2018年5月29日火曜日

鳥取の幼稚園でワークショップを行いました。

鳥取の幼稚園でワークショップを行いました。

わらべ館ワークショップに参加してくれたお母さんが、あまりに面白かったから!と園に働きかけてくださり、お誕生日会の特別アクティビティとして(キラキラタイムというそうです)招いてくださいました。2歳児から5歳児まで。約200人。
カオスです。

幼児教育の人だとわかるのですが、2歳と5歳だと体格もできることも全く異なり、なかなか難しいワークでした。しかしうわーっと言いながら走り回ったり繋がったりしているうちに楽しくなってきたらしく、2歳児も泣きださず(後で園長先生が驚いたと言っていました)なぜかちゃんとまとまりました。
日曜にわらべ館で行っていた感じをもとに、だるまさんが転んだのように音がなっている間動いてみようでも音が止まったらみんなもストップねと言いながら変なポーズを作ってみたり。
最後に音楽の先生に何か1曲弾いてくださいとお願いし、その曲で踊ることにしたところ、チャップリンでした。子供達大ウケ。

終わったあと先生方とお話しし、リトミックなどもするのだけれど、どうしてもこちらが動きを提示してしまいがちだという声が。こんなに自由でいいんだ!とのお言葉をいただきました。体がこんな風に動くのかということにも驚かれたようです。
自分が過去に教えていた幼児教育系の短大などでも、決まった手遊びや、動きのパターンをまず覚えさせるところが多く、なかなか自由に動くだけという時間を取ることはできません(カリキュラムの都合上)が、本当は先生も子どもも一緒になって体で遊ぶ時間というのが大切ではないかと思うのです。それが外から来たちょっと変わった人(私?)がいるとそれに巻き込まれて可能になるのではないかと思ったりもします。

5歳児たちは終わった後も真似して動き始めたりして、こういう子たちがそのうち踊るようになるんだろうなと思いながら、帰ってきました。貴重な経験です。




わらべ館ワークショップシリーズスタートしました。

わらべ館でのワークショップシリーズスタートしました。

昨年夏至祭で盛り上がり、しかしもう少し即興に親しむ人を増やしていこうとはじめたこのワークショップシリーズ、2ヶ月に一回開催していきます。

5月27日は
鳥取ダンサー田中悦子さんのファシリテートからスタートし、わらべ館職員高橋智美さんんの様々な民族楽器の音色に反応してみるワーク、ピアノの池田さんの音楽に合わせて自在に動く時間、最後に演奏を聴く・ダンスを見る時間と盛りだくさんの1時間でした。

小さな子供も多いので、難しいことはできないのですが、はじめはお母さんにしがみついていた子供達がだんだんと離れ、動き回るようになっていく姿は心強く、また、つられて私もかなり踊らされました。
鳥大学生さんも参加し、子供達に遊ばれる1日だったようです。

このシリーズはファシリテートの方法や進行を学ぶ意味合いも兼ねていて、夏至祭以降、今年参加できなかった方々にゲストとしてきていただきながら、勉強しようと思ってスタートしました。ご興味のある方是非お越しください。

次回は夏至祭の3日目です。


池田千夏ソロピアノ フォーキーな旋律

◎池田千夏ライブ@鳥取大学アートプラザ
昨年お越しくださったピアノの池田さん。関西ツアーのついでに来るということで急遽決まったライブ。この日の午後はわらべ館でワークショップを行ないました。

5月27日19時開場、19時半開演 学生500円、教職員・一般1000円
今回はフォーキーということでこんなコメントをいただきました。

〜フォーキーな旋律〜

民謡などの伝統音楽でよく使われる音階に5音音階(ペンタトニック・スケー ル)というのがあります。日本では明治時代にヨナ抜き音階という名称で呼ば れ、この音階を使った名曲がたくさん生まれました。
「ぞうさん」「メダカの学校」「赤とんぼ」などの唱歌は「ド・レ・ミ・ソ・ ラ・ド」の5つの音の組み合わせでできている曲。素朴で親しみやすい5音音階 は「アメージング・グレース」などのスコットランド民謡にも使われています。


この大らかな音階はジャズの即興にもジャズ言語として使え(ブルースの音階と 似ているので)、今回私の中でこの要素が溶け合って作用し、どんな演奏になる か挑戦です。


実際に演奏とお話を織り込みながら聞き覚えのある曲とそこからいかに発展していくのかを聞くことができるので、ジャズや即興に慣れていない方にも入りやすい入門編になっていたように思います。



