2014年5月31日土曜日

足首


ホーゲさんワークショップ帰りの電車で同じようにワークショップをうけていた和田さんという方にお会いし、感想などを話し合う。歩いていて床に手をつくというときに「あなた浮きながら手をついていたでしょ」と指摘される。
更に「足首がきになったんですよ」とのこと。

大分前に足首について書いたことがあるように私もかなりの足首チェッカーだ。フェチとはいわない(と思う)。個人的には最近稽古をさぼり気味(少なくともモダンダンス的な意味合いでは)と思っていたのでちょっと意外。はあ、そうですかなどとききながら、確かに足首で大体わかるよなあと思う。
大地からエネルギーを吸い上げるということもあり、一番分かりやすい場所なのかもしれない。

浮きながら手をつくについては疑問は残るがとりあえずアフリカンダンスのせいかもと話してみる。その昔矢田部さんにあなたアフリカ人と同じ姿勢がとれているといわれたことを思い出しつつ。思えばかなり特殊な身体の使い方をしてきたものだと最近思う。普通の人に話しても絶対わかってもらえない。
さらに誰かの身体に応用もできない。
更に最近は「自分を動かす何かの話し」をしていて余計にわからない!といわれる状況。


ただ足首に関していえば大体いいダンサー足と問題あり足を見分けることができる。
問題ありはケガをしやすい、あるいは極端に固いなどを意味するが、
それとは別に普通足も見分けることができる。
この足、話しかけなければ!みたいなことが正直ある。(でもあまり足首をみることはないので実際に話しかける事は少ない。神大学生さんなど密かにチェックしているがなかなかいない)
あと最近感じるのは立ち姿勢の重心位置。
「真人はかかとで呼吸する」の話しではないが大体どの立場にいる人かはわかる。イタリアのコメディアデラルテの人が話していた身体の作り方と同じである。(なお身体の体勢をかえることによって人格性格を変化させていくこともできるらしい)

なんと!
適当にふらふら普段暮らしているが誰がみているかわからない、ということだ。。。
恐るべし。


ホーゲさん(大野一雄研究所でのワークショップ)

老いと踊りというシンポジウムをききにいく。
http://agingbodyindance.tumblr.com
ただし学校の都合もあり私が参加できたのは1日目のヤナギミワさんまでで、しかし大好きなライムントホーゲさんは捨てきれず、大野一雄研究所のワークショップへ伺う。
(余談だがヤナギさんはやはり伝統芸能に興味を持ち毛越寺延年の媼の話しがでてきた。翌日には鎌田東二さんの話しがあり、日本の伝統芸能しっかり調べなければと思う)

西洋の価値観ではタブーにされていた老い、そして死。
それに目をむけたのが舞踏、つまり価値観を転倒させた。
今、ヨーロッパのダンサー達の多くは舞踏を学び、大野さんのワークショップなどをへて変わってきている。(シンポジウム内の問いではあくまで2項対立がみえたが、大野さんの存在は大きかったし、現在は明らかに変わってきていると私は思う)

ライムントホーゲさんの作品を私は好きでかなりよく見ている。今回のワークショップでふれていたマリアカラス作品も、私なりのダンスの歴史も、白鳥の湖、牧神の午後といった名作シリーズも、上野くんが出てた作品もみているのでかなり詳しい方だと思う。しかもラッセル作品でデュッセルにいったときにもあっている。(ぜったい覚えていないと思う)彼のレクチャーを聴けなかったことは残念だったが、彼のワークショップをうけることができた。
「僕はクリエイターではない。音楽が導いてくれる。そして僕はオープンでいるんだ」という言葉はとても心に残る。
彼がかつて大野さんにあったときの話しもし、彼のいた椅子、アルヘンチーナの写真に敬意を示す気持ちもちょっとすてき。彼はきっとみててくれるからと必ず椅子の前はあけさせていた。
彼がドラマツルグをしていたピナバウシュはダンスからあるいは身体の躍動感から離れることができなかった。優秀なダンサーが集まり、今でも世界一のカンパニー(の一つ)だろう。彼はそこから躍動感を削ぎ落した。自身の身体の不自由さもあっただろうが、ダンサーにもそれを封じることを強いた。それゆえにみえてきたもの、それが彼のダンスではないか。
躍動感を封じたダンス、それがみせるものはその人の身体でしかない。
存在、そのものとは何か。
私はその突き止め方がとても好きで、そう考えていったときにダンサーとしての身体は必要ないのではないかとまで思った。(その影響で一般の人の身体に目を向けることになった。Amanogawaプロジェクトなどは特にそう思う。それぞれの人の記憶や思い入れのようなものは真剣に願うものほど強く人のこころを打つ。惰性で踊っているプロフェッショナルダンサーなんかよりはるかにすばらしい)

