2019年12月31日火曜日

教育について2019

教育について
先日教大協の会で某先生とお話ししていたら邦正美の「身体育成法」の話になった。
札幌時代の先生のもとでは「身体育成法」をもとにクラスが展開されていたので、今でも身体に入っている。「からたち」「からたちから」で触れているように3歳からそれを続けていて、セリフは覚えられなくても動きだったら覚えているという謎の覚え方でこなしたようにできてしまう自分がいた。
牧野先生のもとはバレエとグラハムテクニックと江口隆哉メソッドがベース。大学ではスィングリリース(現在でも大学の授業でコンテンポラリーダンスのクラスはスィングリリースをベースに動きを構成、間に少し作る時間などを加えている)と神戸に代表される大学ダンス。
つまり本人の意思とは関係なく自分自身がこの国の舞踊教育の歴史の変遷をたどってきたということでこれだけ網羅している人はそんなに多くはない。フランスイギリス時代を合わせるとかなり幅広く学び、そのどれでもない状況になっている。それが私の基本ベースとしてあり、それを否定しながら作品を作る。
そんな中、私はダンス教育について何を求めてるのだろうと最近考える。体育の現場で行われているダンスも、教大協で行われているダンスの創作法や教材も今私がやっているダンスとは明らかに異なるものである。
「ダンスハ体育ナリ?」を作りながら女子体育、体操、そして今回は特に表現の自由について触れ、ダンスが体育の中にあるべきだとする声を理解してきたが、それでも、私のアイデンティティが歪んでいる気がしてしまう。そのずれをどのように解決していくか。

まず現在のダンサー(あるいは振付家)と呼ばれる人たちが生き延びていくすべを作るにはどうするかを考えると、イギリスのコミュニティダンスやクリエイティブパートナーシップ制度を思い浮かべられ日本でいうアーティスト派遣制度が広まることだろうと思う。
体育にあり必修でありながら、運動会や体育祭でごまかし今も50%は授業内で行われていないとされるダンス授業。その一部を学校間を循環しながら担うだけでおそらく生きていける。一学期はA中とA小学校、二学期はB中とB,C小学校というように各地域にダンサーが一人くらいいてもおかしくない。
担任の先生方がその役を担えるように研修を行っていくというのも一つの手で、それでもかなりのダンサーの生きるすべとなっていく。現在豊岡市では小学生、中学生にコミュニケーション教育の一環として演劇が導入されているが、学校の先生方の講習なども平田さんが積極的に行ってきた結果である。おそらくこれと同じことがダンスでも起こりうるし、実際に教科である分導入はしやすいと考えられる。
アーティストにそこで求められるのはある程度の社会的適応性と、自分が行なっていることの言語化、ワークショップファシリテーターとしての力量。作品の方向性によっては全く合わない可能性があるが、(私は合わなさそうだが、教員歴などでカバーしているところがある)それでもダンスが広まっていく一つのきっかけだろうし、できるだけ応援したいと思う。

しかし体育のダンスとなっているときに私に残る疑問は変わらない。
⑴音楽に乗って踊るのは確かに楽しい。でも音楽にダンスは従属していなければいけないのだろうか。そもそも音楽もダンスもそれぞれの人の呼吸や間合いから生まれてくるものなのに。

⑵動きを教えてそれを応用させるという現在の手法ではそれぞれの子供達から出てくる動きではなく、知っている動きをつなぐ事にしかならないのではないか。
⑶そもそも踊りは見せるものだったのだろうか。
わからないといけないのはなぜか。
また、かっこいいとは何を指すのか。
私たちは他者の評価に乗っかってしか踊ることはできないのだろうか。