野が踊らせていただいたのは『めだかの学校』、『驟雨』(池田さんのオリジナルの曲です)、『蛍の光』の3曲でした。また来ます!とおっしゃっていたので、次はどんなトライアルになるかまた楽しみです。
写真:西岡千秋




2018年5月24日木曜日

ダンスの授業をどのように展開しているか

ダンスの授業をどのように展開するかは結構難しい。
何せ半年間でマスターなどできるはずもない。
しかもダンス初めてだ。(だが、むしろ経験をしたことがないくらいの方が入り込める)

そこで、現在は様々なダンスの歴史的背景や映像を見る時間(20分程度)とその体験あるいはそれに関連した身体遊びを行いながら、なんとなく舞台芸術の流れをかいつまんでいく(70分)という前半とそれらを元に自分独自の踊りを作る後半に分けて展開する形を試みている。

クラシックバレエ 
 ジゼルor 白鳥の湖(オペラ座版)、パリオペラ座の全て
モダンダンス
 マリーウィグマン(魔女の踊り)グラハム(異端者たち、ラメンテーション)
ポストモダン
 カニングハム(Oceanとチャンスオペレーション)
コンテンポラリー
 アンヌテレサドゥケースマイケル(Fase)、ピナバウシュ(PINAより春の祭典とコンタクトホーフ、列のダンス)フォーサイス(One flat thing reproduced)、オハッドナハリン(GAGA、minus16)

そうそうたる顔ぶれを、勝手に遊ぶ。でも実際に動いてみると、なるほど、こういう感じなんだーとか、でもこんなの絶対できないとか言いながら和気あいあい。なんちゃってではあるけれど、これが激しくなったらなるほどとかそういう意味では面白そうだ。

今日はナハリンさんの日。その裏でイスラエルの政治情勢や、塩ちゃんの新聞記事(日常にある暴力について)、最近見たイスラエル映画の話なんかをしつつ、そのような環境だからこそ、このようなダンスが生まれるのかということを考えてもらう。
単純にかっこいいだけじゃない。
そして日本にいたら気がつかないかもしれないけれど、今も世界のどこかでいろんなことが起きているという事実。ダンスの授業ではあるけれど、実は今を生きるという授業なのかもしれない。


グローバル時代の国家と社会と合わせ、今起きていることがそのまま上がってくるようになってきたということが実はすごいことだと思うし、それだけやばい事態だということでもあると感じる。


地域学入門

学校の先生なので、授業を毎日こなしつつ、踊り作りをしつつの繰り返し。
昨日は地域学入門(1年生必修)で250人くらいいる大教室でお話をしました。

ダンスの専門家ですが、ダンスに入る前の身体の話(身体をほぐすための簡単なマッサージと傾聴を学ぶのに行うワーク。受け取る側の反応で話す側の意識も変わるし、相手のエネルギーを無視することは実は結構しんどいことだという当たり前のことを再確認する。コミュニケーションというものは表現する側が頑張るだけではなくて、受け取る人も重要だということ。)からスタートしてロンドンオリンピックにおけるコミュニティダンスの広まりと、その代表的事例のウエィンマクレガーのような振付家の作品@トラファルガースクエアのようなものと、昨年来てくれたウォルフガングシュタンゲさんの映像とを紹介しながら、ファシリテートという考え方について講義を行いました。

ダンスハ体育ナリでもオリンピックの話をしていますが、実は文化事業という点でもオリンピックは注目すべきで、ロンドンオリンピックは見本のように扱われています。今回は1年生の授業なので、深くは突っ込まず、表現の多様性について感じてもらうことにしました。

教える・教わるという考え方から、自分の感じていること・考えていることを自由に出せるような環境づくりをしていく。教育の学生さんもいるので、いい機会だったと思いました。(現在私は教職の授業を担当していないのです)

先生の意識が変わらないと教育も子供達も変わらない。
自分の受けてきた教育を見直してみるというのも実はすごく重要なポイントではないかと最近思います。学生たちの感想文より創造性という点には触れられていなかったダンス教育の現場が結構多いことが見えてきました。そしておそらくダンス教育だけではなく全てにおいてそれは言えることなのでしょう。だから授業の時にはできるだけ静かに、適当に受け流しておこうと思うようです。でも、反応があるからライブになり、面白い。そうでなかったらネット配信と同じになっちゃうよね。ちょっとずつ言葉が出るようになったところで今回の授業は終了。
大学まで来たからには、自分の言葉で問いを立てていく。そこからが学問の始まりだと改めて感じました。



