2019年5月25日土曜日

松井須磨子

いきなり行けないから見に行って感想聞かせてと言うことで先代の先生から演劇公演のチケットをいただく。行って見たら「松井須磨子」栗原小巻一人芝居。え、まじですか、このタイミングで、ネタとしか思えない感じですがとりあえず見に行ってきました。

鳥取にも演劇鑑賞会というのがあり、そのうちの演目。木野も札幌演劇鑑賞会に高校時代は所属していて当時のお小遣い3000円だったけれど1800円払って舞台見てました。加藤健一事務所やラッパ屋、自由劇場など当時の舞台を見るいい機会であり、個人的にはおかげで山海塾の最重要作品「卵熱」を見ることができました。たまたま高校の先生が山海塾プロデューサーを知っていることもあり紹介していただいたなどという縁があります。(その後まさかアルテリオで再会するとは思っていませんでした)

一人舞台は色々難しくて、個人的にはそこまで評価できないです。でも彼女の人生ちゃんと見ろっていう神の声のようなものかと思い見つつ考えていました。島村抱月との愛に生きましたという彼女の人生はわかるけれど、その中にどれだけの葛藤があったのかはわかりません。本当に彼を受けたなら、彼を残すべく死ねないだろうに。

愛の形は様々です。
生きる意味などすでに消滅していたとしても、それでもここに存在するという意味は、私が受け止めた闇を誰かに伝えるためのこと。それは学生さんでは難しい。それぞれの人生があるから。それでもいつかそういう時があるいは人が来るときのために私は彼らから受けたものをしっかり抱えてここに存在しているのだと思います。

きっとこれで良いのだと私は思っています。

わらべ館ワークショップ20190525

わらべ館ワークショップ20190525

講師 山下靖史
サポートスタッフ 荻野ちよ、田中悦子、高橋智美、木野彩子
参加者22名

実はこの日小学校の運動会が被ってしまい、参加者は少なめでした。夏至祭を支えるメンバーたちと話すことができ、良い機会ではありました。今回ダンスびとが講師なのできのは音楽部隊に。
12時半より打ち合わせ、だるまさんがころんだをベースに行うことや、ウォームアップをフロアーで行うこと、その後ボディパーカッションを用いながら広げていくなどのイメージを共有。

13時半、簡単な説明の後スタート。
子どもたちが床でゴロゴロしているのを見て、そのまま床に転がるワークからスタート。
フレームドラムの音にあわせ音があるときは動き、ないときは止まる。音の大きさや小ささ、質感に合わせて動いてみる。
途中から高橋さんのアコーディオンが参入。わかりやすいメロディが参入すると動きやすいところもあり、なんとなくみんなで音楽に合わせて歩き始めます。

13時50分ごろ、集団の障がいを持つ人々がグループに加わりました。彼らは過去にも(たまたまなのかはわかりませんが)参加してくれたグループで、お散歩の途中でわらべ館に立ち寄ってくれています。
まずは音楽に合わせて歩いたりしていて、なじませたく思い、きのは演奏しつつ参入し、ハイタッチや一緒に回るなどをしていく。そこで馴染んだせいかふと演奏をしていたきののところに寄ってきてくれるのでした。

14時ごろ、そのグループの子達が楽器に興味を示し、一緒に演奏してくれる。高橋さんがメロディーを演奏しつつ、それに合わせてパーカッション系の演奏を手伝ってくれるチームと踊る人々に分かれる。Nさんは前にもこれやっていたよねと思い出してくれる。そしてすごく正確にリズムを刻んだりする。Yくんもなぜかフレームドラムが気に入ったらしく、必ず戻ってくる。
ひと盛り上がりをして一回お休み時間が訪れる。

しかしそこで次の設定が出るわけではなく、再びゆるゆると動き始める。

14時15分ごろ、2回目の静まったタイミングで荻野さんが突然「先生!今のやってたステップ習いたいです!」と言う。山下さんがしているステップを指摘、みんなでやってみることに。

そのステップを使いながら踊りながら、演奏しながらみんなで踊って終了。


終了後、ファシリテータースタッフたちの中ではかなりの反省会が。
事前の打ち合わせでどこまでやりたいか、どうしたいかをちゃんと共有できていなかった。本来であれば事前にメールなどでもやりとりできたはず。音楽のイメージあるていど伝えておいたほうがよかったのでは、など。(今回はきのの能力レベルだったからと言うのもある種の反省。太鼓勉強しよ)
終了して1時間、止まらず喋り続け、これがあれがと言い始める。重要なことは私たちが率直に言いあい、そしてそれぞれがリードしうる関係性を維持していくことだったのではないか。お互い言うべきか、迷い待っていたのではないかということです。
ワークショップは一期一会。いい時間を過ごしたいです。

途中で帰らなければいけなかった子(7歳)が行かなきゃいけなくってとスタッフに言う。お母さんもすごく楽しそうだったと書き残していく、そういう出会いのためにこのワークショップは月1開催にしました。またぜひお越しください。そして楽しい時を過ごしましょう。

