2020年5月4日月曜日

コロナウィルスにかんして20200504

國分巧一郎「原子力時代の哲学」を読む。
ハイデガーの「放下」を取り上げ、原子力の平和利用に皆が盲目となったその1950年代にすでに原子力発電の危険性を看破していたことを指摘する。
原子力発電はトイレ問題(廃棄物処理)、コスト、安全性様々な面で問題があることを私たちは知っている。福島の問題は今もなくなっていない。唯一の被爆国であり、大きな原発事故(解決していない)を抱える日本が、なぜそれでも原子力発電を推進しようとするのか。國文さんはそこには「贈与を受けない自立した生」を希求するナルシシズムが働いていると捉える。
つまり太陽から得たエネルギー(地球上の自然も全て)を人類はもとに暮らしてきたが、そこから自立したいというある種の願望であり、だからこそそこから離れることができない。
問題点を指摘し、危険だからやめる!という反原発の主張は時に新しい大きな声を生み出すことにしかならず、物事を考えないで従ってしまう人を増やしていくことになる。強い意志により思考しなくなるのではなく、その根本を考え続ける必要がある。人は自立はできない。それはあくまで願望に過ぎない。自然(じねん)のまま「贈与を受けない自立した生」を求めてしまう人間の弱さ(欲望)があることを知り、しかしその欲望を乗り越えていくことを目指していく必要があるという。


以上を踏まえ、色々あって野田先生より論座に各文化政策的論点をという宿題が出たので、考えてみた。表現の自由も今回のアーティスト支援問題もなんだか根っこは似ているような気がしている。様々な人がいてよく、まず声を上げる事ができるような環境づくりが必要なのに。ハイデガーって何年まえだよ。つまりはそうそう変わっていないし、もしかしたら時代は逆行しているということなのかもしれない。

コロナ問題でアーティストたちは死活問題となっている。私の友人にもダンス、演劇にかかわらず多く苦労している人がいる。(もっとも打撃を受けているのは劇場主とスタッフさんたちだと思う)。そうして厳しい状況になると「自警団」ともいうべき、公の目を代弁する人が増えてくる。こんな状況でアート活動なんて、税金をつぎ込むなんてと問題視されたりもする。アートは好きで行っているんだから自分でお金出して行えばいいでしょうと考えられがちだ。「贈与を受けない自立した活動」であるべきだと言われる。
私は公的資金による介入及び無意識での「社会活動化」に不安感を覚えるので、自立した活動を維持したいと考えてきた。ヨーロッパで活動してきた身だけれどそれでもそう思ってきた。(だから日本に帰ってきたし、今もこうして2足ワラジを続けている)しかしそれもまた自立を求めるナルシシズムのようなものかもしれないと思わされる。

閑話休題

現状で公的資金の介入のない作品がほとんど成り立たない中ハシゴを外されたときにはどうにもならなくなるだろうと予想される。それを支援する策として映像コンテンツの制作依頼などが挙げられているがそれは防護服をスチュワーデスさんにお願いするのと同じくらい似て非なるものである。期間が長くなり、アーティストが自ら違う何かを求めることはあるかもしれない。しかしそれが第1義ではない。それぞれが生活を維持しながら続けていく術をもう一回考える必要がある。
私はこれはアーティストだけの問題ではなく、税金をいかに使っていくかを考え直すいい機会であると感じる。億単位の支援が出ているとはいえ、国全体の予算規模を思えばわずかである。本当にアートに価値を見出すつもりがあるのであれば、ベーシックインカムを導入し、ベースになる生活を下支えする、その上で生活費を抑えて暮らすことができる地方への移住を促していく。これまでも都市の収入が地方を支えてきたと首都圏の人は思うかもしれない。しかし首都圏での暮らしは地方で育った子供たちが担っているのであり、物流、人材、消費ともに地方から噴水のように吸い上げることでこの国の経済は成り立ってきた。福島の原発問題の時にも同じことが言われていたではないか。なぜ危険な思いをして東京の電力を支えなければいけないのかと。Jビレッジをはじめ様々な施設、お金を払ってきたというかもしれないがそれもまた命と比べれば小さな金額に過ぎない。
今回各地方が出した支援策をみると、鳥取県は頑張ろうとしているけれどかなり厳しい。それは明らかに税収も、人口も(アーティストも県全体も)少ないからだ。病床数にも言える事だが(こちらは鳥取県は頑張っていると思う)地方の経済情勢ではホテルを丸々刈り上げてそこに何億と注ぎ込めるはずなんてない。結局お金のある都市部というのが浮き彫りになっている。

今回のことで首都圏が負担を大きく抱えていることを知っている。都市生活ゆえに伝搬し、その生活を変えない限り防ぐことはできない。本当にその仕事は首都圏でなければできない事だろうか。また、そもそもその仕事を一生続けていくのだろうか。そうしたときに今のこの国の制度では「自立」を求められるだけで「支え」はない。そういう不安が貯蓄を増やし、身動きができない人を増やしてきた。そんな中でも皆自分たちのこととしてなんとかしようとしてきたが、アーティストだけではなくすべての人が等しくある程度の自由度を得るための制度に切り替えていく必要がある。
アートの支援として考えるのではなく、生きることへの支援を構築し、それがアーティストが生き延びていくことにつながるということだ。お金をもらうことの意味をそれぞれが考え、還元する事ができればいい。つまりこの施策は各人が税金を払うことの意味を考え続けるためのものでもある。
国の政策というものは人々の幸福に対する大きなビジョンを示すためにある。
そもそも幸福とはどのような状態を指すのだろうか。

文教予算(5兆5500億)と防衛庁予算(5兆3300億)が同じ規模であるこの国。オリンピックで1兆3500億(延期になりさらに膨らむ事が予想されている)。
ものすごく大きく変化した幼稚園保育園の無償化ですら4000億円程度で行われている。
そこに対し現在アートに関する支援として打ち出されているものは東京都の5億とか横浜の3億。そういう違いをきちんと見極めた方がいい。

このような大きな変化が求められるときに対応できる人とできない人に別れるだろうと私は思う。私はどちらかというと古いタイプの人間なので、身体から離れる事はできない。一方で新しい想像の世界へと飛び越えられる若い人もいるだろう。そうしたときに飛び越えるのがいい事なのかどうかはアーティストとしては大きな境目で、よく考えた方がいい。時代の流れに乗る事がいい事なのかは誰にもわからない。


私個人のこととしていえば、お金をもらうもらわないではなく、私は作品を作り続けるだろうと思う。それは思考を続けていく過程で生まれてしまうものであるからだ。ものの見方の指摘であり、発想の転換であり、規模は小さい(レクチャーパフォーマンスなんて予算規模は1500円だ)。小さいながらも身体と向き合い、毎日身体をひらき、思考していくというだけのこと。人は自然(今度はしぜん)から離れることはできないし、あくまで1生命体に過ぎないことを悟った上で、その声を聞き続けるのが私の仕事であると思っている。不器用ではあるが、そうして道を開いてきた。私の意志というよりはそうなっていくのであって、そう見えてくるものだ。芸術とはもともとそういうもので、人が何か作ろうなんて思いあがっていると私は思ってしまう。

ただ政策として多くの人を導くのであれば上記のようなベーシックインカム型でかつ緩やかに社会活動へと誘導していくのが良いのではないかと考える。アートが語源に準拠して人の生きる上での技術でありまた知恵であるとするならば、そして宮沢賢治の言うようにすべての人がその種子を持つならば、花が自ずと咲くようにその土台を作る事が政策として行う事だと捉えます。




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