学生の皆さんへのお礼の言葉。
 
様々な感想をありがとうございます。

私はダンスの専門家なので、ダンスの話をしましたが、創造性(想像の字を当てる方も多かったですが)は生活のすべてに当てはまります。
文章を書くのが得意だったり、音楽や美術のような他の芸術活動だったり、料理で一手間加える工夫をするなんていうのも創造性でしょう。生きていく上で必要なことはすべてつながっていきます。なので、それぞれの生きていく中で創造性を発揮できるような、しやすいような環境を作っていくことが大切で、その手法の一つがファシリテートの考え方です。
高校までの授業だと正解があると思ってしまいますが、正解も時代によって変化してきました。そんな中、私たちは自分たちでその正解を作り(考え)出さなければならないところに来ています。そのときにみんながそう言っているからという方向に乗っかっていくだけでいいのか,コンピューターがいうことがいいのか、そのメディア報道は誘導されていないかと多角的に物事を捉えていかねばなりません。その方法を学ぶのが大学の知です。
多様な考えを引き出すコツは「こういう考えの人もいるんだな」と受け入れてみる、触れてみるそういうところにあるのです。
そういう意見の多様性の根拠は身体にあります。一人一人全く違う身体を持っている。人は自分の身体から離れることはできない。自分の身体とちゃんと向き合えるようになると、人にもちゃんと出会えるようになります。

宮沢賢治は『農民芸術概論綱要』(青空文庫にあります)の中ですべての人が芸術家であるといいます。賢治は芸術を特別な活動と捉えていたようですが、私はさらにいうと、この世に生まれてきてから様々なことを考え、それを人と共有し、時代を作るというそのこと自体もまた芸術であると捉えます。



様々な声があっていいということ、むしろ様々な声が出てくることの豊かさを感じてもらえたら嬉しいです。

北海道新聞に載せてもらいました。

木野妹がすかさず送ってくれました。北海道新聞です。
北海道からわざわざ記者さんが来てくださり、お話をまとめてくださいました。
ダンスがメディアに取り上げられることはなかなか少ないので、こういうのは嬉しいことです。


2018年5月17日木曜日

またひとつあたらしい物語を紡いでいきましょう

やっと歯車が回り始める。

ゆっくり時間はかかっても、その時間は多分無駄ではなく、やはりかかるべくしてかかったもの。人によりその速度は異なり、時には立ち止まることもあるけれど、それでも何かはできていく。

また新しい物語を紡いでいきましょう。


たまたまダン体から帰ってきた日の授業は芸術入門で舞踏について語る日でした。
クラシックバレエ、モダンダンス、コンテンポラリーダンス、舞踏、能歌舞伎狂言、民俗舞踊、即興とコミュニティダンスの考え方(鳥取夏至祭という現象をどのように捉えるか)という流れで一般の学生さんに様々な踊りを紹介していくような授業です。
昨年大野慶人さんに来てもらったこともあるので、大野さんを中心に舞踏の起きた時代背景なども語ります。映像も見ながら。学生は衝撃を受けつつ、ホラー映画みたいと。(いや、ホラー映画がこれを基にして作っているんだと思うよと突っ込みを入れる)土方の夏の嵐の冒頭に京大の西部講堂が出てて、タテカン事件の話を思い出したり。時代の変化をつくづく感じました。今の危うさ。

土方本を読み直していて、宇野邦一さんの本にあたり、死者の書として捉えていて、あ、そうだったと思い出しました。2年くらい前応募するときに何がいいかなと思った時病める舞姫もいいかなあと思ったものの、この作品は男性が踊ったほうがいいよなあと思い、死者の書にしたのを思い出しました。(ちなみに今年は病める舞姫が流行っているようで、何があるんだろう?と思っています)
死者の書はタイトルヘビーなんですけれど、(実際一回黄泉の国に降りていかなきゃいけないんですけれど)実はぽちりと咲いた花のような本です。そういうところがいいんじゃないかなあと思っています。
ダン体は大野一雄さんから始まったシリーズということもあり、ダン体2でもまとめは何者かと踊る話をしています。(観客に見えるかどうかわからないということも含めて)今この世にいるいない、そばにいるいないと関係なく、同じ波動の中に何人かいて、同心円のようにしかも階層も異なりながら一緒にいる。それぞれの一つ一つの動きが意図的であれ意図的でなかったであれ、互いに影響を与えながら、この世の流れを形成していくのだなあと。私自身は舞踏は学んでいないのですが、謎の経緯で影響を受けているものだなあと改めて思ったのでした。