パリでみたときには必ず10人単位(場合によっては半減するらしい)で席を立つ(本国ドイツでもそうらしい)問題作の作者。でも彼の論理、私はわかる。
6月4日京都で上演。お時間ある方ぜひどうぞ。無料だって。上野くんも出るんだって。(でもちょっとだけらしい)
http://www.kyoto-art.ac.jp/events/497




芸術家は新しい価値観を作り出す。
それゆえに公共性だといえるのではないか。そんな本の言葉が気にかかりつつ。



タカセの夢 アフリカへの道①

タカセの夢はアフリカに行きます。

夏休みにいくべく計画中です。
私はこれまでアフリカにはいったことはありません。

カメルーンは英語とフランス語を母国語とした多くの部族が暮らす国です。その首都ヤウンデで公演をする予定ですが、いくまでがなかなか大変です。
まず予防接種をうけなければなりません。

カメルーンに入国するには黄熱病の予防接種を受けたという証をもらわねばならず、しかもその予防接種は限られた検疫所でしかうけることができません。静岡の子供たちは静岡でうけることができないので横浜までむかわねばなりません(名古屋検疫所も可能ですが)。しかも学校を休んで平日午後。実はそれだけでツアーです。しかも16歳未満は保護者もついていかねばならず、大変です。
更に他の予防接種は1ヶ月(日程をあけないといけない)あけてうたねばならず、そちらも保護者総動員。なかなか大変なのです。

ニヤカムさんは普通に日本にきていますが(でも実はビザの手続きなどなかなか大変らしい。私もその逆を体験しているわけで、とてもわかる)、行くだけでこんなに大変なんてと衝撃をうけました。
(逆に10年間ワクチンは有効ということでその間にぜひともアフリカに行かねばという気持ちもわいています。まあ、この仕事がなくとも向かっていたとは思います。)

アフリカへの旅費はかなり高く、今回格安の旅を試行錯誤しながら見つけ出しましたが、それでもヨーロッパ2往復は可能な金額。。。


たまたまですがナイジェリア(カメルーンの隣国)では日本のアニメが流行っていたり、いくつもの企業が新たなビジネスチャンスを求めてアプローチしているのだとか。(ナイジェリアは人口の急増で将来的にはインド、中国に次ぐ第三の人口大国になるといわれています)そう思うとものすごい可能性のあるチャレンジだと思いつつ、複雑な心境になります。

逆に行くのであれば、何かをのこさねばと思ったり。
私も学んでこようと思います。

2014年5月30日金曜日

いまどきの高校生

大学時代の友人が務めている某高校にお手伝いにいく。
私が非常勤講師として中高の教えをしていたのはかなり昔で、今はだいぶん変わってきている。(なお、高校なのでダンスの授業は必修ではなく女子だけの授業として独立して展開している。友人がそのダンス授業を一手にひきうけ、エアロビクスや創作ダンスなど幅広く担当している)
お手伝いは球技などのほかの授業も含まれ、先日もポートボールの授業を見学させていただいた。
高校によってだいぶん違うのかもしれないが、グループごとに練習内容を相談させたり、チームの作戦を考えさせたりとかなり生徒が主体的に活動するよう促しているように思われる。また、3年生のバレーボールの授業では独自ルールを発案させて、いかにゲームを盛り上げ、楽しむことが出来るかを生徒自身に考えさせている様子。(教員は一緒に考えたり相談にも乗る)
私が授業を受けていた時代であれば、一斉教授が基本で、とにかくゲームの繰り返しだったように思うが、少しずつ変わってきているのではないかと感じた。
体育に限らずスポーツは自発的に行わなければ続かない。また楽しいと思えない。学校期に運動を楽しいと思えれば卒業してからも何らかの形で続けていけるだろうが、初めのイメージが悪くなってしまっては元も子もない。ポートボールは本来小学校4年生で行う単元ということだが、ルールをアレンジしつつ、グループワークをとりいれることで高校世代でも楽しめる内容となっていた。難しい技を習得していくのも体育だが、皆で体を動かしながら楽しい時間を過ごすのも体育だ。

