2019年12月31日火曜日

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○鳥取夏至祭についてはこちら
2018年鳥取夏至祭は6月22、23、24日で設定する予定です。募集などの詳細は後日お知らせさせて頂きます。

○大学用HPを作りました。詳細はこちら

公演予定などは今後の公演予定をご覧ください。

○Dance Potlatch ダンスのおくりもの
DVDを販売しています。(驚きの500円)収益金は踊るキノコ基金にまとめられ今後の活動へと生かします。
くわしくはこちらをご覧下さい。
お問い合わせをいただくのですが、送料のほうがかかってしまうため、東京、神奈川の方はBankART studio NYKショップ(馬車道)もしくは綜合芸術茶房喫茶茶会記(四谷三丁目)にてお買い求めいただくようお願いしています。うちのお店でもおけるよという方いらっしゃいましたら、お知らせください。
なお、札幌圏はキノコチケット札幌、鳥取はキノコチケット鳥取で対応しております。
ご希望の方はキノコチケットkinokoticket@gmail.com(@を英数字に直してください)まで。




20th sentiment ( Sapporo Biennale pre-event) film : Katsura Ishida

Mobius鳥取編(Chicago Moving Company 2016)film: Yusuke Sasaki
Mobius東京編(Chicago Moving Company 2016)film: Yasunobu Nakagawa

このページはダンサー木野彩子の現在の活動をブログとして紹介しています。
プロフィールの詳細やこれまでの活動につきましてはおどりこさいこ(http://saikokino.blogspot.jp)をご覧下さい。

This page is Japanese dancer Saiko KINO 's blog. Sorry, this blog is Japanese.
If you need to more detail of Saiko's work, please check Dancer Saiko page(http://saikokino.blogspot.jp), and click the label.


2019年1月17日木曜日

未来の体育を構想する

未来の体育を構想するシンポジウムに行ってきました。(1月12日お茶の水女子大付属小)
とても興味深い内容だったので、簡単にシェアします。

そもそも体育とはなんだったのか、ということを考えている人たちが集まっている会でした。特に体育がスポーツへと変化しつつある中(一応現在は広義のスポーツとしてダンスが含まれています)運動能力ももちろん大事だけれども、体育がすべき内容はもっと大きいのではないかという印象を受けました。参加者は小中高で教員をなさっている方、地域でスポーツ指導をしているNPOなどの方、運動が好きな(嫌いな)地域の人、運動機器メーカーの方など100名以上が集まっていました。実は私を含めかなり遠方(宮城、大阪など)から来ている方も多かったです。

その中で取り上げられているのは体を通じて考えていく哲学のような要素、また言葉を超えて人と繋がること、新しくルールを作ったり、種目の枠組みを作るような創造力をつけることなど体育と呼ばれている授業ができることは他にもあるのではないかということです。
AIなどが浸透し、誰もがスマホで様々な情報を得られるようになる今、体そのもののあり方を改めて大事にすべきではないか。

実際に現在の指導要領はかなりそのような視点を取り入れており、障害を持っている子供達などが参加できるようにグループで種目のルールを変えたり、練習方法を考案したりというような内容も含めて授業は展開されることになっています。が、特に小学校は保健体育専門の教員とは限らないし、種目に偏りが起きたり(単元としては扱ってはいても熱量が異なる)ということが起きてしまう。
そして実際の現場の声としてやはり評定をつけなければいけないため、何らかの技術向上あるいは達成感を味わうためのトレーニングに重きが置かれているというのも挙げられました。カイヨワによればそもそも遊びであった体育に評定をつけなければいけないのだろうか。様々な運動能力、身体条件を持っていても、皆で楽しく自由な時間を共有するためにはどうしたらいいかを考えることの方が、今の時代において重要なのではないだろうか。評価は必要かもしれない。個人の努力、モチベーションを引き出す上でも個別に設定していく必要はある。でも集団の中で評定をつける必要はないのではないだろうか。

後半ではスポーツを作るということで、運動会協会、ゆるスポーツ協会などの活動が紹介され、様々な”面白い”の模索の仕方が見えてきました。運動会の種目そのものを作ってしまう。新しいスポーツも作ってしまう。そこに様々なテクノロジーや美術の要素も混ぜつつ、笑いと意外性を取り込みながらみんなの頭をフル回転させる。こうなってくると体育の枠組みも超えてしまう。
その中でお話ししてくださった運動会協会の西さんはもともとはEsportsの仕掛け人でありプレイヤーでもあったそうで、ファミコン第1世代とも言える(おそらく年代的には私よりも上)テレビゲーム、パソコンにどっぷり浸かっていた世代。それを極めていながら(実際今も大ブームだ)その人が身体へとシフトしたことがとても興味深い。頭も体も全てを使ってフロー体験を味わうのが面白くてたまらないそう。

