2020年5月27日水曜日

芸術入門2020その2

芸術入門のモダンダンス・表現の自由回、ポストモダン・舞踏回を終えて、とりあえず、
芸術は小さきもの、弱きものが発することができる声であった点。それは生きているうちに評価されるかとか経済活動として成り立つかとかそういうこととは別物としてせざるを得ない活動であることを説明した。
そしてそれに対しもっと遊びでいいのではないかという動きが起き、実験的なことを始めた若者が新しい時代を作っていった。
さらに、それを見てしまった人が巻き込まれ、その衝撃を何らかの形で伝えようとしている様を見せていくという内容になった。

たまたまというか私はダンスでそれを体験し、自分がその長いダンスの歴史を体現している身として現在はレクチャーパフォーマンスを作成しているが(ダンスと体操の境目など)そうなった背景には、これまで関わってきた師、振付家、プロデューサー、劇場主様々な人に教わり、支えられ励まされてきた経緯がある。小さいなりに続けていかねばと思うし、おそらくこの日々の授業もまたトレーニングでもある。(レクチャーパフォーマンスの実践的稽古)命をかけて守ってもらったからこそ命をかけて返す(この世にいない人もいるからこの世の中全体にとなる)だけで、それはポトラッチがまだ続いているんだと思う。
なにせ入門(一般教養科目)なので学生さんには農学部や工学部の学生も多くいるし、芸術でポトラッチ始まっちゃう人はいないだろうけど、それでもボールは投げてみる。もしかしたらそれが必要な人がいるかもしれない。その繰り返し。
きっかけはたまたまだった。大野一雄を見たのもバイト先で拾われたのも。でももっというとこれまで自分が生きていること自体がかなりの奇跡の連続で、こういう生き方はお勧めはできない。が、それでも生きていけるということをただ見せていく。

そういう人は非常に苦労するかもしれない。一般的な意味での平和な生き方からは程遠い。でもそれでも。せざるを得なかったそういう出会いがあるということだ。

芸術ではないかもしれない、小説や絵画かもしれないし、研究や論文かもしれない、どういう形であれ、そのように関わる人に出会えるといいよねと思う。私はそれがたまたまダンスだった。とりあえず演劇だった時代もあるけれど、演劇は言葉の世界で、そこまでの言語能力はなく、言葉じゃないもので伝わる世界を選んだ。今でも、演劇を見ても、パフォーマンスを見ても熱量や距離感や質感に反応している。最近気がついたのは声にも反応している。でもそれは言葉の意味ではなく、声自体が持っている波動らしい。
何れにしても得意不得意があるけれど、何かに特化していくと、それで繋がる人たちが出てきて、そのバランスのようなもので暮らしていくことになる。それはダンス(芸術)を通してでもいいということだ。


世の中の常識や当たり前に疑問を抱き、おかしいよね、と裸の王様にいっちゃう子供のように、アーティストは常に新しい世界を作ってきた。でも、本当はすべての人がそれぞれの形で発していいはずだ。そういう意味ですべての人がアーティストであるという言葉を私は用いているのだと思う。



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