静かで穏やかで暖かな時間。

これまで何人か「あ、この人危うい」と思うことがある。
ふっと静かで穏やかで暖かな時間を過ごすことがある。
もしかしたらこんな奇跡あり得ないし、最後かもと思う。(でも最後とは限らない)
職場の上司だったり、古くからの友人であったりするが、その日30分か1時間か忙しい日々を抜け落とさせるような穏やかな時間を過ごす時がある。それが最後の時もあるしそうとは限らない。そう言う意味ではまだまだ巫女までは行けてない。
そしてそれはきっと一生忘れては行けない時間だと私は捉え、少なくとも私がいるうちは記憶として残していくと思う。間違いなく。共にあった感覚。もしくは共にあり続ける感覚。私はそれも愛だと思う。


そのまま死んでしまうとは限らなくて、むしろそれがきっかけで次につながっていくのだけれど、その瞬間、「もういいや」と思う時がある。

だって、そう言う時なんですもの。

緩やかで穏やかに死にゆくことができるように。そんなことを最近思います。

さよならミニスカート

突然ゼミ生が降ってきて(本来は文化人類学に進もうとしていた)、美について考えたいと言い始める。(本来は春までに所属が決まっている)
話を聞いてみると胸が大きい、小さいに女子は多かれ少なかれコンプレックスを抱いてる。自分もそのうちの一人だ。でも世界を見てみたらいろんな美意識がある、時代を超えたらいろんな美意識がある。その変遷を知りたい、そんなことを言う。

最近になってジェンダーやLGBTなどの言葉も増えて、認識されるようになって、テレビドラマや漫画にも現れるようになって見えてきたこの事象。
ダンス教員的には無茶振りのようだけれど、色々お話し始める。
その流れで「さよならミニスカート」と言う少女漫画を買い読んでみて、色々考えさせられる。

私自身は特にLGBTではないが、周囲に多くいた(海外ダンス業界は特に)ので違和感もない。ここで描かれていたのはその前段階の女性・男性を作り出してきた社会性だった。かわいい女性イメージや強い男性イメージはどこからきたのだろうか。家庭環境や、メディアに影響を受けていないだろうか、それは本当はもっと違う形であるべきだったのではないか。ダンスは体育なりで学ラン着てたりなんでダンスは女子のもの?と話してる身としてはまあ近いうちにちゃんと調べなければいけない分野ではある。

高校の頃、顧問陣の中にファンクラブがあったり、著作が大量に送られてきたり、バレンタインに大量のチョコをもらったり、宝塚を勧められたり色々してきた高校時代を考えてみても、その時演じた演目が「お気に召すまま」だったことを考えてみても、この問題は一度ちゃんと扱うべきな予感はしている。
「お気に召すまま」はシェークスピア時代だと全て男性が女性役をやっていると言う状況である中で、さらにもう一度女性役なのに男性を演じると言うすごいひっくり返りを繰り返す作品。でも最後はハッピーエンドで終わり、シェークスピア喜劇の一つとして取り上げられている。たまたまか今年上演が増えているけれど。実はそんなに簡単な話ではないはずだ。

重要なのは男か女かではないよねと言うところかと。


社会制度に従わなきゃ行けないのは死を目前にした時。
身内は認められるけれどパートナーは認められない。その大切な瞬間を共に過ごすためにどれだけの戦いがあったことか。
でもね、同性でも異性でも同じです。
いくら大切な人であっても、婚姻関係や肉親でなければ入り得ない領域がある。そもそも緊急事態ですら教えてもらえない可能性がある。それはそれでしんどいし、でも祈り続けてしまうんだろうなあ。


2019年5月23日木曜日

グローバル時代の国家と社会

「グローバル時代の国家と社会」は鳥取大地域学部教員が作ったオムニバス型授業。ここから私の建国体操は生まれました。(大野一雄版は鳥取に来る前に作ったのでちょっと違うんです)
今年は特に令和で話題になっていることもあって、各先生がかなり気合を入れて作ってきている様子。元号について歴史学の先生が語り、天皇陵と世界遺産について考古学の先生が語り、と毎回色々考えさせられるのですが、今回はゲームを通じて集団性と排除について学びました。「わたしたち」として区切る時そこには「わたしたち」に入っていない人が生まれる。立食パーティで誰かと仲良く話をしていたら他の話せなくて苦手だなあって思ってる人たちの居場所を奪ってしまうこともある。それくらいだったら一人でいいよねという生き方もある。「わたしたち」をみ、「わたしたち」を守ろうとするのは本能かもしれない。でもそうしたらその横で起きている様々なことを見逃してしまっているかもしれないということ。

多分そういう意味で考えすぎて私は所属ができなくなってしまうタイプの人間だと思う。


昨年は公開リハーサルだったのですが、今年はどうしようか考え中。バージョンアップなのか、お題通り表現の自由に向かうのか。いずれにしてもヘビーな授業です。

鳥取夏至祭実行委員会2

鳥取夏至祭実行委員会は微妙に開催されていて、でもいつもではない。
とりあえず鳥大を探索してきてもらい、踊れそうなところをピックアップ。
あるじゃん、結構。
そんなわけで開拓をし、ここで踊っていいのか場所を探していき、その担当部署の方にお話をしにいき、許可をもらうことに。

