2020年5月11日月曜日

言葉について

私は言葉化することが苦手で、おそらくだから踊っているのですが(両親曰く、言葉が出なかったのでダンスを習わせ始めたという逸話も)今回いろんな意味で学びました。

とある展覧会で依頼を受けて作品制作をしたのですが、結局様々な条件が合わず出品を見送ることになりました。一応作品は作りましたがお蔵入りです。
合わなかったので仕方がないと思っていましたが、そのうちのアイデアを無断のまま部分的に使って展覧会は開催されていることに気がつき、抗議を行うことになりました。
実際に契約書を交わしているようなものでもないですし、アイデアの元自体は皆さんもご存知のような題材なのですが、あえて自分のことを消して元素材だけ使われるのは悲しく感じたのでした。(のちに色々やりとりし、悪気はなかったこともわかりました。)
弁護士さんに相談し法的な問題ではないことを踏まえ、率直にお話しするべく、珍しく言葉を選ぶなどを行いました。法律には当たらない、でもこれはモラルの問題としてお話ししなければいけないのではないか。私自身は元々あまり争うことが好きではなく、争うくらいならどんどん自分の存在を消していく傾向があるのですが、周囲が心配したり怒ったりしてくれて、あえて一歩踏み出すことにしました。また、この過程において、今回法律には当たらないものの法律というものの考え方があることでかなり助けられたのは事実です。私は法律とは物事をすべての人に理解してもらうために言葉を尽くした結果なのだという当たり前のことに気づきました。
逆にいうと解釈を閣議で勝手に変えてしまうみたいなことはやはりおかしいのです。それまで続いてきた歴史を踏まえて法は成り立っていて、この政府がこれまでの歴史や公文書を残すことの意味を理解できていない様子がもろに出てしまっているとも思ったのでした。

ダンスは言葉を超えて理解し合う力がありますが、直接会うからこそできることだったりします。(今はzoomのような文明の力もあるけれど本質的にその人の身体から出るオーラのようなものを私は信じています)一方で言葉は歴史とともに積み重ねながらすべての人との共通認識を作り上げる方法論だったのだと思うんです。本や論文、公文書という形で残し、時間を超えることができる。つまり積み重ねることもできる。それがダンスはできない(身体に残る記憶しかない)んですね。だから文字通り一期一会になっちゃう。
元々自分が演劇人だった時代や学校教員だったことも含めスタートしたレクチャーパフォーマンスシリーズですが、言霊みたいなもので、原稿などもなく一気に語り尽くします。(一応制作過程やリハーサルで精査しますが)しかし言葉に厳密にいうならばもっと選ぶ作業が必要かもしれないとも感じました。

今回改めて言葉や法律の力について学びました。
ここしばらく(憲法記念日の時にも書きましたが)憲法や法律というものを読みながら、あまりにも多くの情報に囚われて、その元になっている文章を読んでいないということにも気がつきました。
映像や写真などの方がはるかに多くの情報を与えることができるけれど、その抑えられた文面にもう少し着目しなければいけないのではないか。言葉に疎かった(今も疎い方)自分にとっては大きな学びでありました。


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