとは「社会の利用からむしろ逸脱していくものではなかったか」という結論もそのままでした。横浜BankARTでおこなわれた一番最初のレクチャーでは、戦後民主主義が身体の多様性を生んだことを背景に、ダンスに希望を寄せる言葉が語られていたように記憶しますが、その後の研究は、講義をペシミスティックなものにするのにじゅうぶんだったように感じられます。そうした経緯は、今回の連続講義にはっきりと投影されることとなり、そのせいで、かつての同僚である林洋子さんや、ピアノ演奏の戸井香織さんと共演された第一部の明るさが、ことのほか印象的に映ったのでした。レクチャーの内容にあわせ、前半は、おそろいのセーラー服を着用、華やいだ女学生を演じながらのパフォーマンス、対する後半は、いかにも野暮ったい詰め襟の学ラン服で講義されたという見た目も影響したように思いますが、ここにはもっと本質的な身体の歴史──近代国民国家を創設するため、多様な身体を均質化し、集団化し、統御管理することで社会に包摂するという国家的なプロジェクト──の二段階が影を落としているのだと思われます。

【木野彩子レクチャー・パフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?』@東京ドイツ文化センター】承前。身体における「國民の創生」の二段階というのは、第一段階が、いわゆる「近代的自我」の基盤になるもので、誰もが等しくひとつの身体を持ち、「体育」がそれを可能にするように、自分の意志によって変えていくことができる(物質的)対象のひとつである(身体の主人はお前だ!)という認識を植えつけること。いわば「私の身体」の創造というべきもの。第二段階が、そのようにして誕生してくる個別の身体を、オリンピックのようなスポーツの祭典とか「建国体操」といった身体装置はもちろん、軍隊制度、学校制度によって国家的なものに関係づけ、近代的なハレの場の創設とともに、(最終的に「神風特攻隊」へと収斂していくような)「国家的な身体」という幻想をいきわたらせること。「暗黒舞踏」も「コドモ身体」も、それ自身のローカリティに依拠しながら、このようなプログラムの下で覆い隠されていく身体、見えなくされていく身体の存在を可視化する運動だったといえるでしょう。今の私たちは、近代の第二段階は批判することができても、第一段階は、批判が依拠する身体そのものとして、あるいはいまもなお多様性を再獲得可能なものにする基盤として、疑いえないものとなっているように思います。特に「ダンスハ體育ナリ」講義が対象にしていた女子体育は(「遊戯」に関連づけられたそもそもの教育方針のためでしょうか)男子のような徹底した収奪から逃れ、多様性を失わずにいられたというところがあり、実際のダンス現場を歩きまわっていても、男女間のこの相違は、現実のものとして感じられるところです。「ダンスハ體育ナリ」講義の明るさは、そうしたプロジェクトの段階的な相違に起因するものではないかと思います。これに加えてもう一点、講義が3人の女性によってなされたこと、ここにも性差を男女に固定してきた近代国家のプロジェクトが見逃しつづけている身体の関係性が生きているように思いました。

【木野彩子レクチャー・パフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?』@東京ドイツ文化センター】承前2。レクチャー・パフォーマンス「建国体操ヲ踊ッテミタ」の最後は、サイレンが鳴り響くなか、ダンスが置かれている社会的現実に対し、木野さん自身のメッセージを公私の両面から表明する場面になっていて、「初演時はサイレンで慌てて逃げ出し、再演時はサイレンの中それでも踊り続けると変更」(木野彩子、公演プログラム)とあるように、彼女にとって悩みどころの多い結論部となっています。今回は、「第二の国歌」と呼ばれる「海行かば」の男声アカペラを流しながら、他界した漫談家テントのネタ「私たちの国では」を替え歌にした「私たちの船では」を、声高にではなく、ぼそぼそと、せつなげに歌いながら、元ネタであるテントの声を自身の声に重ね、さらにふたつの声をおおうようにサイレンの響きを重ね、天井にさげられた万国旗が落ちたのは故意か偶然か、最後にポケットからレモンを取り出すと、ガブリと齧りつき、「作品とはなんなのでしょうか? ダンスとはなんなのでしょうか?」と背後のスクリーンに文字が出て暗転、終幕となりました。これまで以上の直接的な語りかけとダンスによって、木野彩子の「憂国」を表現する末尾。前回の公演に参加したとき、最後の場面を以下のように書きました。<最後に自由スタイルのダンスを踊って扉の外に走り出していった木野さんは、会議室の床に一個のレモンを残していかれました。これは梶井基次郎の短編小説『檸檬』(1925年)を思い起こさせました。丸善の書棚にひっそりと残してきたレモンを、主人公は「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう」と空想するのですが、木野さんも、なにかそのような思い──誰をも傷つけない感性の爆弾によって灰色の世界を一変させるようなダンスをしたいというような思いを、このレモンにこめられていたかもしれません。> 木野さんがレモンを齧る姿は、まるで手榴弾の信管を口で抜く人のように見えました。このレモンが語り手の身体そのものを象徴することはあきらかです。おそらく現在クリエーションされている作品に対する思いを重ねつつ、ダンスと社会の両面に対し、もう少し積極的に身体を突き出していこうとする決意のあらわれだったのではないかと思います。■

2018年10月10日水曜日

ダンスハ体育ナリ@ゲーテプログラムノーツ

ダンスハ体育ナリ@ゲーテはなんと2万字を超える長いプログラムになってしまったので、ここにはのせません。
このシリーズは舞台見てそのための副読本だと思うので。(だから是非みてください)
でもどうしても来ることができないとかあれば郵送にて対応します。
とりあえず大学院の恩師には送りました!