そうなんです。鳥取夏至祭は私のこのカオス好き、アヴァンギャルド型性格に反して結構普通に許可をもらったりしているんです。一応学校の先生だしとか、コンテンポラリー
=危険人物というレッテルを貼られてはいけないと思うので、真面目にコツコツ。大学のなかでも実はここ数年どんどん厳しくなってきていたりするんです。

だから一応訴えられたりしないよう一個一個。

もともとこの5月6月はエネルギー量が上がってしまって、朝すごい早起きになっていたり(なので、7時くらいには学校についてる)夜もねれなくなってしまうので、そのエネルギー量を無駄遣いしないように始めた夏至祭。そしてまだ早いよと思うけれどぴーかん照り30度コースが続いています。鳥取、山陰だったはずなのに、最近ちょっとおかしい。


2019年5月20日月曜日

アシュフォードさん来るらしいよ。

色々あってイギリス時代の第2の恩人(第1はラッセルさんです。もうこれは絶対!)、なぜか鳥取に来ちゃいます。John Ashford。もとプレイスディレクター、現aerwaveプロデューサー。2005年から2009年までイギリスに暮らしており、ダンサー業をしながら作品を作っていました。2007年横浜赤レンガ倉庫の前で早朝に(その時間しかないからとあてがわれたのです)踊っていたら通りがかりに見てくれてgood mornig dance show(賞)をくれたあのアシュフォードさん、城崎アートセンターに行くついでに来ると言っています。

とりあえず6月13日にトークを行うことになりました。@横田医院(Hospitale)
イギリスダンス、ヨーロッパダンス事情について知るいい機会ではないかと思います。彼がプレイスをやめる最後の一年間、プレイスで作品作りをする関係で、色々話を聞いていました。
私は彼からイギリスの助成金システムを教えてもらい、申請書の書き方や、それを出した後にもいろんなフィードバックを受けながら書き直し続けることができることを知りました。(そもそもそれまではタックスリターンの仕組みすら知らなかった)リーマンショックとオリンピックという2つの節目に関わり、私はその中身を修論を書きながら知りました。
10年近く前Aerowaveのアプリケーションを出しに郵便局へ一緒にダッシュした。そんな頃を知っているだけに茶飲友達としてちょっと嬉しいです。
流石にいい年でそろそろ引退をしなければと本人も話しています。私はプレイスをやめるときも見ていて、エディに任せていきみていてみないようにするその様も含め、ある意味理想の形だよなと思うのでした。(ちなみに私を拾ってくれたのはアシュフォードではなくエディなんです。Resolution, Place prize, spring forwardビザ問題も含め守ってくれていました。)
お時間あれば是非。


ちなみになぜ鳥取に来るのか聞いたら元々は安部公房の研究をしていて砂丘を一度見てみたかったんだそうです。鳥取に来て3年なのですが、その当時からずっと砂丘砂丘と言ってました。仕方ないな。砂丘以外の鳥取を探しつつ鳥取について知っていただく2日になりそうです。

舞踏について一般学生さんに話す

舞踏を一般学生に講義する芸術入門の授業はかなり大変で、毎年すごい準備する。でもその中で何人に届くのだろうかと迷う。学生の反応もかなり悪い。でもやる。
私自身が『ダンスハ體育ナリ』で大野一雄を扱ったこともあり、よしとさんに来てもらったこと(2017年2月)も踏まえて思い入れの深いこの単元。今年はよしとさんフューチャーしてみました。緑のテーブルにはじまり、土方さん、大野一雄さんを経て、それを真似ながら最終的にウサギにたどり着くまでの旅。私は、ある種の継承のようなものを感じ、またある種の当事者性を感じ、今、彼が残すことに興味があります。
6月8日シアターΧには伺えないのですが、今話を聞くべき人でしょう。
一方で川口隆夫さんのように完コピしてしまって大ヒットというのも含め、では舞踏はどこへいくのだろうか。そんなこともお話ししました。
ダンスはその場所にいないと体感できません。消えてしまう。
演劇は戯曲があるけれど、それすらない。そういうものを共有するというのはどういうことか。
批評家、あるいは文学者による言語化は不可欠だったと思います。舞踏の盛り上がりは渋沢、三島他様々なジャンルへの波及効果ゆえのことで、そういう流れが今はない。なぜ。ダンスの持っている力はもっとあるはず。

知ってもらうことの重要性を感じます。

横浜ダンス界隈


2004年まだ海外へ行く前にBankARTの企画で横浜エアジンに出張させられた。
初めてのダンス界隈。横浜の街中を観客が循環して見て回る企画。
その時に放り込まれたのが横浜ジャズの老舗エアジンで、その時は斉藤徹さんと井野さんのダブルベースコンビで、当時は本当にくまさん2人でしかもダブルベースでその間を通り抜けながら踊ったことを覚えています。
ダブルベース(コントラバス)はリズムとメロディと両方扱えて実は結構相性がいい楽器。個人的にはチェロが体が一番反応する(ナチョデュアトほどじゃないけれど)と思っていますが、それは楽器の女性的なところも影響していると思う(ちなみにイギリス時代にチェロを買って番協しろとなバイオリン修復師に教わった。ヨーロッパからバイオリンとか輸出するだけで仕事として成り立つとか。私は密かにそれもありかなと思う)けれど、その次はコントラバス。その次はのりさんドラムかなあ。やぶさんパーカッションも、杵屋さん声も大好き。でも楽器として何がというと今現状ではそこ。
その時以来憧れのベーシストさんで、ちょくちょく見に行き、ちょくちょくワークショップに行くものの、ここ数年体調が悪いことを聞いてはいました。
見に行かなきゃいけない予感がして、でも向かった時にはすでに遅かった。


