2020年6月11日木曜日

コロナウィルスにかんして20200611

夏至祭過去参加者との対話でオンライン化早かったよねとの指摘。

3月にはこれは無理だなと判断し、参加予定者の人の確認をとるのに時間がかかったけれど、それはわかるでしょう。
3月3日撮影の補講ダン体で、オリンピックきてもらいたいと思ってますが、と言っていますが、おそらく難しいよねという話を同僚としながら、誇張してその台詞を入れることにしました。なぜ、1年で解決すると言えるのか。

一方でそもそも日本の自殺者年間3万人(とはいえ最近減っている)や事故死者数、そして他のインフルエンザ等の関連死(今年は減っていて、インフルかコロナかが曖昧なままになっているケースが多い)もそれどころではなく、もう無視していくよ!となるのであればアリかもしれない。そういう戦略かなと最近は思っています。

でも1964年のオリンピックを目指すというのは明らかに間違いだし、高度経済成長が当たり前という感覚を直した方がいいし、できればこれ以上傷を増やさずやめた方がいい。

私は微妙に文化プログラムのかけらにいる身ですが、それでも、そう思う。まずいだろ。ここから開こうとする努力をするくらいであれば、まず、皆が生きていける環境を作りたい。

アーティストも大変だけれど、河原乞食ではないですが、お金があろうとなかろうときっと何かをし続ける。謎のお金の動き方を見るたびに、人はなんのために生きているのだろうと感じます。お金ではないですよね。
人が幸せと感じる時はどんな時だろうと感じます。
私は少なくとも富を得ても幸せとは限らないし、こういう中で、お金を得ていくことを残念に思ってしまう。
生きるために、何が必要かは人によって異なりますが、まず安心して生きていけること、また自分の思うことをすべての人が発していけることが大事なのではないかと思います。
お金があって贅沢な暮らしをして、チヤホヤされることが嬉しいのだとしたら、幸せを分かち合うことができない残念な人だと私は思ってしまう。
マルクス主義ではなく、でも誰かから奪うのではない価値基準になっていった方がいいと思うのです。

オンラインでもできることがあるし、それゆえに広がる可能性もある。
一方でオンラインではできないこともある。
ダンスはおそらくそのできないことをきちんと示していく必要があると思うし、
生身の身体や他者に触れることをちゃんと大事にしなければ、「映像」に負けてしまうと思う。
なぜ私たちは舞台芸術だったのか、そしてそれを壊すことの意味をもう一度考えてみる試みです。

鳥取夏至祭は小さいけれど、今に檸檬を投げ込むのです。常に。


0 件のコメント:

コメントを投稿