フローというのはチクセントミハイが提唱した自身の能力を少し超えたところを経験する時に起きるハイテンション。感覚が敏感になり、様々なことがつながってくる感触で、スポーツ選手などに経験者が多いが、レジ打ちのような単純労働においても、知的活動においても起こりうる。私自身の感覚としてはものすごく時間がゆっくりになったような気がするという現象。微音だけれど自分にだけははっきり聞こえる(作品"Edge"初演時の感覚)状態に陥る。

楽しいとはどのような状態だったろうか、それを身体を通じて共有する。それがスポーツの文化であり、可能性でもある。もちろん競技ルールを覚えたり、それを知った上での楽しみ方もあるけれども、その前の身体が面白がるところを体験できれば特に小学校段階の体育は十分なのではないだろうか。そんなことを思いました。


個人的にはからだ科とか名付けて、からだを使って考えたり、瞑想したり、スポーツや様々な身体表現などもあわせて体験型学習として拡充させたいと思ったりもします。どれだけAIが進化しても、私たちは自分の身体から離れることはできない。つまり、身体からしか考えることもできない。快不快を決める最大の要因は私たちの身体がどのような状態にあるかで決まるという当たり前のところに落とし込むと、身体について知り、学ぶこの体育という枠組み、スポーツに狭めてはいけないよなと心から思うのです。













2019年1月16日水曜日

なんのために作品を作るのか。

なんのために作品を作るのか。

自分の訴えたいことを表すのだと私は思っていた。
でもそれはモダンダンス(ちなみに欧米ではモダンとコンテンポラリーの差はない)の領域で、ドイツ表現主義に基づいていると気がついた。
私はなんで踊るのだろうと思っていた。
そもそも訴えたいことがあるのであればダンスではなく言葉を用いた方が良いだろう。私自身が演劇出身であるということを差し置いても。

たまたま先日体育のシンポジウムであったスポーツ系同窓生に抽象ゆえの面白さを指摘された。わからないからこそ、受け取った人の創造力が必要とされ、そこから会話が生まれるのではないかということ。
言葉を超えて通じてしまうことを多分私は信じていたかったのだと思う。

訴えなければいけない題材があれば踊ることができる。
きのうたまたま京都でお会いした人に、見にいけなかったけれど、あの作品(建国体操のレクチャーパフォーマンス)でフェスティバルがしまったのよとコメントをいただいた。現実問題として体育の中のダンスは必然としてあるとしても、芸術の中にもダンスがあるべきであり、その枠組みが今できなければ、多くのダンサーたちの仕事に関わるのではないか(アーティスト派遣事業などでも利用できる時間枠が限られてしまうので特に中高へ拡大させていくときに大きなポイントとなる)現在の自身の作品も運動要素は皆無に近い。これはダンスと呼べないのだろうか。私自身のアイデンティティのためにも踊らねばならないと考えた。
建国体操は扱う時代のせいもあり(それは現代を照り出している)檸檬のように少し苦い。ユーモアや笑いもあるが(バスガイドだしね)、それだけではない。エンタメとしてはもっと甘いマシュマロのような、あるいはディズニーランドのような作品の方がもてはやされるかもしれない。激しいダンスの方がすごい!となるかもしれない。でもコンテンポラリーダンスの作品としては今の問題点を切りだし、そして一緒に考えるための情報提供を行うものであると思う。だから私の考えを押し付けるのではなく、言葉を引き出すことを心がける。その形はダンスでは難しく、レクチャーパフォーマンスになった。言葉が必要だったのである。

死者の書は訴えることとはちょっと違う。どちらかというとモダンダンスに近い。劇場芸術として行うべきこと、また初めて舞台を観る人に見てもらう事を考えるとどうしてもこのような形を取らざるをえない。でも、その中には劇場芸術としてのダンスとは何かが含まれていく。
私は私が動くのではなく動かされるということを考えていた。
これは死者の書の前から、ずっと私ではない何者かと対話し、作品を作り続けてきたことに由来する。イギリスで作った『IchI』は私(I)と私(I)の間に挟まれている何ものかの存在(あるいは私の分裂)を、日本の怪談をイメージしながら、一般の人にわかりやすいように説明しようとした。大学4年の時に制作した『月に立つクローン』は卒業公演でできなかったソロワークに牧野先生が名前をつけてくれたものでもある。私の分身が月にいる。近くにいても遠くにいても私は常に何者かと共に踊っているという感触、それゆえに私は踊り続けてくることができた。
物語をみせようとする演出的な意図ではなく、その中にいかに没入するかを目指し、またそれを言葉化する再読を行っていく。お客様のための構造や解説を作り最小限を確保しながらその先を目指す、だからこの作品は終わることはない。(ただし公演はそんなに頻繁には行えない。例えば今回も私は髪を切ることになり、出家だなと思った)つまり、この作品は自分自身の探求のためが大きい。探求と言うよりは憑依の現象を分析すると言う試みでもある。普通の人はあまりできないししない。日常生活に困るから。でも今ならギリギリできるかもしれないと試みる。

