2019年3月28日木曜日

鳥取大学体育会系ダンス部

実は鳥取大学体育会系ダンス部の顧問でもある。
毎年参加していたAll Japan Dance Festival in Kobe(通称神戸)であるが,
元々のカリキュラムの変更(3年前から鳥取大ではクォーター制が導入された)やゴールデンウィークの延長もあり、テスト期間と重なり完全に出演ができないことがわかった。(昨年までは参加発表だけなど色々模索していた)
それに対し、自主公演やります!と言い始める学生さんたち。熱い。
実は結構部員も多く、体育会系というだけあり、かなりの練習量をこなす。
ストリートダンスだけれど、佐分利先生の頃より一年に1度は創作を行うことになっており、ストリートダンスを中心にしながら創作(コンテ)要素を取り入れるようになった。ここ数年はそれが定着し、ストリートダンス、体操に似てるんじゃね?という木野の問いかけ(ダンスハ體育ナリ2の解説文を読ませ)に対し集団行動をネタにしてくるツワモノたち。(約30人)
8月17日にするそうです。(勝手に決めてる)
大丈夫かなあ。(で、きっと私は前回のように舞台監督を任される。)

主体性を育てるのは線路を引いてあげればいいわけではない。
選択肢を用意し、その上で自分で選ぶということを体験することが実は大事なことではないか。大学生だしね。
先生はしっかりしていないけれど、学生はしっかりしている。

教育って教え育てるって書くけれど、今の時代に必要なものはそこではないのではないか。ともに考えともに生きる。いや、私も必死だから君たちに教えている暇はなく、参加したければおいで!ということしかできないだけだけれど。

次の舞台は入学式(4月6日)、新入生入れなきゃとかなり頑張ってます。

身体から考えてみる


コンテンポラリーダンスは現代の諸問題を舞台芸術として表す舞台芸術の1ジャンルである。海外も含めプロとして作品を制作し、踊り、暮らしていたが、いつからダンスは特別な人が踊るものになったのだろうと思うようになった。より過激な表現、特殊なテクニックが求められるようになる一方で、すべての人の身体はそのままある種の個性であり、それぞれに様々なダンスが生まれていくと良いのではないかと感じるようになった。
 歌手のバックダンサーやストリートダンスの影響で日本国内では一般にダンスというと決められた振りを覚えるもの、リズムに合わせて動くものと思われている。実際にダンスクラスの多くは教師(あるいは振付師)の動きをいかに正確にこなす身体を作るかに重きが置かれている。クラシックバレエをはじめとした西洋の近代舞踊の多くがそれにあたる。しかし様々な身体があり、一概に合わせることはできないだろう。近代ゆえのある種の規律化は集団制や一体感を生み出す上では重要なポイントでもある。しかし現代において、体格、年齢、障がいの有無など様々な違いがある人が共に楽しむためには、むしろその差異を面白いと思うようにならないものかと私は考え、即興と呼ばれるジャンルに注目している。鳥取においては「即興音楽とダンスのワークショップ」(共催わらべ館)[1]や「鳥取夏至祭」[2]という実践を通じて、様々なダンスの可能性を伝えようと努めている。言語による対話と同じように、身体を通じてコミュニケーションを図っていくことによって、遊びながら自然と動きの語彙量を増やすことができ、様々な運動を行うことで身体感覚を上げていくことができる。子供達の動きは自然で、それを見るといかに自分も含めた大人たちが何かに捉われているかを知る。自分が思うままに身体を動かして良い空間、時間。あるいは逆に動かなくても良いという自由。子供につられて動いてみると老若男女それぞれに思いもしなかった動きが生まれてくる。ある種のカオスのような時間だが、それが本来のダンスや祭の持っている力だったのではないか。
 日本古来からある祭りもまたパレードのように集団で見せる踊りへと変貌しつつある。しかし古くから伝わる祭に着目すればするほど、終焉には演者も観客も紛れて浮かれ踊るかのような瞬間が発生する。自身の感覚が融解したかのような時間の共有はその地域のコミュニティの形成に役立ってきた。
 どんな人も自分の身体から離れることはできない。どのように身体に向き合っていくかは長く体育でも問題視されてきた。様々な健康に良いと呼ばれる体操がメディアにおいても推奨される。ただここでいう健康[3]とは単純に長生きできればいいということではない。数値を上げたり勝ち負けで評価をしきることができない、人生の質(Quarity of life)に着目するとき、自分の身体と豊かに向き合っていくためには、創造性の視点から想像力を働かせてみることが結構重要なのではないかと私は捉えている。身体の持っているリズム、揺らぎを私たちはまず感じ取れているだろうか。その上ではじめてそれぞれの身体の違いを知ることができるようになる。身体はミクロコスモスと三木成夫が指摘するようにすべての生命の記憶が私たちの身体に埋め込まれているだけでなく、宇宙のすべてがそれぞれの身体に含有されている。そこから何を紡ぎ出すかはすべて身体が知っている。あうんの呼吸や間といった非言語の、しかし確実にある感覚を現代社会では見失いがちではあるが、どれだけ重要なことか。すべてをデジタルに置き換えてしまうことはできないし、その言語化やデジタル化ができない領域こそがおそらくAIやバーチャルリアリティにはなし得ない人間のそして身体の最後の砦であろう。身体について考えるから身体から考えてみるへ。身体はすべての人がどのような形であれ有しており、機会は平等にすべての人に与えられている。自分の身体の素直な声を聞いてみるということからはじめてみよう。それもまたダンスと言えるのではないだろうか。


