2018年2月24日土曜日

勝手に鳥取ダンスウィークと名付ける週間

色々重なって今週はダンス関係者がたくさん鳥取にくる日。ぜひ皆様、これを機会にコンテンポラリーダンス?と呼ばれるジャンルの多様性に触れてみてください。
これとは別でとりアート2019年用下見のために門限ず御一行さま(遠田誠さん、倉品淳子さん、吉野さつきさん。野村誠さんが今回はお休み)に鳥取案内を行いました。鳥取市、倉吉、米子とはしごしてみてみるとそれぞれの街の違いが見えてきます。だんだんダンス色強くなっていくはず。

20182月末から3月はじめ鳥取東部ではコンテンポラリー・ダンス公演が続きます。それらをまとめてご紹介。これを機会に多様なダンスワールドに触れてみましょう。
    スクール・イン・プログレス2018 山下残リサーチプログラム成果発表
 京都を中心に活動する振付家山下残さんが222日より鳥取に滞在、一般市民とともにリサーチを行った成果を発表。
山下さんは言葉とダンス(身体)の関係性を探り続けており、代表作の一つ『せきをしてもひとり』(鳥取出身の俳人尾崎放哉の句より着想した作品)を合わせて上演します。
飄々とした佇まいと独特の間合いがツボにはまります。
山下残:19歳からモダンダンスを始め、1991年には京都のダンスグループ「モノクロームサーカス」に所属、演出も手がける。振付家、演出家として実験的で野心的な舞台作品の発表を続ける。2002年には、来場者に100ページの本を配り、観客がページをめくりながら本と舞台を交互に見る「そこに書いてある」を発表。2004年、尾崎放哉の俳句に発想を得て、呼吸の記号と俳句と身体をあわせて見る「せきをしてもひとり」で京都芸術センター舞台芸術賞受賞。近年は、ライヴ・アーツ・イン・バンコク(タイ)、クンステン・フェスティヴァル・デザール(ベルギー)、イスタンブール国際コンテンポラリーダンス・パフォーマンスフェスティヴァル(トルコ)、TABフェスティヴァル(アメリカ)、アブダビアート・ドゥラブ・アル・タワヤ(アブダビ)など海外での活動も多い。
日時:2月28日(木) 午後7時〜
場所:Hospitale(旧横田医院)
主催・問い合わせ:スクール・イン・プログレス実行委員会事務局|鳥取市瓦町527
090−9546−9894(担当:赤井)a r t s . s c h o o l . i n . p r o g r e s s @ g m a i l . c o m


    ヨーロッパコンテンポラリーダンスの今 畦地亜耶加トーク
近年演劇や音楽、美術との融合が進み、多様化している「コンテンポラリー・ダンス」について、現在ドイツ(ベルリン)を拠点に活動する振付家/ダンサーの畦地亜耶加さんをお招きし、ヨーロッパのダンスシーンの今をお話しいただきます。
畦地亜耶加:2007 年埼玉全国舞踊コンクール、第2位受賞。2008 年度文化庁在外派遣研修員として渡独。2011 年度ポーラ美術振興財団在外研修員。2009 年より現在はドイツのベルリンに在住。ドイツのダンスカンパニーSasha Waltz&guests のレパートリーダンサーとして欧州を中心に世界各国ツアーにでている。自作品の創作発表も行い、多ジャンルのアーティストとのコラボレーション作品を世界各地にて発表している。近年の代表作品としてはドローイングアーティスト中原一樹との作品”vergänglich””O"、をベルリンとアッシジで発表。

日時:201831日(木)19時〜21
場所:HOSPITALE(旧横田医院) 680-0831 鳥取県鳥取市栄町403
主催・問い合わせ:鳥取大学地域学部附属芸術文化センター ダンス・身体表現研究室
0857-31-5139(木野研究室)saiko@rs.tottori-u.ac.jp