ダンスハ體育ナリ?其の2再演

◎「建国體操ヲ踊ッテミタ」再演しました。
5月12日明治神宮外苑聖徳絵画記念館。
この5月12日、1940年には第6回日本体操祭が開かれ、例の明治神宮競技場で1100人建国体操が行われた日なのです。皇国2600年祭の一環として。
これらの体育の聖地明治神宮外苑の歴史を紐解くには格好の日。





再演に合わせて鳥取大「グローバル時代の国家と社会」の授業内で公開リハーサル状態にすることにしました。5月10日木曜5限(4時半から)
学生さんたちの感想もなかなか面白いものでした。

今回2公演ともに満席で、ありがたいと思うとともに(制作さんの努力が素晴らしい)
この作品の持っている幅の広さを感じました。
体操の研究者、スポーツの研究者、大衆音楽の研究者、メディア、批評家といったプロの方が多く来ていて、なかなか衝撃。(恐れ多い)終わった後も色々質問を受けまくっており、これらをちゃんとまとめなければという気がしています。

この作品自体が身体の近代化そして国家とは?ということが見えてくる内容なので、掘り下げることができそうです。

皆様からのコメントはまた後日。

2018年5月11日金曜日

メール不具合が起きています。

ここ数日に木野が出したメール(一般に知られているgmailアドレス)のうち3分の1が届いていないらしいことがわかりました。(全部ではないのが微妙)原因がわかっていないのですが、返信来ないな、変だなと思ったらメッセンジャーでも電話でも何らかの方法でご連絡頂けると幸いです。
この届くのと届かないのがあるというおかしな状態がなぜなのかがわからないので、このような事例に詳しい方助けてください。
なお、別件で1通のメールを送るはずが8通くらい送信ボックスに入っていた事件というのもおきていました。

本番が近く連絡がどんどんくる状況下ですみません。
ごめんなさい〜。


追記(2018.0514)
本番が終わって帰ってきて、パソコンごといろいろ見ていますが、未だ理由がわかっていません。取り急ぎメールが送れないわけではないですが、パソコンからそのまま送るのは難しいことと、受信する側もすべてできているわけではないようです。
そのためccなどで大学メールアドレスをつけていただくなどの対策をお願いします。(大学のメールは今の所見ることができています)
また重要案件については一報いただけると幸いです。よろしくお願いします。

追記(2018.0515)
その後、今日しかもたった今(10時半ごろ)大量のメールが届くんだけれどという友人達の声が。ロストバゲッジと一緒で遅れて到着しているようです。。。色々申し訳ないです。原因は未だ分かっておらず、どうしたものかと思っています。取り急ぎご報告でした。

2018年5月5日土曜日

両性性について

折口さんの本を読み続け、『死者の書』のベースになっている『山越の阿弥陀像の画因』や『神の嫁』を読んで行く。やはり彼の中にある女性性(私が行う場合は私の中にある男性性)に注目せざるを得ない。
薬物(コカインの常習)のせいか、時間軸と空間軸が入れ替わり、分かりにくくなっているがこれは映画のコラージュに発想を得て編集した結果のもの。それを整理して行くと実はお話としては非常にシンプルなもので、恋する折口さんみたいなところまでおりてくる。
で、その乙女ワールド見てみる最近。

両性具有の話についてはラッセルワーク(eonnnagata)をみていて気になっていたところ。おそらく舞踊の本質をつこうとするとそういうところに行き着くのだろう。大野さんのアルヘンチーナや土方さんの病める舞姫もそうだけれど、自身の中のもう一人の自分、俗にいうアルターエゴではなくアニマ、あるいはアニムスと呼ばれる存在。
ちょうど静岡にラッセルカンパニーの元同僚がきて女形で踊るという。なんと!しかもフラメンコとともに。シカゴ(あの映画の、です)ごっことかやってたよな、と懐かしい一方、今みると影響受けてしまいそうでやめておく。eonnnagataは結構残念な作品だったと思うのだけれど(私は日本というものを間違って伝えてしまったのではないかとかなり反省し落ち込んだ)、でもあの時ラッセルと話したことや私たちがみたことが、回り回って10年が経過したのち、こうして全く異なる新しいお話になるのだと思ったらちょっと嬉しいことだと思える。
私は私で
また新しいお話を作り出していきましょう。

