2020年5月15日金曜日

鳥取夏至祭2020の皆さんへの手紙

鳥取夏至祭はその昔フランスに住んでいた頃遭遇した夏至の日に(平日でも)町中みんなで馬鹿騒ぎするパリのfete du la musiqueをもとに絶対人がいない鳥取ででも町中で踊っちゃうそんなことをやってみようと思って始めました。
プロとして舞台上に上がる時、基本的に優れた動き(と呼ばれる技とか)を見せるわけですが、コンテンポラリーダンスにおいてはその人の味や色の方が大事で、そういう意味で、普通の人もダンサーでありうるし、なぜ日本ではダンスを踊る人は訓練を積んだ特別な人になってしまうのだろうかと考えていました。
劇場はあっていいし、劇場舞踊を否定するわけではないけれど、私すごいでしょ、みて!みて!というダンスの時代はすでに終わっているように思っていて、まずは一緒に遊ぶところからやっていく、それが一年目の夏至祭の始まりです。プロフェッションとしての職業ダンサーとして踊る時もあっていいけれど、純粋に楽しい時ってそういうものでないなと。そのうちに踊りたい人が増えたらいいなと思ったんです。
実際にはそう簡単に増えないどころか、集団ストリートダンスが好きな学生さんたちはみむきもしないみたいなこともあって悲しいなと思うこともあります。うちの前任の先生は「みんな上手くなりたいのよ」と。結局それでは他者からの承認欲求から抜け出せない。そして上手い下手で線を区切るような思想に過ぎず、だからダンスはスポーツ化していくのです。(実際に大学ダンスのコンペとかストリートダンスのオリンピック競技化を見るとそれが露骨に出ています。そこへの疑問提議としてダンスハ 体育ナリ?シリーズは始まりました。)
鳥取銀河鉄道祭もできるだけそれぞれの人のそれぞれのままの色が出るように、また観客と出演者の垣根を壊していくように設定しました。観客はいつかなくなる。すべての人が参加者であり、作品を構成する人であり、だったら踊った方が楽しいとそうなっていくと個人的には信じています。
おそらく即興はポストコロナでお互いに頼りつつ、でも支え合う、時にはユーモアを含めて尊重し合う関係性を作る示すものとなると感じています。「パフォーマンス心理学入門」という本を読んだところなのですが、すでに演劇はインプロゲーム、シアターがかなり進められています。彼らは自分ではない他の何者かになるということで自己を開放させていきます。しかしダンスはあるいは音楽は言葉を使用しない分自分のまま、それができるようになるといいなと私は感じています。
今回指摘のあった新しい発想に飛び越えちゃう時の面白さこそが、ある種の創造力で、しかし一方で他者がいてそこに引っ張られたりすることでつながっていく面白さも有している。そのための仕組みを作ろうとしている試みです。
そしてそういう社会のあり方を見せていくということが今アーティストにできる仕事ではないかと思っています。小さなことですが。今回まさかの中止ですが、その分こうして皆さんと話したり、考えたりする時間を持てるようになってよかったと思っています。
ありがとうございます。

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