    とりぎん文化会館舞踊公演『あげだがん 上げてどうする そげだがん』『夢の破片』
 鳥取県文化振興財団のプロデュース公演第三弾はコンテンポラリーダンス二本立て。近藤良平さんの『あげだがん 上げてどうする そげだがん』は一般市民29名が参加、オノマトペと鳥取方言をもとに作品作りを行っています。近藤さんはコンドルズという学ラン姿(たまにももひきラクダシャツ姿も)で踊るグループでおなじみ。NHK「からだであそぼ」や「サラリーマンNEO」などでも活躍しており、ユニークかつ笑いの溢れる振付で知られています。
 もう一作の島地保武さんは鳥取の俳人河本緑石をテーマに。オーディションで選ばれた県内のダンサーだけではなく、ご自身と辻本知彦さんも出演するとのこと。美しい身体が見たい方にオススメです。
日時:3月3、4日『夢の破片』14:00開演、終演後移動して『あげだがん 上げてどうする そげだがん』1520開演
場所:とりぎん文化会館

主催・問い合わせ:(公財)鳥取県文化振興財団 0857−21−8700




2018年2月19日月曜日

ダンスハ體育ナリ 其の二プログラムノーツより

 実は今回プログラムがちゃんとした冊子になっている。(普段は手作りだが今回は北風さんが縦書きの本のようにしてくれました。)いつも転載するのだけれど、フォーマットの関係で難しく。最後の文章だけとりあえず。


終わりに。
 大学を卒業したのは今から20年近く前のこと。10何年か経って向かい側にある大学院で学びながら様々なスポーツの話を聞き続けた。舞踊教育は体育の管轄だから。2020年はオリンピックで(ちなみに修士を受験した日がオリンピック決定の日であった)体育・スポーツ業界は活気づいていた(今もますます盛り上がっている)。が、一方でその先を見据えようとしていた。今回取り上げている多くの体操関連の論文、書籍は体育史の研究者がこの2、3年ほどに出したものである。今の政治情勢は80年前にあまりにも近いと感じているからかもしれない。
 
2年前『ダンスハ體育ナリ』で女子体育、舞踊教育をお茶の水女子大学の歴史とともに取り上げた。その後国立大としては唯一の芸術文化センターのダンス教員として赴任し、明るく楽しく健やかに踊りたい学生さんや一般の皆さんに運動としてのダンスを提供しながら、私のダンスはなんだろうかと模索している。今回は体育、体操の歴史を見ることでダンスについて考えてみたい。そのために選んだのは「スポーツの聖地」明治神宮外苑競技場(のそばの聖徳記念絵画館)。
 そうして見えてきたのは、健康というイメージに踊らされていないだろうか、そもそも健康ってなんなのだろう? 正しいって? という素朴な疑問だった。
 身体を通してしか人はものを考えることができない。どんなに技術が進化しても、それぞれの身体から離れることはできない。だからこそ私は身体と対話し続けてきた。それが私にとってダンスだと感じている。作品とは一歩を踏み出すために作り出す哲学のようなものだと感じている。運動量は少ないかもしれない。ダンスを作る過程はそんなに明るく楽しく健やかなものではないし、創作中私は真っ暗闇の石炭袋を覗き込んでいるような気持ちになる。それでも踊らざるをえない人がいて、そういう人たちが新しいダンスの領域を切り広げてきた。
 ダンスもスポーツも社会に利用されつつ発展してきた。教育とは社会に合う人間を作り出すシステムで、知らず知らずに影響を受けてしまうものだからこそ、知る必要がある。伊丹万作は「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」という。「あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体」だと指摘する。(伊丹万作『戦争責任者の問題』、1961)知った上で自分の頭で考える。当事者として感じ、考えるところからしか人の心に響く踊りは生まれない。だから創作活動は傷だらけ。現代はそんなにファンタジーじゃないし、カッコつけてる場合じゃない。今、必要なことを考えるためのダンス。それを私は作りたいと思う。
 ダンスは体操でもスポーツでもない。
 誰かの評価で優劣を付けれるものでも、争うものでもなかったはずだ。
 見栄えや観客数にとらわれてはいないだろうか。効率や社会的成果を問われるようになり、また倫理や道徳を守るように促され、芸術表現の幅が狭まってきているような気がしている。それはドーピングの取締りがどんどん厳しくなっているスポーツ業界や不倫がものすごく大きなダメージとなるエンタメ業界を見ていても同様だ。でもそれって息苦しくないだろうか。本当はもともと全て遊びだったはずなのに。
 大きな時代の流れは変わらない。明治神宮外苑も変わらない(なお、絵画館は関東大震災も東京大空襲もくぐりぬけ創建当初の形を保っている)。私のやんちゃな提案にもビクともしない。それでもなお、檸檬は投げてみるべきもの。それが芸術のなせる技。一人でも心がざわつく人が生まれたら、それはちょっと幸せなことではないかと思うようになりました。


