2018年11月26日月曜日

発達障害について

NHKで発達障害を題材にした番組、週間が始まる。

発達障害は本当に障害なのだろうか。
おそらく少し前までは、障害とは言われないまま見過ごされ、ちょっと元気な子やちょっとおっちょこちょいで済んでいたかもしれない。障害となったのはいつからだろうか。

私自身は診断を受けたわけではないが恐らく発達障害の範囲に入る。しかも愛着障害(これについては別に記す)も含んでいて、かなり難しい。しかし、たまたま比較的自由度の高い仕事を選択できたこともあり、生き延びてくることができた。それでもかつては授業の前後に昏睡していたり、記憶が落ちているときがあった。最近はすこし減っている。それでも普通の人のあつかう表裏のある発言は理解できない。皮肉もわからないし、ニコニコしながら聞いているしかなかったりする。かつての上司が「一見普通に見えるけれど、実はおかしい」と言っていたのがよくわかる。(なお、そのあとに「だから大丈夫」というフォローは入るけれど、一般的な意味でやっぱり大丈夫ではなかったんだと思う。)

それをみつけてくれたのはヨーロッパ時代の友人。彼女はディフレクシアを抱えながら結婚もし、イギリスの大学の博士課程を出た才女でもある。ダンスに特化した舞台美術家ほとんどいないんだよと言いながら、自分の道を切り開いていく強さを学んだ。その後日本で大学院に学んでいる間に2人(少なくとも)の教員が発達障害を有している事を話していた。できないこともあるけれど、発想力や集中力で自身のポジションを確立した一つの例だった。
長く私の集中力や思い込みの強さは指摘されてきて、おかしいおかしいと言われ続けて、しかしそのような事例を見ることで、何か別の可能性はあるのではないかと模索しながら生きてきた。そういう意味で番組で扱われていた様々な企業の試みも、またそこでひとつひとつ頑張っている人も興味深い。

でももう一つ言えることがあるとすれば、社会に役立つから、経済活動に役立つから障害ではないといえるのだろうかということだ。経済活動に役立たなければ、その特殊能力を拾うような企業に出会わなければ障害なのだろうか。障害か障害でないかは経済力で決まるのだろうか。相模原事件やナチスドイツの障害者虐殺を扱ったから余計にそんなことを思うのかもしれないが、心が痛い。私にとっても、誰にとっても当事者として関わるべき問題だと思うからだ。あなたの子供がそのような立場に終われるかもしれない。孫かもしれない。自身だって、年齢を経て思うように動けなくなったり、言葉を発せなくなったりするだろう。そんなときに、どう言えるだろうか。

いつから私たちは健常者と障害者と2つに分けるようになってしまったのだろうか。
また、それは本当に障害と言えるのだろうか。
障害は社会が制度や施設やシステムが作ってしまっているものではないだろうか。その障害をもつ人だけを別にする芸術文化制度ってどういうことだろう?



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