2019年3月27日水曜日

ブルカニロ事件

銀河鉄道の夜は宮沢賢治が何度も書き直しを行なっている。膨大な書き散らしの中から遺族、研究者が調査、研究を重ね、現在は4回大きな変更が行われたとされている。第三次稿と最終稿の差はかなり大きい。
もっとも大きな点はカンパネルラの死が描かれるかどうか。
そしてブルカニロ博士の存在である。

ブルカニロ博士、第3稿では最後に登場してまるで自分が全て仕組んだかのような言動をする。何と!全ては博士の実験!というまさかの夢オチ。
さらにこの項ではジョバンニは賢治の分身とも言われるセロのような声をした人と対話し、宇宙の真理を教えてもらうという特殊な経験をする。(ちくま文庫宮沢賢治全集に収録p554-555
第4稿ではブルカニロ博士は姿を消し、カンパネルラの死と直面するジョバンニ。ここでそれが描かれるのは妹とし子の死を受け入れることができるようになったとする人もいる。(鳥取県内的にはカンパネルラは緑石さんなのですけれど)

一生を通じて一つの物語を書き直し続けたそういういう生き方いいなと私は個人的に思います。生前の評価はあまり高くなく、苦労もたくさんしたし、結局はボンボンイメージもある賢治ですが。だって、そうなんだもん。


私自身もこの不思議体験に近い経験をし、結果としてそれを修論に書こうと試みました。その後さらに繋がって、死者の書再読のクリエーションでは私が作る作品も全ては織り込まれているんではないかという感覚を得たのでした。垂直の糸と水平の糸それを互い違いにあわせたのち、その間を行ったり来たりするのが杼としての木野の仕事。特殊な経験(ぽかっと見るものが私の場合は真っ暗闇という違いはあったものの)の方はすでにしていて油断していたけれども作品全てがリンクしているのかもしれないということに気づかされました。良いことでも悪いことでも。死者の書再読は作品自体について話していることはなかったということに気がつき、私はすごいことなのではないかと思いました。自分で作ったものだけれど、ずっと対話をしていてそれで構成されている。
もしかしたら私のほかわかる人はいないかもしれないけれど、その瞬間は時間と空間を超えるということだったのではないかと私は思いました。いやもっとずっと前から対話自体は続いていた。でも見ないことにしていた。そういうことなのです。作者の意図とか社会的意義とかとは関係なく。
そんなわけで2種類のブルカニロ事件。その謎を解くのがここしばらくの課題かもしれません。
やっぱ巫女るしかないかも。

眠ることができないここ数日。昨年も、一昨年もこの時期は眠ることができなくて夜中の3時に起きてしまう日が続き、その後少し治るけれど3時に寝る日と3時に起きる日がおき(昨年はそれが4時22分というすごく細かい時間だったが今年はちょうど3時のようだからまだましかもしれない)、耐えきれない身体が昼間に(空きコマ時間に)昏睡していることがある。ダンサーなのに体力なさすぎ。修行がたりません。

2019年3月25日月曜日

夏至祭2019について

鳥取夏至祭2019ご応募ありがとうございました。
宿泊などの問題もあるため一回締め切りしますが、鳥取県内の応募者は募集中です。いろんな表現に出会う機会なので、ぜひどうぞ。
実行委員も募集中です。学生はもちろん、様々な方に関わっていただけると嬉しいです。