 本レクチャーパフォーマンスは一昨年、昨年鳥取大学の一般教養科目として開講された「グローバル時代の国家と社会」第5講の講義『身体の自由・私事性と国家—体育からスポーツそしてダンスへ—』を元に作成しました。地域学部教員11人によるオムニバスの授業であり、多様な視点を取り入れることにつながっています。また、修士在学中に受けた筑波大学社会人大学院人間総合科学研究科スポーツプロモーションコースでの講義からも多くのヒントを頂きました。特に明治神宮競技場、競技大会の存在を知ったのは菊幸一、真田久両教授の講義によるところが大きいです。学んだことを元に表していくという行為は論文も作品も同じで、蓄えたことを世に問わねばならないという姿勢もこの中で教わったと感じています。当たり前にあることをもう一度見直してみる。至らぬところもありますが、今後も学び続けていくことで、お許しください。



Dance Archive Project 2018 ダンスハ體育ナリ其ノ弐 建国体操ヲ踊ッテミタ

2018.2.11 11::00/14:30 start
明治神宮外苑聖徳記念絵画館会議室
構成/出演:木野彩子
舞台監督・照明:三枝淳
音響:國府田典明
制作:樫村千佳 溝端俊夫
チラシ・プログラムデザイン:北風総貴
主催:NPO法人ダンスアーカイヴ構想
共催:有限会社かんた、キノコノキカク
後援:鳥取大学地域学部附属芸術文化センター
助成 独立行政法人芸術文化振興基金
協力:鳥取県立図書館、鳥取大学図書館、お茶の水女子大学歴史資料室・デジタルアーカイヴ、吉福敦子、永井美里、上本竜平



2018年2月14日水曜日

檸檬について

檸檬

今回作品の最後に檸檬を渡す。(落とすという案もあった)
空襲警報の中、どうしようとなって私が残そうとするもの。
意味深すぎて、気になってしまうのだろう。いろんな人に聞かれる。

梶井基次郎の檸檬に基づく檸檬爆弾。
丸善の本屋に置いて行く爆弾のようななにものかだけれども、
私にとってはちょっと意味深い。
私の古い友人にはわかる。
なぜなら私のあだ名は檸檬であったから。

おそらく深く考えず作られた名前にすぎないが、名は体を表すというがこんなところで思い出すとは。

私が初めて公開して作った作品は檸檬という作品だった。
身を呈しても表すべき何かだったのだと思うし、それは今も昔も変わりない。
絶対的な権力や価値観に対し疑問を投げるのは個人だからこそできること。
たとえ一人でも私はきっといい続けてしまうと思う。

判断はあなたに託します。

それがdance potlatch .

2018年2月11日日曜日

とりあえず無事?終了しました。

お越し下さった皆様、ありがとうございました。来れなかった皆様すみません。この日、この場所用に作った作品(というかレクチャー)ですが昭和初期の日本を考える上では面白いものができたのではないかと思います。会議室でもどこでも依頼があれば出張レクチャーも承ります。鳥取は短いワークショップ付きの体操レクチャー(公演ではないです)を3月に行うことになりそうです。またご案内しますね。
写真は聖徳記念絵画館前でお客様をご案内するところをお客様がとってくれたものです。予告のせいか、非常にきちんと集まってくださった皆様がた。ありがとうございました。
今回昭和についてもオリンピックについても神道についても本当に学ばされました。すごい世界だ。まだまだ不勉強ではありますが、今後も学び続けていこうと思います。
いろんな意味でまだ掘れそうな世界。というか今の現代のヤバさが見えてきた、そんな感じです。

今回聖徳記念絵画館の方には大変お世話になりました。
レクチャーパフォーマンスの場所を探していてという話からこの会議室(普通に会議をしている部屋で普段は貸し出ししていません)を貸してくださることになったり、招待券をくださったり。この微妙な内容にも快くご協力してくださったところが日本の神道らしいところなのかもしれません。
また制作に関わってくださったダンスアーカイブ構想の皆さんや手伝いに来てくれた吉福さん、永井さん、上本くん、戸井さんありがとうございました。
小さなみんなの協力がこの作品につながっています。規模は小さいけれど、今、この場所だから、この日だからという公演。ちょっと素敵な時間を過ごさせていただきました。