世の中にはどうにもならないことがあり、今、あっておかなければいけない人がいる。
ここのところ、そういうどうにもならないことが続いていて、結構凹む。大切な人たちがきちんと生きていけますように、そう祈りながら、見にいけないなりに祈りつつ、もしかしたらこれが最後になるかもしれないと思いながら我慢する。約束だから、大丈夫と信じて。


もう一緒の時を過ごすことはない。でもあなたの記憶を私は引き継いでいく。ダンスってそういうことだと思っています。

2019年5月16日木曜日

鳥取夏至祭実行委員会

鳥取夏至祭実行委員会は毎週木曜日に開催することに。
細々ながら3年生が頑張ってくれており、時の流れを感じる。
今日は内容の確認、下見の日程調整、地図作り、鳥大で踊れそうなところ探しと盛りだくさん。
ささやかですが、1ヶ月頑張りましょう。
実は3年目。
頑張らなきゃね。

2019年5月12日日曜日

至上の愛

至上の愛(Rosas Love supreme)をみる。(2019年5月11日)
おそらく10年くらい前に初演バージョンを見ているのだけれど、全然違うものになっていてちょっとよかった。
コルトレーンの曲に合わせてダンサー4人が踊るのだけれど、音に合わせて構成されていて、初めの無音が実は最後の曲の裏側であったり、緻密に構成されていて、アンヌテレサさんらしいなと思う。
私は音感が良さそうに見えて実は音に対する反応速度が速いだけでリズム感はあまり良くないので、こういう作品を見るとすごいと思う。(自由に踊っているように見えて全部フリ決まってますから。)

音と踊りは本来一体のものでというのはゲーテの言葉にでも出てくる。
私自身もこれまで音楽家との作品作りをしてきているが、その度に言われる。音と踊りのマリアージュねと。

でも録音音楽と作ると音に体を合わせざるを得ない。それがリアルにそしてライブに展開できないかと思い即興の音楽家との作品作りになっていった。そしておそらくその即興が私がこれまで過ごしてきたダンスの中で一番楽しい時だったように思ったのと、表現の多様性を知らせるべく即興音楽を広めるのがいいのではないかと思い、鳥取夏至祭は開始した。
本来は音とダンスは同時発生で相互に影響を与えていたはずだ。
音楽家も音を聞きつつ、目もみはる。
ダンサーも見せながらも音を出す。
全身で会話をし、その関係性が見えてくる、そんなもののはずではないか。

でも久しぶりに踊ろと思ったのは事実で、ちょっと元気になった。
愛ですね。


来週はバッハなのだけれど、遠田さんワークショップでそれはいけない。
でもバッハの時代は即興演奏が当たり前だったので(巣鴨の牧師さん曰くパイプオルガニストのクラスには即興が必ず含まれていて、啓示を受けながら演奏を広げていくものだった)私がバッハが好きなのはそんなところに依拠しているのかもしれない。牧師さんに演奏してもらった曲の他にも林さんに踊ってもらった無伴奏チェロ(その時は今井信子さんのビオラ演奏版のCDを用いた)もある。無伴奏チェロは本当に好きでこれまでも2回音楽家さんにお願いしているが、ハードルが高いらしく断られている。

2019年5月11日土曜日

不在の在

不在の在という言葉がある。

 ここにないことによってここにあったことが見える。そしてその掛け替えのない存在に気がつく。ピッポデルボーノの作品「歓喜の歌」は主演俳優の死によってその人の存在に対する思いが溢れ出てしまうそんな作品になっていた。あまりに衝撃的すぎて3日間くらい油断すると泣くという状態が続き、駅であった友人に驚かれた。
 たまたまだが今日見るはずの演目が音楽家が体調不良でダンサーが無音で踊ることになった。音楽とダンスは2つで1つ、かけがえのないパートナーであるが、一方の欠けたまま、その相手を思い踊るその気持ちはすごくわかる。なんとなくそんなチクリと刺さる予感がして今みておかないとと思ったのだけれど遅かったのかもしれない。
 Mobiusでも静でも死者の書でもここにいないものと踊りついできた。ここに実態として存在していなくとも確実にある(と信じているもの)。それを覗き込む行為は真っ暗闇に足を突っ込んでいるようなものだが、1人ではなくそれをしていると思い静かに見つめる。その感じを「歓喜の歌」で目の当たりにし、この5年分くらいの言われていたことや私自身が書いてきたことやこの謎文通(文ではなくイメージが来る)がハラハラと溶け落ちていった。本当にこのまま消えてあげれたらよかったのにと思うけれど私にはできなくて、やっぱり穴の前に立ち尽くしている。