この世の中は忙しい。
そんな暇はない。その中で、これだけの時間を割き、踊り続けていくということは普通の暮らしの幸せを逃しているのかもしれない。だから子供達には勧めない。でもそうとしか生きていけない人もいて、そのためにこんな形でも生きていけるという可能性のために今は存在していると思う。


京都(1月14日京都造形大)でシャンカールさんの作品を見た。インドのカースト制を扱った作品で、彼自身の拠点もジャングルの中の不可触民と呼ばれる人々と接する中間点に置きながら表現を模索しているという。(アフタートークで当事者研究という言葉が日本語なので英語でもToujisya studiesと呼ばれていることを知った。当事者性を考え、またその問題提起としてその場所を選んでいるのだと思う)世界各国で公演を行っているがインドでは6公演(2箇所)とのこと。もともとヨーロッパでのフェスティバル用に制作されている。都市部では「そういう問題あるよね」と受け入れられるけれども、そう簡単ではないとのこと。
今まで見えていなかった問題を明らかにしていくという意味で、意味ある行動であり、それを訴えるためにも作らざるを得ないのがよくわかる。一方で、それが難しいというインドの状況もよくわかる。それでもその苦味、それは「いま私たちが作らなければいけない必然」につながっていて、それこそがコンテンポラリーなのだと思う。

世の中はそんなにファンタジーじゃない。
お客さんはファンタジーを見に対価を払うというかもしれない。だからディズニーランドが成り立つ。2.5次元ミュージカルも流行る。経済的にも人気の上でもそういうものもあるべきだ。
それでもきちんと生き、生きることを考えるために踊るダンスがあっていい。ダンスでなくてもいい。演劇だろうと、文学だろうと。いまの哲学ブームはちゃんと生きたいという欲求のあらわれで、メディアに踊らされないで立ちたいということなのではないかと私は思う。

苦味は大事だ。
それを飲ますのはある種のユーモア、笑い、エロ、何れにしても何かが必要。でもその根本の苦味をなくしては表現をする必然性も失ってしまう。
あなたは何のために作品を作りますか?

2019年1月14日月曜日

年末年始

年末年始
実は死者の書の後ダメージが大きかったのか、なんなのか、なかなか回復できていなかった。今週になってやっと人に会うことができるようになり、回復してきたところ。
3年ぶりか4年ぶりで札幌に一回帰って、両親に会ったり、死者の書ゆかりの四天王寺や當麻寺にご挨拶(初詣)に行ったり、そうしたらまさかの橿原神宮が近かったので(こちらは建国体操の会場)それも行って宗教混合になった正月でした。

あの公演で起きたことはなんなのか、体で感じた感覚を大事にしたく今でもまだビデオを見ず、言葉を選んでいる状態ではあります。確実に何かは起きていて、でもこれをどのように捉えたらいいのか。

少しずつ言葉にしていこうと思っています。
多分こういうものを作ることができたのはとても幸せなことだと思います。そして作らなければいけなかった。皆さん本当にありがとうございました。

構造を作りそこに身体を放り入れる、それはEdgeも建国体操の時も同じです。ただし、今回ここまで舞台作品にしてしまったことで、また個人作品ではなくなったことでちゃんと言語化しきれておらず、迷惑をかけてしまいました。それでも言語化しきれない領域で、また、”見せる”という感覚を捨てなければできない領域だったんです。
一般に舞台公演はお客さんにどういう印象を残したいか、何を見せたいかを突き詰めていきます。それが演出です。
しかしわたしが出来ることはただそこにあり、そこに感じたものをそのままに感じ、受け止めること。演出不在のまま作品を作るということでもあります。2日間3回曼荼羅を描いていますが、毎回その時の感情は異なります。
舞台公演として本来は作品は固定化していくことを目指します。しかし、私はそれができる状態ではなく(かつてはもっと固定できていたはずです)、何かに呼び寄せられていました。プロとしては失格です。
落ち込み具合はただ事ではなく、これまでも作家として楽しかったと思って打ち上げを迎えられたことはないのですが、今回は本当に辛かったです。
集客でも見込みを超えて当日客が増えてしまいいろんな方にご迷惑をおかけしてしまい、そもそも踊る人が制作をやっていること自体も異常なのかもしれないけれど、舞台公演はもうできないなと正直思いました。

ただそれでも、一応舞台で踊る人であったんだということを鳥取の人々に知っていただく上で、また銀河鉄道祭は私は裏方なので、本当は踊る人だということをわかっていただくためにもやらねばならなかったんだと思います。


関わってくださった皆さんに感謝して。
ありがとうございました。