銀河鉄道祭と夏至祭名前が似ているのか混乱する方が問い合わせくださいます。
銀河鉄道祭企画はあいかわらず募集中。
本番は11月だからちょっとのんびり。でも参加しようかなと思う人はぜひ4月の米子プラリネタリウム公演を見て欲しいです。それがおそらく原型になるから。大人310円子供無料。超太っ腹企画なんです。米子児童文化会館さんありがとうございます。

鳥取夏至祭はどこで開催するか、出演する人も考えながら迷い中。今日は鳥取市の文化財課の佐々木さんのお話を伺いました。まだまだシークレットですが着々準備中です。

フェイスブックには
いずれにせよ、よくわからないなとか応募しようかなと思う方、カフェミルキーウェイにぜひどうぞ。明日3月25日19時ごろからことめやさんで開催しています。お待ちしています。
と書いています。
鳥取県内の皆さん、ぜひ体験していただけたら幸いです。









2019年3月24日日曜日

未来の子供達へ

鳥の劇場で行なっている小鳥の学校(小中学生による演劇コース)の発表会と
鳥取県の財団が行なっているU-18演劇プロジェクト(高校生によって書かれた戯曲を高校生が演じる)@米子公会堂を続けて見にいく。
将来を担う子供たちが主体的に参加し、創作活動を通じて創造性と協働性を身につけていく(中島さんの言葉)企画。このような若い世代の育成事業が増えていると感じる最近。
ただ前者の特徴はお話そのものを作るところからであり、衣装を作ったり、音を作ったりそういうことも子供達が行っているらしい。(県内外の助っ人大人たちが関わってはいるけれど)このように作品を上演することではなく作ることにフォーカスを当てているところは珍しいのかもと思ったりもしました。
後者は宮田慶子さん演出ということもあり、大人との対話を通じて作品を深めていくと言う様子が後半のアフタートークでも見えてきました。(演出は怖いばかりじゃないんだけれどね)
このような育成事業はとても良いと思うのですが、財団の場合は継続的に開催できていないところが残念。と言うのもこれを見た子達がこれを目指してあるいはそれを乗り越えて行くと思うのです。財団としては幅広く様々なジャンルを展開しなければならないので演劇だけを行うわけにはいかない。また開催地域も東部中部西部と移動しているのだとのこと。小さな県ですが、これだけの規模のものをやろうとすると大変なことになります。それを思うとすごい頑張っていると思うのですが、だとすれば、もっとできるだけ多くの人に見てもらうことが大事なのではないか。
演劇をしていない普通の高校生に。友達に。家族以外の人たちに。
自分も一応高校演劇出身の身なので、なんだか考えさせられました。
とりアートで横断をしながら鳥取の広さにやはり凹みかける最近。それでも県内がつながったら嬉しいなとちょっと思うのでした。
この企画に参加したり見にきた子が銀河鉄道参加してみようかなとなったら嬉しいのだけれどな。
どちらも明日まで。鳥取の舞台芸術の未来かもしれません。


追記
静岡の子供達SPACenfantは今年お休みに入ってしまいましたが、それでも9年続いていたので、ある意味とても幸せなプロジェクトだったのかもしれません。宮城さんの信念のおかげでもある。兄弟で参加することがあったり、卒業生の活躍を見て将来イメージを作ったり、その卒業生が将来またサポートする側として関わって行くなど、ある種の循環が生まれていた。修論の時にも正しくはその前の研究主題の提出(つまり修士を受験しようとした時)の時にもこの公共事業の継続性という話は出していて、(ちなみにその話を鳥取大学を受ける時にお話ししました)けっこうずっと気になっている話題なのだと思い出しました。

2019年3月20日水曜日

オレンジの人

オレンジに愛され、オレンジに囲まれている女と遠田さん(門限ズ、ダンサー)に言われる。確かに気がついたらオレンジの人になっていた。とりアート通信20号の時に来ていたオレンジコートのせいかオレンジの人と思われ、いろんなオレンジのものが贈られてくるようになった。パソコンケースから、ポシェット、オレンジベストまで気がつけば私の周りがオレンジになっている。
靴がかろうじて今まだグレー。

このコートを買ったのはまだ神奈川にいた頃の話でしかも古着屋さんとかで300円くらいで買ったものだし、今オレンジになったわけではないが、ここまでオレンジが集まってくるというのはそういうタイミングなのだろう。でも元々は私は緑の人で、高校時代から緑系統でなんとなく過ごしてきた。(スパカンの頃から着ている緑のパーカーがだいたいイメージ)平和で落ち着いた雰囲気で行くはずだったのに鳥取に来て不意にオレンジ化している。