最後の言葉(終わりに)のみ転載します。
日付が入っているのはダン体1の初演の時(2016.2.11)ダン体2の初演の時(2018.2.11)の言葉も載せているためです。これらを並べて見ると時代の変化を感じます。
ほんとうのさいわいとはなんだろうかは宮沢賢治の言葉。すべての人が幸せになるということは不可能かもしれないけれども、それでも心安らかにあってほしいと思います。また、きちんと死ねるように生きていきたいという最後の言葉は折口信夫の言葉から預かりました。
中学の時の友人が自分の人生悪くなかったなって最後に思えるように生きたいと言い残していなくなりました。きっとそんなにすごいスペシャルなことではないんです。ただちゃんと生きてちゃんと死んでいけたらそれでよい。それがこんなにも難しくなっているという現代のしんどさ。
さて、よくみて。よくきいて。よくかんがえて。


14.終わりに(201810月6日)
 其ノ一から2年、其ノ二から半年、こんなにも時代の変化が早く、そして偏った形で進行していることを不安に感じる。様々な公文書の書き換えが明らかになり、民衆の声や支持率とは真逆の方向に政治も経済も進んでいく現実。メディアもどこまで信用できるのか、操作されているのではないかと考えさせられるような事例が多数起きていく。スポーツや文部科学省で明らかになったパワハラや汚職は確かにいけないことだけれども、おそらくこれは氷山の一角で、弱いところだから突かれて明らかになっているだけに過ぎないと皆見切っている。私たちは一体何を信じたら良いのだろうか。
 戦争はなぜ起きたのか、今年は特にナチスドイツに関連する映画、映像が多く出てきているが、それらを見ていても普通の人であり、普通の生活を、そして家族を守ろうとしていただけに過ぎないことがわかる。知らなかったと彼らは一概に言う。知っていても見ていなかったのかもしれない。そういう人間の弱さは確実にあって、それゆえなくならない。
 ほんとうのさいわいとはなんだろうか。

 一人一人がちゃんと自分の目で確かめ、自分の言葉で話すようになること。流されずにちゃんと立ち止まる勇気を持つこと。其ノ二のラストシーン、初演時はサイレンで慌てて逃げ出し、再演時はサイレンの中それでも踊り続けると変更しました。3回目はどうしましょうか。あなたならどうしますか。






レクチャーパフォーマンス『ダンスハ體育ナリ 其ノ一 体育教師トシテノ大野一雄ヲ通シテ』 
『ダンスハ體育ナリ? 其ノ弐 建国体操ヲ踊ッテミタ』

2018.10.6. 15:00
10.7 12:00 start
ゲーテ・インスティトゥート 東京ドイツ文化センター
構成木野彩子
出演林洋子、戸井香織、木野彩子
舞台監督吉田尚弘
音響國府田典明
照明 : 樫村千佳
 
主催:Dance New Air実行委員会、一般社団法人ダンス・ニッポン・アソシエイツ、株式会社ワコールアートセンター
協力:大野一雄舞踏研究所、NPO法人ダンスアーカイブ構想、鳥取県立図書館、お茶の水女子大学歴史資料室・デジタルアーカイヴ


青山ブックフェア

Dance new airでは実はブックフェアも行われていて(青山ブックセンター)本を3冊選んで出してくれと言われ選んでみました。
思えばちょっとセンチメンタルな感じのセレクトになっている。。。他の作家さんと違って童話系なところがちょっと恥ずかしい。でもそれもある意味私らしい。


宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
(文庫化も多数されていますが、初稿版、最終形両方が読めるのはちくま文庫宮沢賢治全集です。なお、結構長くてくじけそうな人にはますむらひろしの漫画版もオススメです。)

名作中の名作。賢治の生涯と大きく四回にわたる書き直しを重ね合わせると、単なる童話ではなく、大人が向き合うべき本だということが見えてきます。来年秋に鳥取県芸術文化祭(とりアート)で全く異なる(?)音楽劇になる予定です。

斎藤隆介作、滝平二郎絵『花さき山』
幼少期にお世話になった稽古場でこのシリーズの舞踊劇を作っていました。どんなに辛いことも、悲しいことも、きっと小さな花になる。そう思うとちょっと元気になれます。初舞台でおほしさま役を踊った(?)『火の鳥』と合わせて忘れられない作品です。

