2019年5月11日土曜日

不在の在

不在の在という言葉がある。

 ここにないことによってここにあったことが見える。そしてその掛け替えのない存在に気がつく。ピッポデルボーノの作品「歓喜の歌」は主演俳優の死によってその人の存在に対する思いが溢れ出てしまうそんな作品になっていた。あまりに衝撃的すぎて3日間くらい油断すると泣くという状態が続き、駅であった友人に驚かれた。
 たまたまだが今日見るはずの演目が音楽家が体調不良でダンサーが無音で踊ることになった。音楽とダンスは2つで1つ、かけがえのないパートナーであるが、一方の欠けたまま、その相手を思い踊るその気持ちはすごくわかる。なんとなくそんなチクリと刺さる予感がして今みておかないとと思ったのだけれど遅かったのかもしれない。
 Mobiusでも静でも死者の書でもここにいないものと踊りついできた。ここに実態として存在していなくとも確実にある(と信じているもの)。それを覗き込む行為は真っ暗闇に足を突っ込んでいるようなものだが、1人ではなくそれをしていると思い静かに見つめる。その感じを「歓喜の歌」で目の当たりにし、この5年分くらいの言われていたことや私自身が書いてきたことやこの謎文通(文ではなくイメージが来る)がハラハラと溶け落ちていった。本当にこのまま消えてあげれたらよかったのにと思うけれど私にはできなくて、やっぱり穴の前に立ち尽くしている。

 いきましょう。一緒に。
 たとえ側にはいなくとも、私は私でいます。
みてなくてもちゃんと受け取ってるから大丈夫です。

ただ同じものを見て経験してという記憶を蓄積することはできなくて、それはすごくさみしい。あといざという時に手を出せる距離でもない。でもだから希うという言葉になっていくのでしょう。手紙を読まず、でもそれもこの輪を続けていくためのことだから。見ないことにしておく。それもまた必要なこと。



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