死者の書でオレンジさんになったというのもあるけれど、どうも戦闘モードのようで、しっかり走り抜けないといけないらしい。結構毛だらけ猫はいだらけ。身体中血だらけでもとりあえず走らなければ。そんな感じ。

2019年3月14日木曜日

変わらないこと

世の中はあまりにも早く過ぎていくけれど、人の思考はそんなに早く変わらない。
だから、タイムラグが生じる。

私は結構恵まれた環境でいろんな人に守られていた。
だからできたこと。
この身体だからだとか散々いわれたけど、私が守られていたことは事実で、そのことは忘れない。また出来るだけ早く、次へとゆずり、皆が作りたかったものを作ることができる社会を作りたいと思う。

私が預かったものを実現しつつ、次に出来るだけ早くゆずるにはどうしたらいいか。預かったものはあまりにも大きく、夏至祭や銀河鉄道祭を作っても、間に合わない。
それでも、変わらないことをつくり続けることしか、わたしにはできない。いつかこの変わらないことで見えてくる日があるのだろうか。

叶わぬ夢を思うこと、思い込みはいつかになるのかな。

鳥取の白磁の作者、人間国宝前田さんを思い出す。流行などにとらわれず白磁をつくり続けてきたら、一周回って戻ってきた話。
変わらない勇気を持ちいきていきたい。

2019年3月12日火曜日

街はダンス

女子体育(という雑誌がある)をめくっていたら、その昔高谷さんがこんなことを言っていたとある。
青山のプロデューサー高谷静治さん。Edgeの頃救ってもらい、青山のダンストリエンナーレ(当時はビエンナーレ、現在のDance new air)に入れてもらったりした恩人。その頃おそとダンスの一回目の企画書は書かれているけど、そんなことを言っていたんだと知る。
青山の地下でも踊ったな、ショーケースの中で踊ったなと思い出す。
生きるように踊り、踊るように生きる。
当たり前にダンスがある日常に。
鳥取夏至祭の原型は実はこんなところにあったのかもと思ったりする。


宮沢賢治は「巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」という。人生全体を一つの舞台として例えるこの視点はシェークスピアの言葉に似ている。「この世界はすべてこれ1つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ。(原文ではAll the world's a stageand all the men and women merely players.)」
高校時代の一言が回り回って帰ってくる。

銀河鉄道祭も夏至祭も、街の中にダンスがあるようになるためのもの。
私はすでにダンスではないものに足を踏み入れてしまっているけれど、そのこと自体は良いことだと思うんです。


わらべ館ワークショップ20190310

わらべ館ワークショップ
2019年3月10
講師:金井隆之、荻野ちよ、田中悦子
サポートスタッフ:高橋智美、木野彩子
参加者数:28
主な内容
1230— 顔合わせ、ワークショップの流れ説明
前回(930日)の反省を生かして、前半戦で飛ばしすぎない、ゆっくりと動くところも作ること、身体の感覚を拓くことにフォーカスをあてましょうという裏テーマを設定する。(1)
この空間や空気感を感じるということを重視するために、講師の紹介をしないでスタートすることとする。また、音楽の金井さんは初めから登場しないこととし、ウォームアップが終わった後、ストール(ベージュ)をかぶった何者かわからないものとして小さな音を立てながら登場する。
後半では鳥取の民謡を持ちいて歌い、踊るという流れ。前回行った碾き臼歌の他に子守唄とまりつき歌を用意してくれた(が事前に聞いておくなどのことはしていない)。
前半は基本的に金井さんの演奏、サポートスタッフたちはそれぞれに小さい楽器(カリンバ、パチカなど)を持っているが子供達には渡さないで進行することにする。
1320分〜 子供達が少しずつ集まり始める
13時半〜 高橋さんからの簡単な説明
(写真、ビデオの撮影に対する許可など)
ウォームアップとして荻野さんから簡単な準備運動(身体の各部位を回していくこと)、ゆっくり歩くこと、床がゼリー、ゼリーが全身を覆っているのをかき分けて進む、ゼリーが水になるなどイメージを重視した言葉かけで動いていく。(2)
1350分ごろ 子守唄
ストール(ベージュ)をかぶった金井さんが何者かわからないもの(スタッフたちの中では地縛霊)として小さな音を立てながら登場する。(3)
子供達が驚き、動揺する。
子守唄の歌に合わせてみんなでゆっくりと倒れ寝る。(指示はしていないがスタッフたちがゆっくり倒れて寝ていく様子を見て子供達も促されていく)
子供達がベージュストールを剥がし、「ありゃ?」と気がつく。
何をしようかなとまりつき歌へ移行する。(4)
1355分ごろ まりつき歌ワーク
みんなが見えないまりを持っているという話をする。そのまりをみんなで投げ合う。(5)金井さんが歌う中、みんなで足を踏み鳴らしつつ、まりつきを行うような動き。
まりつき歌の終わりが川に流されるという歌詞なので、そのまま流されて池に集合する(先ほどのベージュストールに集合する)(6)
1405分ごろ 碾き臼歌
歌のサビに当たる短い小節をまず覚えてもらいみんなで歌ってみる。そこに重ねるように金井さんが歌い始め、重奏となる。そこに臼を引く仕草をダンサーたちがやりながら皆で立ち上がり、円になって動き始める。
歌に合わせて手を叩いていたが、その後に足音を鳴らし、さらにボディパーカッション的に身体の各部位を叩いていくなど発展させていく。(このあたりは指示をせず、荻野、田中、木野らが動きながら見せていくことでだんだんと促して行った)
金井さんが歌い始めると言葉が発せられなくなる。同様に動きに加わると演奏がしきれなくなるので、サポートスタッフたちが随時演奏のサポートなどに回っていく姿が見られた。(7)
最後に再び碾き臼歌に戻り終了
1425分ごろ終了後
講師の紹介を行い、アナウンス(銀河鉄道祭などの案内)、金井さんより提案があり、碾き臼歌の動画をとりたいとのことだったので、時間がある方々に残ってもらい、撮影を行った。(アートプロジェクトとして日本各地の民謡を紹介するようなアーカイブを作っていきたいと思っているそう。)
1340 振り返り