こんごともどうぞよろしくお願いします。

ではでは。

2018年2月9日金曜日

出雲で足止め

ここ数日の大雪はかなり深刻で、昨日、今日と仕事で移動が多いのだけれど、JRからバスから遅れまくり。今日はタンクローリーの事故と雪の影響で出雲空港にたどり着くのが遅れ飛行機に乗れないという冗談のような本当のことが起きる。
昨年、大野さん御一行様も同様に雪がすごい時だったのだが(同じ時期)
そしてだいたいこの時期に行う私の公演は大抵記録的大雪なのだが(晴れ女なのだけれど、晴れるか大嵐かどっちかということはわかっている)、たどり着く前に雪というのは神様の仕業ではないかと疑う。
いまやらねばネタとはいえ、ふざけていると思われたのだろうか。いやそんなことないです。結構真面目に作っています。

今日からオリンピック。1940年オリンピックから2020年オリンピックを考えてみるには絶好の機会です。何としても行くぜ!


追記
ちなみに翌日の朝の飛行機に変えてもらい、空港の一番近くのホテルに泊まり、翌日向かおうとしたらまたタクシーがつかまらない。で、20分くらいという言葉を思い出し、まだ1時間半あるしなんとかなるだろうと一生懸命歩き始めて1時間以上。それでもたどり着かなくてやばいなあと思っていたら、タクシーのおじさんが声をかけてくれて助けてくれた。
そのおかげで出発10分前くらいに到着し(普通だとすでにゲートは閉じている)でも乗せてもらい、なんとかセーフ。
搭乗口にいたら、乗れたんだーよかったーという声が。車で通り過ぎながらすごい気になって、でも助けたいけれどあまりの足の取られ具合に乗せたら事故るかもと思うといえないという葛藤を抱え、密かに応援していたという方が。さすが縁結び空港(女性だけれど)。温かいお言葉にほっこりです。

2018年2月6日火曜日

身体の近代化

ここしばらく体操の日々をしていると、からだが硬くなっていくのがわかる。からだ本体が硬くなるだけではなく、動きの質も硬くなる。ダンス的にはちょっと困る。

もともとバレエなども身体の近代化のためのプログラムだったので兵役の訓練のためにも行われていた。三浦雅士の『身体の零度』でも触れられている。いかに正確に合わせて動くことができるか、からだをいかにコントロールできるかということが問われてきた。しかし自分の意思で動かす比率が高くなればなるほど、ゆるみは失われていく。自分以外の環境要因や気配、音などにより動かされている状態、自身の意思がなくなる状態になっていくほどからだ自体はゆるんできて、また感覚は鋭くなる。
民俗芸能の須藤先生は「ふみふみかえる、いきいきかえる」という。
足踏みを繰り返しながら土のエネルギーを体に入れ、そして循環して土に返していくそういう作業がある。力技ではなく優しい足だ。

人の振付を踊る際にはコントロールが必要で、その作家のベースとしているテクニックを入れながら踊る必要があるが、本当に豊かな表現性は柔らかなからだからしか生まれてこない。バレエもまたある一定のところを超えると開放していくのだと感じる。だから私のワークショップのタイトルは「ゆるやかでのびやかなからだをつくる時間」。
心地よいからだはみていても美しいと私は感じる。
体操に慣れていないから硬くなってしまうのかというとそればかりではない。特に今回扱っている建国体操などが力をいかに込めるかにフォーカスが行われているせいではないかと思う。
近代化する身体を体現するために体操の数々を実践してみている感じがする。逆にいうと今やっている私の動きは脱近代、脱魅せるからだ、脱-力技なのかもしれない。

お世話になっていた師匠がなくなり、彼女の踊りを踊らないのであればバレエを続ける必要はないのではないかと思い、徐々にバレエ比率を減らしていく。あるがままにもどるための作業、それでもからだにいろいろ染み付いているものなのかもしれない。(3歳からやっているというのはやはり恐ろしい)


バレエに限らずこれまで携わってきた様々な踊りはすでに染み付いている。だから滲み出てしまうもの。生き方と一緒。

それが表出。

表現ではないだろう。
私みて!をこえてはじめて見えてくる。そこから始まる。
でもそこに気がつける人は多くない。

あなたはなんのためにダンスをおどりますか?