Shel Silvestein The Missing piece
(日本語訳だと『ぼくを探しに』です。)
公演でシカゴに行った際、家の前の持って行って図書コーナーにありました。ぴったり合うからといってそれがよいとは限らない。ゆっくり歩くことで見えてくることもある。鳥取に来て自分なりの速度で歩くことの大切さを思います。

2018年10月8日月曜日

ダンスハ体育ナリ?終了しました。

怒涛のようなまさしく嵐のような数日がすぎ、無事ダンスハ体育ナリが終了しました。
本当は今日が体育の日なんですが、惜しい!残念。(元々の体育の日は10月10日。東京オリンピックの開会式の日。統計上晴れる日を選んだとのこと。こうして考えると2020年オリンピックの真夏って異常だなあと改めて思う)


今日は大学の学祭で、台風で1日ぶっ飛んでしまい、しかも引退式があるので帰ることに。その前に今日からパフォーマンスを行う小林さんとお話しをし(パフォーマンスは見れなかったけれど、展示を見てお話しできたのでよかった。)同僚の関連している展示(ワタリウム)をみ、イメージフォーラムで超長くて衝撃的なめまいを起こす系映画をみてきました。

今回の終わらせ方がなかなか決まらず、ああでもないこうでもないと少しずつ変化をし、1回目2回目の本番それぞれ少しずつ違うのでした。さらにいうと元々書いていた台本(のようなパワポ)とも異なっていて、その元々の案でいくとさらにせつない感じになります。

2回本番をやってやっとこんな感じかなと見えてきたような、そんな感じ。毎回いろんなことが起きてしまうから、驚きの連続。まだまだ修行がたりません。


内容としてはその1、その2両方合わせたことによってだいぶん変わっています。ドイツの話も追加しているしし。ブックレットもその1は手刷りだったものがバージョンアップ。参考文献は一応作っていたけれど、あまりに字数が多く削除したため、手刷りでご用意。この小さい教科書のようなものを読むとこの作品のベースがわかるようになっています。
舞台公演なのですが、レクチャーとして簡易版を行うことも可能になっています。(ご要望あればどこへでも伺います)
オリンピックについて考えるきっかけになってくださればと思います。


空港に赤いケースに入った携帯を忘れ。先週は同じく空港に赤いストール(ほんとうは舞踊体操の敷き布)を忘れ。遠足はお家に帰るまでって言っているのに、忘れもの。反省です。一人じゃダメですね。この作品はみなさんに支えられてなんとかなっているもの。ありがとうございました。






2018年10月6日土曜日

ダン体ゲーテ初日

ダンスハ体育ナリ、連続上演、初日あけました。無事?危ういですがとりいそぎ。
晴れ女なせいか台風の軌道がそれ、はれました。でも学生さん達の学祭が大変。ごめん鳥取。
ともあれ、明日に向けて改良中。
両方あわせてドイツを足して、今の時代にあわせたら、まただいぶんかわりました。いまならまだ笑いながらみれるかも。逆にいうと危うい。いまだからこそできることを、作りましょう。
明日も。




2018年10月4日木曜日

DNA

Dance new air 2018開幕です。

パリでは川口さんが大野一雄っていますが、お留守番担当木野は大野一雄さん体育教師話からの作品上演を週末に行います。
このプロジェクトはダンスアーカイブ構想の溝端さんの依頼で2016年に開始しました。昔のバイト先の上司です。
当時筑波大学社会人大学院のスポーツプロモーションコースであり、お茶の水女子大学の卒業生でもある木野に、修論でバタバタしているそんな瞬間投げ込まれた「女子体育」について考える企画です。
私が抱えているコンプレックスの源であり、おそらく全てのお茶大舞踊教育卒業生が抱えていたモヤモヤを表そうとしたのが其の一。
もともとDNAのプロデューサー宮久保さんはこの作品を見てこの作品の再演を望んでくれました。ダンスは体育なのか芸術なのか。どうして体育なのか。たまたまとはいえ、国立大学で芸術という枠組みでダンスを教えれる現状では唯一の環境にいる私が、筑波大学のスポーツの視点と、お茶の水女子大学が目指した芸術の視点と両方から語れる人として話さねばと思い作りました。
男子体操(兵式体操)きになるよねとして始まった其の二は、阿部定とか色々迷走しながら、出会ってしまった明治神宮外苑聖徳記念絵画館に引っ張られてつくられました。今回場所を移すにあたりドイツについて情報追加。なくなってしまった幻の東京オリンピック(1940)を題材にしています。
半ば強引に両方をいっきに上演。それに伴い、内容もまた一新。
いまも毎日更新中。そしてレクチャーなので、もしかしたら脱線??そういうところは折口さんっぽいです。言霊の力を信じましょうか。恐らく毎回少しずつでも異なると思われます。

そんなこんなで初演時よりいつも支えてくれていた溝端さんは現在パリで大野一雄についてについています。お父さんいないのちょっとさみしい。(ちなみに先日のスタッフ見せで見てもらってはいますが)ムムム。
留守を守ってくれている樫村さんに支えてもらい、あと少し頑張ります。

最後は、当日まで決まらないかも。

それくらいギリギリどころ。