修士論文を書いている時にふと劇場形態の変遷についてみることになった。
ルイ14世の頃は皆が同じ高さで、王様を囲って円のようになって歩くような踊りであったらしい。その中心で王様は太陽として輝くのだそうだ(それゆえ、彼は太陽王と呼ばれるようになった)。
ついでにいうと当時バレエは身体を鍛えるのに欠かせないもので、うまい踊り手は強いという意味も含んでいた。どうしてもルイ14世はおどりバカ的なイメージを持たれてしまうが、そんなことはなかったらしい。
そのようなフォーメーションダンスも見る人と見られる人に分かれるようになる。観客が登場することでだんだん見えが良くなるように工夫され、結果的に見る人は見下ろす形になったという。そのうちルイ14世も踊らなくなり(お年のせいでしょうか、自分は踊らず人に踊らせ見る側にまわる)、うまい舞踊家を作り出すことを考えるようになっていったという流れ。(職業舞踊家の誕生)
俗に言う額縁舞台(プロセニアム)になるのはもう少し後の話。同じ高さから上から見下ろすようになり、前(正面)ができ、暗闇にまぎれていく。
今回病院だったこともあり生と死が大きなテーマになっていて、それはまた後日書かねばならないが、もう一つ視線について考えていた。
小部屋の部屋はひとつを見ると他の部屋で何が起きているかはわからない。
見えることが全てではなく、見えないからこそ私たちは想像する。
また私たちはその見るという行為によってすでに対象を取捨選択している。実際の生活でも2つのことを同時にできない(できる人もいるけれど)。同じように同時並行で物事は進むが、常にすれ違ったままかもしれない。
写真や映像は私はこういう風に見ていますといって切り取る。でもそれは一つの見方であり、もしかしたらその場にいるあなたはまったく違うものを見ることになる。
パフォーミングアーツやライブの音楽、ダンス、演劇などは毎日変化していくが、同じ時に見ていたとしても見ているものはまったく異なるかもしれない。
だから終わった後に話したり、考えたり、人と過ごすとより面白い。
そして私が考えた意図なんてはるか超えたところでまったく異なる何かを発見してくれる人に出会ってしまえたらちょっと嬉しい。
刺激を受け取るだけではなく、想像力が必要になるからちょっと疲れるけれど、見えることは全てではない。そして見えないことの中に本当に大切なものはあったりする。
その昔まだ学生だった頃、高校時代の友人と舞台装置の話をしていた時に「夏の夜の夢」だったら上から見下ろす感じいいよねと話したことを覚えている。(その時の友人2人は二人とも照明家になった。当時から見せ方のプロだったとも言えるし、既にそういう傾向があったのかと最近思う)観客は神様のように上から見下ろす。神様の目線。いつか惑星ダンスを作るんだったら上からと下からと両方の視線を作りたいと思っていた。今回は短く終わってしまったけれど、重要なポイントだと私は思う。コンテンポラリーダンスとはものの見方、捉え方。もちろんいろんな人がいていいけれど、箱女くらいからずっと同じようなことを言っているような気がする。
0 件のコメント:
コメントを投稿