2017年7月29日土曜日

SPAC enfant2017スタートしました。

2010年から関わって来たSPACの子供達プロジェクト今年もスタートしました。
無事オーディションも終わり約1ヶ月のクリエーションに入ります。
木野は鳥取から通うのが難しく(昨年かなり無理しました、実は大学はまだ夏休みではなく来週いっぱいまで授業があるのです)、今年はSPAC制作部に入った大田垣さんにバトンタッチ。でも大田垣さん、バリバリダンサー。なんでこの人制作部なのかわからないのですが、とにかくいるのでお願いすることになりました。フランス語も堪能。ダンサーとしての目もバッチリ。この数日のリハ、打ち合わせでニヤカムさんを確実に掴んでおられ、超安心です。「そうそう、わかるー」と同意すること多数。とても嬉しい。

子供達の今年の課題としては各人が表現者として立つこと。ニヤカムさんに言われたことをとにかく頑張るだけではなく、自分の解釈を持つこと。それを表せるようになることではないかと私は思っています。
そのためにもフランス語がネイティブなニヤカムさんと少しでもダイレクトに話せるようになってもらいたいと思っています。
子供達はまた「でかく」なり、それぞれ進路など悩みを抱えつつ(それを聞く会でもありました。特に卒業生)、前に進んでいます。一期一会ではないですが、この1年ずつがどれだけ大事か。それと同時に演劇ではなくダンスを目指す子達にはやはり海外を進めねばならない現状が辛いところ。
私自身も海外経験者であり、若いうちに行き、ネットワークを作らなければならないのはわかるのですが、、、。
大田垣さんは15歳でフランスに渡ったと言っていました。ジュリー(元同僚)もニヤカムさんも14歳からプロとして働いていました。30前にすでにベテランの中に超初心者、英語も怪しい人が混ざったあの気まずさ。そういう環境であるだけに早くと思いつつ、踊ることが仕事になればいいのか私自身もよくわからないということもまた感じます。
卒業生ともなんのために踊りたいか、なぜ踊るのかという話をしましたが、正直私自身も何が幸いかはわからないのです。自身の立場もあまりにも運やラッキーの重なりでできていて、危うい感じなのです。同僚とも自分のようにならないように育てないとダメだよねという話をするくらい、私が今なぜ存在できているのかは謎です。

私自身が関わったのは7年ですが、ブログにニヤカムさんとのツーショットも載せていただきました。(多分初めてだと思います)
http://spac.or.jp/blog/?p=23297

不在の在にならないように。ちゃんと子供達に託し、前に進めるように。


追記:今でも毎日送られてくるスパカンノーツをドキドキしながら読んでいたりします。子離れできない親のよう。

い族の踊り

昨日のことだが、大学のプログラムで中国と台湾の子たちの授業を1コマ担当することになった。
コミュニティダンスをテーマにということでイギリスの事例(特にオリンピックに重ねてのコミュニティダンスの広がり)や先日行った鳥取夏至祭の話をする。
ついでだからみんなで身体を動かしながら3カ国の学生のコミュニケーションづくりを促す。言葉使わないまま暮らして来たしねということもあり、中国人にも台湾人にも日本語で話す(英語よりもまだ日本語の方がわかるというのがまたすごい)

先生方に頼まれたこともあり、1曲踊ることにする。初めは無音でテキストだけにしようかと思っていた。中国系の曲というと蘇州夜曲くらいしか思い浮かばなかったけれど(戦時を思い出す内容なのでさすがに使えない)、たまたま読んでいた本に雲南省のイ族の詩(姉妹の歌で正直イスメネにぴったりで送ってあげたりする)が載っていて、同時期にCD(詩とは別の琴による演奏だが展開がはっきりしている7分ほどの演奏)も出てきたのでそれを元に踊ることにする。時々こういう偶然が重なることがあり、かみさまのおぼしめしという言葉が浮かぶ。
喜んでくれたのはとても嬉しい。