ラッセルカンパニー時代に踊った作品の中でTransmissionはああ、人の一生は星のようなものだ、このきらめきの一つ一つが出会いと別れなんだと思ったし(今思い返すとAmanogawaとかってこういうところから来ているのだろうか)、cast no shadowはシチリアに沈むアフリカの移民の話で希望も何もなく、死にゆく身体をダンスにできるのかかなり考えさせられた(実際あまり売れなかった。テーマを選んだのは私ではないけれどいろんな意味で責任を感じる)。その時思った素朴な疑問や引っかかりは今も残っていて、永久に宿題のようになっている。
ドラマを作る人だからと言ってもらったその言葉、いつかみせてあげられますように。


建国体操で学ラン着ているのはそういう意味ではないです。
でも確かに高校時代の男装が一番モテたかもしれない。


死者の書下見

このゴールデンウィーク中に照明の三浦あさこさんが鳥取まで来てくれて打ち合わせを行う。かめりあ。アルテリオトライアル、Amanogawa、静などずっとお世話になっている照明家さん。実はMobiusの鳥取版も見に来てくれている。

今回の作品はMobiusの時からそして静(黒白)とつながっているもので、作品の説明をしながら、ああ、そういえばとかあの時のあれがとか話していく。わたしは器用な方ではないので、ずっと同じことを紡いでいるのだなあと思ったりもする。プロ的ではないけれど、でも年を経て重ねていくと、少しは見えてくるものもある。
もともとIchIをちゃんと膨らませて、2人で踊っていた部分を木野が全ておう形でできないかと思っていたところがあって、セット(茶室を模して作っているパネル、針生康作品)なども用意して見たが、こういう感じじゃないねということになる。
もっと淡いものなのではないか。わたしとあなたとの境目はパッキリ分かれるものではないような気がする。
Mobiusのチラシは言葉が二重に重ねられていて、しかも印刷も薄いので、読むことはできない(実は最近発覚したが、時間が経つと日光のせいか浮き上がるため読めるようになったりする。まさかの時間差!)。そういうもう一つの世界(しかも時間も空間も超えなきゃいけない)との対話。

こうして長くスタッフさんとお話をしていると、舞台が総合芸術だということを思い出す。SPACenfantワークでも思っていたが、多くの現場はスタッフさんと話す時間が少なく、こういう機会が取れるのをありがたいと思う。

照明環境などを考えて、大学施設ではなく、劇場公演にする。ちょっとハードルが上がるがなんとか頑張ってみよう。9月、12月愛を込めて機を織らせていただきます。

ほという文字


という言葉は基本的に緩んだ身体を作り出す。
ほぐす、ほどくなどの動詞のほかほんのり、ほわほわ、ホッとするなどの言葉が浮かぶ。話していてほんわりするなあというのを惚れるというし、安心した心持ちをさす。
ダンス的にはその身体の緩んだ状態をいかに作り出して行くかということにフォーカスが置かれている。

逆にカ行などは緊張状態を作り出す。硬いのだ。
建国体操のケンコクなんかはまさしくそのとうりで、建国建国と話しているだけでだんだん体が硬直してくる。
建国体操リハをしているだけで体が硬くなるというのを前回も思ったけれども、今回は言葉自体の問題もあるのかもと思う。
凝り固まった心も身体もほぐしましょう。

建国体操リハ

5月12日に開催されるレクチャーパフォーマンスは2月11日の再演。完全再演と言ってはいても、授業同様全く同じになるはずがない(ちなみに2月11日の時にも午前午後でテンションがだいぶん異なっていた)。そのためゲネを行う。

文明の利器とは素晴らしいもので、スカイプでつないでゲネというわたし的には初の試み。つまりわたしは誰もいないところで誰かに向かって建国体操ゲネを行う。微妙。あのお笑い系なのに反応なしでしかも一人頑張る。お客さん無くしてはあの感じはできないもので、なかなか大変でありました。

今回は安定のDJ国府田さんがいないので、制作さんが(元照明)が音響係に。きっかけだしなどを打ち合わせる。鳥取では5月10日の授業で短いバージョン(and一人オペバージョン)上演します。

思っているよりのびている。テンポアップできるかが鍵かも。説明しすぎると良くないんだよねなどと話す。あがるノーツがちょっとおかしい。バスガイド姿の時には是非ストッキングを履いてください、学ランもできればぜひ上下揃えていただきたい、だそう。え、そこですか?というかそれは個人的趣味なのではという疑惑が起きる。

ともあれ、再演いたします。