 いきましょう。一緒に。
 たとえ側にはいなくとも、私は私でいます。
みてなくてもちゃんと受け取ってるから大丈夫です。

ただ同じものを見て経験してという記憶を蓄積することはできなくて、それはすごくさみしい。あといざという時に手を出せる距離でもない。でもだから希うという言葉になっていくのでしょう。手紙を読まず、でもそれもこの輪を続けていくためのことだから。見ないことにしておく。それもまた必要なこと。



2019年5月9日木曜日

地域学入門2019

地域学入門という鳥取大学地域学部1年生の必修授業の1コマを担当している。教授陣が並ぶ中一人講師(若くないけれど若手)が一人混ざっていて複雑な心境。

芸術文化センターの紹介や自身の活動を紹介していくのですが、身体から考えてみようということで、少し踊る前の身体の話をする。
隣の人と手をマッサージしてみる。
簡単だけれど、なんか気持ちよくって、少しホワンとする。で、なんだかおしゃべりしはじめる。手が温かい。
身体に触れることで距離感が縮んだり、親しい感じになる。身体をいかに緩ませてopenなある意味いつでもウェルカムな状態にしていくかがダンスのコツみたいなものではないかと思っていて、身体のことをちゃんと知ることは結構これから大事になっていくのではないかという話をする。

それと合わせてダンスの力を利用して社会に役立てようとするコミュニティダンスの考え方とその実例をロンドンオリンピックを例に話し、それと似たようなことが日本全国で起こることなどを解説する。

また、一方でそれらの背景には公的支援に頼ることで成り立つコミュニティダンスの仕組みがあり、オリンピックが終わったらどうなるのか、あるいは東京に一挙集中しているような中、鳥取ではどんなことができるだろうかと考えつつ鳥取夏至祭をはじめてみたことなどもお話しする。
夏至祭をはじめて3年。鳥大に入った1年生の子達も4年になる頃にはいろんな場所を知り、開拓し、イベントを開いたり、事業を展開していくようなことができるはず。きっとそういう勇気を持って踏み出しちゃうことが大切で、多少失敗しても、やってみないよりはやってみたほうがいい。
その上でどうしたらもっとよくなるかを考えていく。
そういう試行錯誤ができるのは学生のうちだけ(私はまさかの大学でもどりで学生と同じように試行錯誤の連続になっていますが)。

修論の時に限界芸術論をもとに祭りという形を応用したコミュニティダンスモデルを考え、図示したのですが、そのあとの絵というのが見えてきました。
様々な星たちをつないでいく、それがアートの役割です。


(一方でアートではなく芸術という範囲では突出した何かがやはり必要で、それはある種の狂気というか集中力なのかエネルギーなのかそういうものではないかとも思うのでした。その部分はちょっと非日常飛び越えてる人の存在が必要で、それは意図的に作り出すとか構築していくようなものではないと思ったりもします。私はそこまでエネルギー力は高くないけれど。)

最後に日本海新聞4月26日に出ていた鷲田清一さんの言葉を紹介しました。(芸術の有効性、「大学人」を終えて)これもたまたま図書館で銀河鉄道の記事を探そうとしてめくったらありました。最近はこういうたまたま的に見つかるものが増えています。珍しく今回は賢治さんではありません。でも賢治愛については強調しておきました。

「要するに芸術は何事につけて行政にお任せするのではなく、流通などのサービスを購入するのでもなく、自前で、協働をつうじて、既存の整備をリフォームしながらしたたかに生き延びてゆくその術(アート)つまりはマニュアルを前提としない問題解決の技法(アート)のモデルとしてとても有効だということである。こうして私は当初の考えをそっくり反転させることになった。芸術の制作と教育において伝承されてきた技(アート)を初等から高等まで、教育のどの成果においてもメソッドとして導入する必要があるのではないかと。」

ただ鑑賞するアートではなく、自らが生み出す主体となることの大切さ。
教養とは自由になるための技術(リベラルアート)だとすると、アートを学ぶ、あるいはアートの考え方や感覚を知るということは自由に生きることに必要なのではないか。それが私の場合はダンス(身体)をつうじてだったけれども、言葉からだったり、音楽からだったり、スポーツ(運動会)だったり様々あるだろう。

たとえ妄想や思い込みのように見えたとしても、想像力はAIには作り出すことができない部分。特に身体の感じ方はそれぞれ一人一人が異なり、生理的な快不快に関わることもあり、機械化ができない部分になる。想像を創造へ。それが大学で芸術を学ぶ理由になり得るのだろう。だから、なんでも思ったことはやってみたほうがいい。

高校までの学校教育の中では先生の言うことが正しいとされてきた。しかし大学では違う。教員も学生も同じ立場だ。だって正解なんてないんだから。(もしくは全てが正解だから)だから自分の考えを持つ人になったほうがいい。

そんなことを話しました。
たかだか1回の授業で学生たちの生き方が変わるはずはないけれど、それでもボールは投げてみる。その中の一人の心に雫が落ちたらそれはそれでちょっといいことかもと思うのでした。


映像資料として
ウェインマクレガーのトラファルガースクエアでのパフォーマンスを作っていく過程の映像、ウォルフガングシュタンゲさんのワークショップの映像、オハッドナハリンのGAGAの様子などを使用しました。