感想を聞くと鳥のようと言われる。鶴なのか、鷺なのか。鳥捕りの踊りを作るために鳥取に来たのに(笑)鳥の方なのか。。。

鳥捕り募集しようかな。
 追記:↑と書いていたら、鳥博士が来ることがわかり、鳥取部、鳥捕りの由来についてお話しを伺うことになりました。


2017年7月25日火曜日

幻想銀河鉄道

昨日夜から鳥取は雨です。
大雨警報まで出ています。(が、今の所私は降られていないです)雨の神様怒ってそう。。

ともあれ、銀河鉄道について語って来ました。
始まりは高校時代、北村想原作の戯曲を元に出会いました。私は車掌役をしていました(通常の銀河鉄道にはない役です)。
この車掌さん役は原作の第3次原稿に登場する博士役も兼ねており重要な役柄ですが、多分学ランが似合うからとかそういう理由で選ばれました。(ちなみに当時ある種異常なモテ期で顧問の間でファンクラブがあるとか、著書が送られてくるとか謎の状態でした。宝塚のような話です)

2012年に舞台にあげる予定だったのが様々な事情(自身の潰瘍性大腸炎の再燃が主)でできなくなったものの、せめて地域の人と作ろうとしていた部分がAmanogawaプロジェクトでした。当時の記録はウェブ上にあげています。
https://amanogawa-project.jimdo.com

サザンクロスの様子が思い浮かびますが、その後巣鴨教会での上演(からたち)を行い、地元の合唱団の人に協力願い上演し(からたちから)、そうこうしているうちに、私が作っているものは全て銀河鉄道に繋がっていくようになりました。

からたちからは皆死んでいく中、私はずっとそれを見続けるしかない。
叫んでも叫んでもそのように動いていくしかない運命を見て、ごめんなさい、神様に助けてっと聖餐台に転がり上がるような作品でした。

一つ一つの生命の火を消しながら、その声を聞いていく。
ずっと見送り続けていく、そして車掌自体は汽車から降りることはないので永遠に回り続けていくそんな役割だったのだと思います。


お金の問題じゃなく、これちゃんといつか形にしたいなあと思いました。





2017年7月8日土曜日

鳥取デビューです。

昨日、2017年7月7日、鳥取デビューをはたしました。
メビウスも夏至祭も実は踊ってなくて、全てをつくり、照明までして作品にしてる。
昨日は照明しつつも1人で踊りました。
学生の希望者が多く、広報はほとんどしないまま。
でもこの学校からスタートすることはある種必然。
もしかしたら最初で最後かもしれないけど。

私はなぜ全て1人でしなければいけないのかと考えました。
この地ではプロデュース力が必要とされているので、私は踊る必要はありません。



くしくも七夕。
まっすぐ前を見て。ちゃんと生きますように。

翌日気が抜けたのか雨が降る。
(でもスコールにあわずにすごし、かつ家に着いたら降り出す)
でもさすがにそろそろ梅雨入り(遅すぎ)。ゆっくり休みましょうということかなと思っています。

今日も月はでています。


2017年7月6日木曜日

動かされる感覚

夏至祭以降鳥取は異様な晴れが続く。時々一気に降るのだが、また晴れの日が続き、梅雨が吹っ飛んでしまった様子。(一方で大雨に悩まされる地域もあり、非常に困ってしまう)何かよくわからないエネルギーのようなものを感じる。

ここしばらくは移動が続いている。
方違えではないけれど、何か必然的に動かなければいけない時というのがあり、バランスを整えるために、見越して動く。
Mobiusで気がついてからは結構気をつけるようにしている。今ここにいなければいけない必然や動かねばならない瞬間やそういうものは全てのバランスのようなものの上に成り立っている。うまい具合に昔からの友人と話ができたり、新しい出会いがあったりするので、そういうものなのだろう。

今日は鳥取。授業をこなし、最近のカルチャー研究会で日本のコンテンポラリーダンスの歴史について語り、そして踊りつつ、今私がいるところでとにかくこのわけのわからないエネルギーを発散し続けてみる。とりあえず友人も来てしまうし、コンサートも入れてみる。普段基本的にいつまでも寝ているパンダ体質なのに、動き続けている。そして突如訪れる謎の昏睡状態。この3月末くらいにもわけのわからないざわざわ感があった。何に私は動かされているのだろうか。