正直、中学高校時代は体育が苦手かつ嫌いだった私としては、今の高校生をちょっとうらやましくみている。

学生になって思うこと

ここしばらく、ブログの更新ができていない。
というのも春から学生になってしまったがゆえに、大変すぎてブログまで手が回っていないのだ。
たまたま静岡仕事で4,5月が怒涛だったせいもあるが、毎日のように追加されていくレポートの山に追われている。

現在私が在籍しているのは筑波大学夜間大学院で、スポーツプロモーションを学んでいる。
夜間なので平日夜と土曜日に授業が開講されていて(日曜日の時もある)かなり目いっぱい盛りだくさんの内容である。
というのもスポーツといっても種目によって、だいぶん歴史背景、団体やイベントの規模、抱えている問題点が異なるし、健康問題を扱っている分野(ヘルスプロモーション)もあるためかなり幅が広い。

そもそもダンスはスポーツではない。
体育の中に含まれて、しかも小中学校のダンス必修化で注目をされているが、筑波教員から見てもスポーツとは別のくくりである。
そもそもそれを話すには遊び論のカイヨワさんまでさかのぼり、遊びの4分類のうちスポーツはアゴン(競争)の原理に基づくがダンスはミミクリ(模倣、模擬)に基づくという。(個人的にはダンスには多分にイリンクス(眩暈)の要素を含んでいると思うがそれは置いておく)
つまりダンスはそもそも上手い下手といった評価をできるものではなく、また勝ち負けのような基準はつくりえない。競技スポーツは常に勝利の追及が目指され、学校の部活動のシステムもそれに基づいてきたが、ダンスはそうではない。(一部の高校大学のダンスコンクールは置いておく。私自身が出身者なので複雑な心境)純粋に楽しさゆえにあるいは自己探求のために作り続けるわけで、体育の枠からみるとだいぶん異なっている。
私自身はなぜダンスは体育の枠に入っているのだろうと感じてきた。そして体育の中でやろうにも学校教員も球技など他の種目出身の教師が多く、ダンスを教えるのを難しい、不安に感じると感じているというさまざまな報道を見るたび、実際のアーティストがこの現場に携われるようにならないだろうかと感じていた。私自身が保健体育教員であったこともあり、また私が教えに行っていたようにダンスを年間通じて行うような学校は多いため、実際の現場はどうなのだろうと話を聞いている。

入ってみたら、意外にもヘルス分野の先生方が、運動のとくにダンスの効用に着目をしていて、様々な話を聞くことができて興味深い。中高年齢層の中で社交ダンスがはやっていること、あるいは競技スポーツではない運動のあり方、長く続けていける運動としてのダンスの可能性を多く指摘された。

また、たくさんの書物を読むにあたり身体哲学まで落とせば、ダンスも時を超えうるのではないかという気がしてきた。限界芸術論は柳田と宮沢賢治とコミュニティダンスと私にはよめたし、ホモルーデンスを読めばダンスは最終的に儀式に向かうのだと思ったりもする。
多くのスポーツ関連の哲学系の文章にはさりげなくダンスについての記述があり、ダンスへの憧憬が見て取れたりもする。面白い。

一方で「あなたコミュニティダンスとかじゃないでしょ」と山田せつ子さんに指摘されたこともあり、自分のダンスはダンスで作っていかねばならない気がしている。ちょっと横道にそれたようだが、かなり密度の濃い時間を過ごしているように思う。
それがいかに今後の作品制作に役立つのか、、、。
がんばります。

2014年5月7日水曜日

タカセの夢のゴールデンウィーク

タカセの夢2014ゴールデンウィーク公演が終了しました。

ふじのくにせかい演劇祭に呼ばれての公演(なお、2回目になります)。3回の楕円堂公演はいずれも満員御礼となりました。お越し下さった皆様ありがとうございました。

フェスティバル期間中は他演目もあるため、実際の楕円堂での稽古はかなり回数が限られてしまい(しかもゴールデンウィークとはいえ、学校がある日もある)、そんななか子供たちはよくがんばっていたと思います。実はかなり何度もみている人がいて、子供たちの成長がわかるとよくいわれます。特にこの1年の差はとても大きいと。

2日目の終ったあとのレセプション(こどもたちは参加できなかったのですが)で、初演時よりみている方から多分この作品における最大のノーツがありました。
確実に上手くなっている。でも上手くみせようとしすぎな気がする。初演の頃って下手だったかもしれないけれど、もっと必死だったし、それが人のこころをうつのではないか?
また、
カーテンコールであがったニヤカムさんの身体(とダンス)がこの作品の全てを物語っている。その根本にあるものはどのように伝えたらいいか?