    全体的に良い流れができていたのではないかとの声。バランスよく展開ができていたのではないか。
    荻野さんの進行がうまく、自然と入ることができた。ゆっくり動くや水に流されるイメージはその後まりつき歌や碾き臼歌の時にも応用され、うまくつながったように思われる。今回この内容にしたかったのは311関連番組を見ていてとのこと。しかし津波などの言葉かけは特に行っていない。
    何者でもないもの(地縛霊)は子供達にとっては驚きで、興味津々の様子。怖がる子も出てくる。(保護者の方がそばにいてサポートしてくれていましたが、年代によっては配慮が必要かも)。当日あったものでベージュの布でしたが、このような布が一枚あると便利という話が出た。(黒布でも良いですが、より怖くなるのでベージュくらいが良かったのかもしれません)
    今回のテーマとしてあまり決めすぎないというのがあった。前回(9月)のようにあらかじめプランを決めすぎると隙間がなくなり、焦った感じになってしまうのではないかという意見に基づく。ただし、これは前回を体験したメンバーが揃っているからこそではないか。今回金井さんがリードするところもあったものの、荻野さん、田中さんたちがやりながら動きを増やしていったり、音楽面でサポートしたりということがスムーズにできていた。おおよそどういう感じかを感じ取り先を見越して動くことができる関係性ができつつある。振り返りでも一人で進行するのではなく、できれば2人くらいのアシスタントがいることで進行をスムーズにできるという声が出ました。言葉を出さなくても動きやアイコンタクトで進行していくためにも複数人数いると好ましい。
    まりつき歌は今回課題として残されました。見えないボールのやりとりは個人だけではなくみんなで共有できるものであり、そのリズムを利用して動きを作るなどできそう。また、歌詞が長く覚えられないので、皆歌ったりができないのも少し残念。簡単なまりつきモチーフなどを作って一緒に踊ったり、着くのに合わせて膝をタッチするなどのゲームを作って遊ぶ時間なども作れそうという意見が出た。また歌詞も独特なので、ちゃんと聴きたい(しかも一回聞いてもよくわからないからわかりたい)という声もあった。この歌詞から動きを作るなんていうことも可能かもしれません。サポートスタッフたちも事前に聞いていなかったこともあり、消化不良という印象が残った。(→次回リベンジを図ると金井さんは言っています)
    池についてはなんとなく用意したものの、そこから発展ができず。せっかく集まったので何かできると良かったのかもと思われた。
    サポートスタッフたちが音でもサポートし、うまくつないでいきました。(4)参照。ただし楽器の置き場の問題は今回も課題となりました。隠しておく、台を用意する、布をかけておくなど子供達が手を触れない場所に置く必要がある。

今回参加者の保護者の方がかなりノリノリで楽しそうに行っていたのが印象的でした。

来年度は予算申請中ではあるものの、継続的にこのワークショップ事業を定着させていきたい。また、鳥取の音楽関係者でこのような試みに興味を持ってくれる人を開拓、広めていこうと思っています。