子供達とのワークショップを行いながらずっと疑問に思っている。子供達はすでにいろんなことができるけれど、私たちはなぜ枠にはめようとするのか。
創作ダンスをグループで行うことは集団性や社会性を養うように見えつつ、大きな声(経験者やうまいとされている子)に任せて大人しく従うその他大勢を育てることになっていくのではないか。
本来は様々な身体、様々な動きがあることを認め合うのが1番で、そのための環境づくりが一番重要で、その次に自分を出していいんだという自己受容が現れる。自分のことを自分で認める。自分で生きていていいんだと思えるようになるそこがダンスにとってそして生きる事にとって大切な力になる。
そこに評価という軸を持ってくることが効果的だとは私は思えない。
二人組で踊るからこそできる動きや発想もあるが、グループでのワークになればなるほど効率を重視し、見えにくくなってしまう。
かつて厚木凡人さんは「まずはソロを。そうしたら群舞も作れるようになる」と言っていたが、(残念ながら私はまだソロができていないので、群舞を作ることはできていない)自分を知らずして踊りを作ることはできない。ましては人を動かすことなんてできない。本当に時間があるなら全ての子が作者となりみんなに振り付けたり様々なルールを作ってやってみてもらう時間を取るといいのかもしれないが、余裕がない中、グループで作品を作り発表するのは本当に必要なのだろうかと私は思う。

現代的なリズムのダンスはある意味リズム体操などにそのまま移行しておかしくない。実際に現在の体育祭や運動会で行われているダンスはダンスというよりは体操になっていることを「ダンスハ体育ナリ?」で解説した。民俗芸能なども型の習得という点では等しい。ある種の身体の規律化につながっており、体育の中でも体操の内容に合致していく。
しかし創作ダンスは創造性つまり心の問題に依存したところがあり、心と体の健康のためにという考え方からは理解できるが、上記の2つのダンスとは異なる側面を持つ。私たちは人の創造性に評価をつけることができるのだろうかと私は問いたい。

コンクールが私はこれまでも苦手だった。自分がそういうところの出身だったけれども(大学時代および横浜ダンコレ)そしてそこで評価されたからこそ、今があるのだけれども、それでも耐え難いと思っていた。しかし先日森達也さんとお話をした時に「自分も評価という点では気にすべきではないと思うが、これを機会に映画(私たちの場合はダンス)について話したり議論したりする場が設けられることが大事だ」という考えを知った。これは前に横山さんとお話しした東京演劇祭のコンペにも通ずる。しかし若い世代特に高校生、大学生くらいの世代ではその視点は理解できないし、それに一喜一憂してドロップアウトしてしまったり、燃え尽き症候群が発生したりしている。そして年々ダンスの競技化は進んでいる。
ブレイクダンスはとうとうオリンピック種目にもなった。

ダンスは互いの表現を認め合い、高め合うものであって競い合うものではなかったはずだ。

ダンスの持つ可能性について、私は論文内で祭りとカーニバルを取り上げて、ある種の自己融解について問いている。没頭し、燃焼しながら周囲の人と溶け合い、その体験がコミュニティを作り上げていく。神楽のように練習期間の酒飲み交流を通じてできるコミュニティもあるが、本質的にはカオスの中の自己消滅。しかしその状態は非常に危うく、集団統率などに利用されたりもする。実際にワーグナーの例やオリンピックの熱狂で愛国心の増長が促されること、カルト教団などでダンス的なものが取り入れられることなども近しい。ダンスは楽しい一方その使い方によっては危険も伴うことを知っておく必要がある。
しかし身体を介したコミュニケーションの可能性は今後ますます重要になると考えられる。人との距離感の取り方、自分をオープンにする方法、そんなことを含めて学んでいく必要があるだろう。

各自の身体に全ての答えはある。
身体はミクロコスモスと三木成夫はいう。
誰かが決めることではなく、自分で自分の身体に聞き、そして知っていくことが大事であり、誰かに教えられてできるようになるものではない。教えてもらってできるようになることはすぐに忘れてしまう。だからひたすら楽しく踊りながら自分の身体の声を聞き続けていこう。そして一人一人の発見を面白いと気がつくことができるよう。それは確かに時間がかかることだけれど、民主主義はそのようにしてできている。
早く進むことではなく、いかに無駄道を通り、ゆっくり歩んでいくか。平田さんは「下り坂をそろそろ下る」と書く。この国の将来はかなりくらい。しかし自分の言葉を自分で持ってちゃんと話せるようになることで転がり落ちる石を少しでもせき止めるくいのようなものになれるかもしれない。
現場はそれどころじゃない!って怒られそうだけれど、根本的にそれぞれの子供達が生きていてよかったんだと思える、そのような教育であってほしい。
自分の意見はそれでいいんだ、でもそこに行き着くために最大限の努力をそれぞれの範囲で行なっていきたい。


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