先日テレビ向けのインタビューがあり、その中でもニヤカムさん自身もプロフェッショナルダンサーは確かにできることが多いけれど、表現に必ずしもそのような技術は必要ないし、時としてアマチュアゆえにすばらしい表現ができることがある。テクニックとはなにかと思って一般の子供たちとの作品制作をはじめたという言葉がありました。

とはいえ、私たちが教えることができるのは俗にいう技術の部分、効率よく身体を動かしたり、ケガをしないようにという部分だけ。踊りの根本にある部分は「教える」ことはできないもので各人が「つかんでいく」ものです。その根本があれば、それがちょっとでもみれれば多分お客さんとしては満足。逆にどれだけ上手に踊っていてもその根本がなければ、多分意味がない。
プロフェッショナルであってもその根本を忘れてしまう人たちは多い。
そしてそれをつかむ方法はむしろたくさんテクニックをもてばもつほど難しくなる。
それらの垢というか皮を少しずつむいていく、減らしていくのが一生をかけて行っていく仕事。

私自身がプロフェッショナルのダンサーとして舞台に立っているときも、一番何もできなくて(少なくとも私はそう思っていて)とにかく毎日必死で踊っていたことを覚えています。私の場合はその必死さが根本につながっていたのだろうと思っています。
何もしていなくとも身体に根本がにじみ出るまでには大分時間がかかりそうです。が、多分そこにいきつくまでは上手くみせようという自我をとびこえてひたすら必死で踊るしかない、そんなことを思いなおしました。


そんな話しを宮城さんにしたところ、もしかしたらすごい緻密に練習していて、でも本番迎えてみたら想定外のことがおきて、それどころじゃないとなったときがブレイクスルーするときなのかもね、というお言葉。カメルーン、たしかに何がおこるかわかりません。
これまでもこどもたちは、体調崩して踊れない子が出たり、パネルが動かなくなったり、雷が落ちて停電になったり、お客が極端に少なくて衝撃を受けたり様々なアクシデントを経験してきました。ある意味経験豊富かつ度胸のある(?)この子供たちの想像を超えるようななにかとは何なのでしょう??
夏休みが楽しみです。


ピーターブルックと演劇研究所の方々がアフリカに行ったときのビデオを拝見し、その体験者笈田ヨシさんの話しを聞きました。演劇の根本とは何かと思い100日間にわたるアフリカの旅(途中集落にてパフォーマンスを行いながら)にいったときの映像。あらかじめ作っていった演劇とか全然わかってくれなくて、とりあえず万国共通だからって歌を歌っても日本やアメリカのものには全然反応してくれなかったそう。手を叩いたり、あーだけつかったりいろんなことを即興的に試みつづけたそうです。言葉を超える、普遍的な表現とは?それはダンスとか演劇というジャンルを飛び越えて私たちが探し続けなければいけないことかもしれません。


タカセの夢(?)来年度のオーディション開催決定しました。今年8月おそらくカメルーン公演、静岡公演後に行う形になると思われます。
?なのはタカセの夢のままなのか?新しい作品なのかもまだわからないからです。
1つの作品で5年というのは長いと思うかもしれないけれど、これがカンパニーとして考えたら、知ってもらえるようになるまでにもまだもう少し時間がかかる、とのこと。
形は変わっていくかもしれないけれど、ニヤカムさんと宮城さんの夢はまだ続きそうです。

2014年5月5日月曜日

ゴールデンウィーク

怒濤のゴールデンウィークももうすぐおしまい。
タカセの夢の公演も今日が最終日です。(正しくは夏のカメルーン公演と静岡公演はありますが)3日目ということもあり今日は舞台さんも少しゆっくり、子供たちの入り時間も遅くなりました。

フェスティバル期間中すべての演目がみられるわけではないですが、時間を見つけてあちこちお邪魔しています。でもマネキンに恋してはみそびれました。残念。Jerkは衝撃的すぎて子供たちにはみせられなかったのですが、すごかったです。(あとで俳優さんとおはなししたら、この作品を5年近く続けているけれど、この公演が最後だとのこと。この感情の起伏を5年やっているのかと思うと気が狂いそうになります)


今日は日本平動物園無料開放の日だそうで、大幅な混雑(毎年のように書いていますが本当に動物園渋滞という言葉があるのです)が予想されています。どきどき。
皆さん時間に余裕を持ってお越し下さい。