2019年5月8日水曜日

鳥取夏至祭2019チラシができました。

鳥取夏至祭のチラシができました。
今回はうかぶLCC三宅さんとその弟子(?)加藤さんによるもの。いつもYで頑張っている子がこうして関わってくれるのかと思うとちょっと嬉しいです。基本ベースとして昨年までのデザインを踏襲し、こういうの毎年やっているんだなという印象作りをしています。少しずつ色味や構図は変わっているのですがわかります?地図にこれまでの開催地が星になってのるようになったり。
そうなんです。夏至祭から銀河鉄道祭の発想につながっているんです。
まちなかの色んな素敵な場所をつないでいこう、紹介していこうという。それは人も一緒なんです。

そんなわけで今年もあります。


未来の山口の運動会



第4回目となる今回もその2日前から開催されるスポーツハッカソンから作り出される運動会種目に参加するために250名ほどの参加者が集合(ちなみにチラシができる前に定員に達してしまったとのこと)、皆でただただ運動会をするという企画。

先日の投稿にあるように、運動会はもともと近代的な身体を見せるためのものであったのが、村祭りなどと結びついて広がっていったもの。この会もある種のお祭りでもある。
地元企業からの協賛(といっても賞品などものでのサポートが多い)は地元企業を中心に77社。メディアなどの露出も含め支援をするという形で関与してくれている地元の人も多い。

スポーツハッカソンの参加者は実はリピーターや遠方から来た人が多いけれど、参加者は純粋に遊びに来る感じ。(賞品などにモチベーションがあることもあるかもしれない)この参加者からスポーツハッカソンを行う人ができたらという気はする。

内容は
運動会で行う種目を考える、できればYCAMならではのもの。
実際にやってみて考える。
参加者はデベロップレイヤーと呼ばれ開発することと遊ぶことその両方を担う。
ルールを作り種目として説明できるプレゼン資料を作る。
その上で200人対象(実際には各チーム60人くらいで4チーム)に実際にやってみる。

YCAMのスポーツハッカソンはその施設ゆえテクニカルでできること、そのさきを追求する傾向があるが、全国各地で開催されている未来の運動会はもう少しアナログ。でもそれいいよね。

この試みの面白いところは世代を超えても「運動会」のイメージが共有されており、なんとなくこういう感じ欲しいよねという意識が働いている点。
主催側の犬飼さんと話した時、実は運動会を作るといってもそれ以上のことは言っていないんだよねといってました。そう。運動会はこういうものという共通認識があり、そんなに大きくは変わらない、それは参加者たちの経験則からなる。
点数にならない種目があっても、超変な種目があってもいい。でもそういうものはなかなか出てこない。なぜならみんなが体験してきた運動会というフレームがあるから。
それが少しずつでもテクノロジーなのか場所なのか変化していくのでしょう。それでも今現れているものは皆の中にある運動会のイメージなのです。

そのイメージぶっ壊して、何ができるのだろうと思い始めました。

現代らしくツイッターで色々上がっています。是非のぞいてみてください。
https://togetter.com/li/1345483?fbclid=IwAR1ibp2GwgHqMU9-zbm8DRNDPSj4sThiiRoxCvpU9j_SagodDgtQInFLgQA

何れにしてもスポーツハッカソンはスポーツを新しく作り出そうという気持ち。合宿込みで追い詰めながら連帯感を高める工夫はなされている。しかし正直いうと体育会系であり、体を痛めつけたい人たちが集まっている。

鳥取でもできるもの?どうなんでしょう?→附属小の先生がすごく反応してる!ありかもしれません。

2019年5月4日土曜日

笑いについて

天皇制や憲法、政治問題などなんとなく話題にしにくい昨今。真っ暗闇のようなものを表現するのにそのままストレートに言ってもわかってもらえないので、笑いを織り込んでいく必要があるという話を前にした。正しくは笑いに持っていくしかない。

戦前、それこそ1930ー40年ごろエロ小唄が流行り、実はエンタメ業界もすごく盛り上がっていた。自粛ではなく、むしろ息抜き、ガス抜きとして使用されていた感じがある。今お笑いブームが来て、わかりやすい娯楽がもてはやされる様をみると、なんとなくその頃を思い出してしまう。みんなこの現実を見たくない。なかったことにしておきたい。ある種の逃げでもあるし、そうしないと観客がいないと成り立たない舞台は難しい。
(一応ダン体のコスプレは単なるプロデューサーの好みではなく、ちゃんと意図したものではあります)
私は笑いの要素があまりよくわからないところがあって、それを意図的に作るということができないのだけれど、今の作品の流れはそう動いている。もちろん純粋娯楽作もたくさんあって、ファンタジーワールドなミュージカルを見て、クラシックバレエとおんなじ構造だよなと思ったりもする。(あの王子様お姫様みたいな作品構造を分析し社会構造にみせていくのが芸術入門の授業)
一応コンテンポラリーと呼ばれる作家なので、それらを踏まえて表現を作る。ファンタジーワールドやりたかったら18の時に宝塚に行ってたと思うし、今私がすべきはそういうことではない気がする。(実際ものすごく受験を勧められた。道あやまらなくてよかったとも思う)