山口で発表した作品「みみをすます」はこのやばい感をちゃんと収めるために、心をしづめ、遠くの気配に意識をまわしていくところからはじまった。最終的には自分の朗読も含めある意味作品の表現方法というか手法という点で大きなチャレンジになったのだけれど、わかったこと自体は近くにいても遠くにいてもどこにいてもつながっているということだった。しかも一つとか一人ではない。
この動いている状態の時にはちゃんと認識しきれていなくて壊してしまったりもするし、それも必然であったりするという。
私はまだちゃんと固めきれていないのだけれど、作品として見えることと、作品制作過程で私が得るものとは異なってしまうことはある。まだまだ踊ることで学ぶことは多い。






2017年7月2日日曜日

コンペというもの。

私自身がかつてコンペティションに出ていたし、その時頂いた賞が元で生き方が大きく変わったことは事実であるので、世の中の流れを否定することはできない。

が、私はダンサーとしてこれまで経てきた経験を踏まえると、コンペにとらわれないで踊り、作品を作り続けられる環境を作り出すことの方が大切ではないかと考えている。それは経験を経たから言えることでもあり、うちの学生さんや若い子たちには駄目元で出してごらんなどというのだけれど。
友人が新しくダンスのコンペティションを立ち上げ、優勝すると海外公演ができますという。すごいなあと思う一方、私たちは他者のダンスに優劣をつけれるのだろうか?と疑問に思う。そして海外公演をすることは”優勝”しないとできないものなのだろうか。

ランコントルコレグラフィックセーヌサン・ドニ(旧バニョレ振付賞)はかつて横浜でプラットフォームを行っていた。ある時を境にコンペ形式をやめアーティストたちが出会う場所として機能し始めるようになる。それに対し、横浜側はコンペという形式を維持しようとし、それゆえ離れていった経緯がある。(これは故石川さんとお話をしたおり、コンペという形態をとるからこそ質の向上が図られると聞いている)
その後ダンコレはアジアのショーケースとして機能するべく、部門を2つに分けたり、海外プロデューサーを招いたりする形へと変化していった。実際そこから国際共同制作につながっていったりもしている。
選出は様々なタイプのダンスを紹介していくという傾向があり、本来は賞を受ける受けないはあまり関係ないはずで、今現代のアジアのダンスを幅広く紹介するというものである。が、賞を出すとなるとそれが素晴らしいかのように見えてしまう。このセレクトの方向によってはダンスの傾向が偏っていく可能性もあり、非常に難しいことだと私は考えている。

様々なダンスがあって良い。そしてその多様性こそが現代を表しており、それを受け入れていけるような世の中を作っていくこと。そのような思想とは実は逆を行く流れではないか。ダンスは模倣とめまいの遊びから進化してきた(ミミクリ・イリンクスとカイヨワはいう)。競争の原理が働くとスポーツ色が増していく。技術的な向上も起こるだろう。それを目指す一方で、そもそも自分はなぜ、何のために踊るのかをもう一度考えてみてもいいのかもしれない。

アシュフォードさんのAero waveはその辺りを上手くかわしてネットワークを形成している。応募されたビデオを20を超えるで参加ディレクターが見たのち、会議により推薦アーティストを20組ほど選ぶ。その中から各ディレクターがプログラムを立て、結果的に海外公演、ツアーを組み立てやすくする。各ディレクターの色や押し出す方針を尊重しつつ20組を選ぶことで現在のヨーロッパにおけるダンスの流行を示す。
誰かが勝つ、負けるではなく、
それぞれに突き抜けた面白さがあるはずで、そういうものを合わせて紹介するのがフェスティバル(Spring Forward)。
もちろん問題点も多くある。でも継続していくことで見えていくことがある。
Place Prizeをへてここにたどり着いたアシュフォードさんの知恵はアジアでも活かせるのではないだろうか。もう、賞にとらわれている時代ではないと一アーティストでありながら私は思っている。