2020年5月6日水曜日

コロナウィルス にかんして20200506

今回のコロナウィルスに関連して色々新しい試みが起きている。オンライン授業やオンラインダンスクラスやオンライン演劇祭やオンライン運動会。
運動会はなかなかに衝撃的で、zoomとmiro(オンライン会議用のホワイトボード)で4つの新しい種目(元々の企画が未来の運動会種目を作るものだったのがオンラインバージョンで新しいオンライン種目を作ることになった)を作成した。その中にも付箋という新しい身体(ある種のアバター)が入場行進をするなど全員が参加する(せざるを得ない)仕組みを作り、かつパソコンスキルなどに差があるため、できる人ができない人をカバーサポートしなければならなくなっている。それゆえに謎(一緒にいるわけではないので)の一体感と連結感を味わうというものだった。そしてそれをさらにライブ配信するということにより、ある意味新しく外へ開く形を作り出そうとした。
仕組みはシンプルなので、全世界にもそのまま使用できる。世界中各地にいながらにして同じ種目で対戦するというようなことが可能になる。(言語問題はまだ対応できていないが、実際に海外からの参加者もいた様子)。
拡張された新しい身体が生まれる瞬間でもあったように思う。
一方でこれらはあの山口で開催された運動会を知っているからこそわかることでもある。つまり半分くらいは昨年までの記憶と知っている人々の行っている試みだからこそ入ることができるのかもと思う。

静岡のオンライン演劇祭も俳優たちと観客を結びつけるという点で非常に大きな試みだったと思う。ここにいないこと(不在)を明らかにし、また、そこにあることの意味を問う形となったが、それもまた、それまでの記憶があるからこそである。

つまり私たちは予想以上にこれまでの暮らしの記憶に依拠しており、かけがえのない時間と空間を過ごしてきたことを覚えているからこそ2次感動を味わうことができているように思う。
オンラインのクラスでもすでに直接クラスを受けたことがある人であればある程度その人の自主的な判断や意識に委ねて進行できるが、初めての場合はなかなか難しい。リアルで対面したことがあるかどうか、みたいなことは実は結構大事なことなのだと改めて思う。少なくとも現状ではリアルがあるからこそ可能な身体の置き換えであり、それらはシンプルであることにより新しいユーモアが生み出されるくらい別物だ。ただそれはいつか置き換わるのだろうかとうっすら考える。

このコロナの問題はおそらくこれからもしばらく続くだろう。そして次は今の記憶がベースとなっていくのだろうと思う。私たちは今の生活で、あの瞬間と同じようにあるいはそれ以上に日々に感動しているだろうか。今、なんとなく消費していっていないだろうか。
場所、そして人に出会うこと、書物を通じて出会うのでも構わない。自然かもしれないが、毎日新しく感動し続けること。小さな変化に目を向けられるように感度を上げていく必要もあるだろう。

そうして発見し続けていくことができる人はきっと大丈夫。すでにこの危機を乗り越えている。
それぞれの土地で。


余談だが、こうやって見ながら、私は超アナログ形の人間なので、やっぱり身体によっていることを認識する。一人の身体でも感じ取ることがたくさんあるし、それを追わねばならないとも思う。

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