小さくても笑いの中にチクリチクリとさす針を仕込んでみるか。


おまけ
木村敏「あいだ」を読む。
おそらくここの部分が今私におきている問題。


憲法記念日を受けて


日本国憲法の施行した日ということで憲法記念日と名付けられています。ちなみに6ヶ月前の11月3日に交付されていますがこの日は文化の日。

11月3日は実は明治天皇の誕生日であり、明治期には天長節、昭和期には明治節と呼ばれていました。おそらくこの日を重視する人が選んだ結果だと思います。建国記念の日も含め『建国体操を踊ってみた』は結構この辺りを調べていて、結果的に明治を思う人の気持ちが祝日にまで反映されているということが見えてきました。例えば10月22日は正殿の儀が行われることになっていますが明治神宮が完成した日でもあります(1926年。祭典は10月23日に開催されており、この日は明治改元の日でもあります)
知らないうちに埋め込まれている感がしました。だとすると明治とはなんなのか。
憲法改正案をちゃんとみてみましょう。
国のための民なのか、民のための国なのか似ているようですが全く異なるものです。
世の中の人は知らない、知らされていないことがたくさんあって、その方が幸せなのかもと思う時もあります。でもたまたまとはいえ気がついてしまったことくらいは述べておこうとレクチャーパフォーマンス『建国体操を踊ってみた』は作りました。
オリンピックまで限定配信かな。



プログラムノーツ、結構頑張って作っただけあります。こちらもぜひ。

YCAMスポーツハッカソン

YCAMスポーツハッカソンに行く。
2泊3日で運動会を作り、実際に200人のゲストとともに運動会をしてしまうというイベント。今日は顔合わせ、実際のアイデア出し、種目作り。
夏至祭に参加してくれている大脇さんが教えてくれたこのイベント、スポーツに現代のテクノロジーを組み合わせながら新しい種目を作ってしまうというもので、参加者はデヴェロップレイヤーと呼ばれる。小学生から大人まで。作り、そして遊ぶ人。

運動会は明治期に発生し、近代的な身体を村の人に見せるために成立した。(森有礼による)行進、走り方、様々な体操、マスゲーム、いずれにしても江戸時代までの身体とは全く異なる身体の使い方であり、その運動会を見せるために校庭が作られた。(ちなみに初期の運動会は川へ花見に行くというようなものだったらしい)その後村祭りと混同される、あるいは戦時期は軍事教練的な(今から見るとちょっと笑える)種目が増えるなどの問題点もあったものの、現在まで脈々と受け継がれている。それから150年近くが経過し、再び、運動が得意な人も不得意な人も楽しめるような仕組みを考えようとする動きが起きていることはとても面白いことではないかと考えている。

私は運動神経が鈍くて今でも跳び箱3段飛ぶのが怪しい(でも保健体育教員だった)けれど、本当は身体を動かすこと自体は好きだったんじゃないかと思う。踊ることもきっと嫌いじゃない。でもダメだダメだと言われ続けて、申し訳ないなあと思うようになった。私が踊らなければいけない必然がなければ踊らないようになった。それを踏まえ自分で身体を整え、今自分の表現に必要な身体を作る作業に切り替えることにした。
逆にいうと体育教師でダンサーなのにそこまで思うのだから普通に体育嫌だなという子はたくさんいると思う。

私は健康のためにスポーツを行うという考え方はあまり好きではなく、好きなことをしていたら気がついたら健康だったくらいなもので、寿命はできるだけ短くと思うくらいだけれど、おそらく、動くこと自体は快楽で、生きていく上で体が求めていくものであったはずだと思っている。それをセーブしているのはおそらく魅せるためのダンスであり、勝つためのスポーツではないか。スポーツハッカソンで作られる種目にももちろん勝敗はある(スポーツはアゴン(競争)の原理の遊びでもある)が、そこに遊び心を取り入れられることが重要なポイントで、その作る要素(クリエイティビティ)はアートに繋がる部分でもある。

終わった後工学部系男子たちとスポーツと芸術について話をした。アートとはちょっと違う文脈。ある意味枠組みを作ったり、ルールを作っていくのがこのスポーツハッカソン。スポーツはルールを守るという前提のもと平等を維持している。そういう意味でもある種のアート。でも芸術は本来はそのような枠組みを脱していくそういう行為なんだということ。そしてそういうところにこそ新しい価値観は生まれてくるんだということ。

すでに参加者の申し込みは締め切られ、実はチラシが作られる前に定員に達してしまうほどの人気イベントだそう。(スポンサーが70近くついていて、景品なども出るらしい。YCAMの地域巻き込み感がすごいガチです)こどもの日なだけに鯉のぼりが舞ってます。山口以外の土地でも開催されているので興味のある方はぜひお近くのところへ。学校の先生とかが関わると意識が変化するのではないかなと思いました。


2019年5月2日木曜日

今後の予定(20190502)

今後の予定
◎鳥取夏至祭2019開催します。
HPにて今年の参加者発表しています。
ことしのメイン会場は裏鳥取?樗谿公園周辺で調整中です。もう少しでウェブが出来上がりますので、少々お待ちを!県外の方の申し込みは締め切りましたが、県内の方、運営お手伝いしてくださる方は随時募集しています!



◎鳥取銀河鉄道祭2019年11月に開催します。

11月公演に向けて出演者も募集中です。ダンスは5月からスタートなので、お急ぎお申し込みください!



こちらは昨年度版のチラシ。ことしの分ももちろん作ります。
先日の米子プラネタリウム公演用のチラシです。制作は三宅航太郎さん。
裏面に模式図など出ているので、今後も活用します!


取り急ぎフェイスブックでページを作りました。
https://www.facebook.com/Gingatetsudou.Tottori/

HPを作ったら、どうもインターネットエクスプローラーだと動かないらしいということが判明。グーグルクロムなどでご覧ください。
https://scrapbox.io/gingatetsudou-tottori



ほぼ毎週1回くらい(ほぼというところが私たちの緩さらしい)鳥取の皆さんと一緒
に銀河鉄道について、宮沢賢治について、鳥取の暮らしについて語るカフェ・ミルキーウェイも続行中。
ことめや(鳥取市瓦町527)にて開催してます。
次回は出張ミルキーウェイ5月13日メガネの松本で星と月を見ます。(米子公演森山さんの解説ですっかり星好きに。エセ天文女子とか言わないように!)



わらべ館即興音楽とダンスのワークショップシリーズ
夏至祭の時に踊るの楽しーと思った鳥取の皆さんに即興の面白さを定着させるべく2ヶ月に1度の即興音楽とダンスのワークショップシリーズを継続します。(助成:文化庁大学を活用した文化芸術推進事業)
ことしは
5月26日 Yasushiさん(豊岡、ストリートダンス)
6月23日 鳥取夏至祭
以降大体月1にレベルアップです。7月以降の会はファシリテーションを学ぶための講座と並行して行なっていきます。こちらのファシリテーション講座は実際のワークショップの前後に講座の説明や注意点、またそれらの振り返りを行いながら、どのような形でワークショップを進行していくと良いかを講師とともに考えていく会です。継続的に受講していただき、最終的にワークショップのファシリテーションも行なっていただければと思っています。
ワークショップといっても様々な方法があります。それらを学びつつ、アイデアを出しながら作る作業を体験していただければと思います。

こちらは昨年度のチラシになります。

この事業は鳥取大学芸術文化センターのアートマネジメント人材育成事業の一環でもあります。昨年のHPと報告書ができました。
http://www.tottori-artcenter.com/artmanagement2018/


◎ダンスハ體育ナリ?は思わぬところで評判を受け(学ランがとかではないです)、夏に再演が決定しました。8月10日早稲田どらま館。あと、密かに映像作品製作中です。詳細はまた後日。


ゴールデンウィーク後半

ちゃんと晴れた!
最近は晴れ率が上がっているような気がします。(とかいうと雨が降ったりするから油断できない。でも多分今回は大丈夫だと思う)

ゴールデンウィーク後半は山口に運動会を作りに行きます。
(運動会ハッカソン)
体育からスポーツへ変化するけれども、勝ち負けではない面白さを出していくことができれば私のこのモヤモヤは払拭されるのではないかと。
ただそもそも耽美派というか静かな美しさを求める自分に合う合わないはあるかもしれない。そして体力の無さと運動神経の鈍さ(実はかなり。いまだに跳び箱3段飛べない体育教師)。
芸術の中にダンスがあるようにと私は思っているけれど、現行の学校教育をすぐに変えることはできなくて、少しずつ。だから今、できることから始めていく。体育に関わる人が作ることに柔軟になったら体を使って作るという意味でダンスも運動会作りも近いかもしれない。
ンマツーポスさんの例もあるしね。


たまたま昨日木野ブレーン(何人かいる)から郎女ダッシュを上回る事例報告を受けとる(論文)。いつもだとそのまま報告したくてダッシュしちゃうけれどなんとなく予感がしてちょっと冷静に受け止めて、今回はおとなしく仕事をこなす。ある意味大人になったということかもしれないです。
とりあえずその論文によると死者の書再読関連でおとづれていた四天王寺、思っていた以上におとづれるべくしておとづれた場所だったようで、梓巫女の拠点だったり、しんとく丸が踊っていたり、聖俗あるいは貴賎入り乱れる空間であったようで、リサーチ不足だったなあと反省しました。つまり日想観の聖地は生きながら死を思う場所であり、その境目であると同時に全ての価値基準が転倒するそのような特殊空間でもあった。そういう時空の歪みのような場所は芸能が盛んに開催されていたりします。
生と死の狭間に芸能は起きるんです。
宗教も一緒。
特に中世、そして古代はそれがストレートに出ている。逆にいうとその”当たり前”だったことに気がつけ無くなっていくのが近代以降。

芸能者は祈る人。
それと同時に時間あるいは空間を歪ませる人。だから同じところに居続けることができなくて転々としていくことが多い。でもどこに居ても祈るということ自体は同じだから。死者の書再読が物語るように、きっとなるようにしかならないんです。(と言いつつ結構葛藤中。今日一日動揺が続く。巫女としてはまだまだ修行が足りません)