2012年6月29日金曜日

オラトリオ合唱団@杉並公会堂

杉並公会堂で、巣鴨教会牧師さんの渡辺さん率いるオラトリオ合唱団の定期演奏会をきく。
杉並公会堂、セシオン杉並と間違って迷う。久々の荻窪でパンとコーヒー(荻窪に行くときはこの2店には必ずといっていいくらい立ち寄る)を買ったのち伺いました。
モーツアルト荘厳ミサ曲とヴェスペレ、オーケストラとともに。
パンフレットに各曲の歌詞および意味がのせられていて(もちろん日本語訳も)聖書研究の巣鴨教会らしいこだわりぶり。しかし、確かに宗教音楽は意味や背景をしって聴くべきであり、とても面白くきく。
帰り道踊るように帰る。

私はモダン(コンテンポラリー)ダンスの人間だけれど、クラシックは好きなのだなあとつくづく。ピナバウシュの春の祭典とかすごくすき。(昨日も学生さんと論戦)アカデミックなお茶大ダンスできなかったけれど、クラシックバレエもやっていないんだけれど(でも「からたち」「Never,,,」ともにバレエの人だと思われたらしいコメントが多数)、それでもよいなあと思う。
あと人の声に弱い。
合唱・オペラに限らず、人の声の持つ力に心ひかれる。(クナウカ阿部さんとか特に)
巣鴨教会パフォーマンスのときに1階から聞こえていた合唱をきいていた小島さん(受付担当)は「きのさん、合唱と踊るといいですよ」といっていましたが、いつかの野望にしたいと思う。
今日、音楽を聴いている間に見えたのは、群舞。
集団には集団ということだろうか、でも見えてしまったので、それもまた野望としたい。


2012年6月26日火曜日

ハコニワニハニワトリ下見

昨日は現代舞踊展(7月7日メルパルク)の下見でした。
下見というのは照明などのスタッフに作品をみせ、説明する会のこと。@参宮橋オリンピックセンター
「ハコニワニハニワトリ」というハンダイズミさんの作品は実は3回目。昨年9月の大和田さくらホール、12月のシアターXときて今回。
こうして同じ作品を演じることは日本では珍しいけれど、ダンサーとしてはあるいは作品のためにはその方が好ましいと私は思っています。その間にも少しずつ改良がなされてきました。(シアターXのときは15分バージョンだったし)
消費、消耗していくものではなく練り上げていくことができるのはありがたい。
何回踊っても飽きることはありません。

ニワトリというタイトルですが音楽は「白鳥の湖」。美しい感じの作品です。(でもニワトリ)昨年見に来た人には私が持ち上げられていることに驚かれました。確かにたいてい持ち上げる側なので珍しいことかも。またニワトリなせいか動きは結構ハードでこんだけ私が踊っているのも珍しいこと。10分なのに踊り終わる頃には池から出てきましたという状態になります。(実際作品の中に池を思わせるシーンがある)人の作品を踊ることは滅多になくおもしろいなあとおもいながらやっています。


10分の作品がいくつも並ぶので、照明を合わせる時間が16分ということだけが納得できません。作者はいつ照明のチェックを行うのでしょう。照明があたってこそ、見え方がきまるのに、それをすべてゆだねてしまっていいのだろうか、と思ったりします。
昨年のシアターXのときには小道具の置き方でアクシデントが起き、その前の作品でバトンの上げ下げをしたことから照明の角度がかわり、装置が見えなくなってしまったりというアクシデントがありました。不可抗力なのだけれど、それがとても心配です。

あと2週間、がんばります!



ダンスを教えるということ

現在私はダンサーにむけてダンスを教えるということをしていません。AMANOGAWAも映像制作のために参加いただいたというかたちであり、リードはしますが指導はしていません。ただかつては高校のダンス部コーチをしていたこともあります。保健体育教員だった時代もあります。
たまたま人から某大学のお仕事公募をご紹介いただき、どうしようかと迷ったりしました。過去にも同様に(他の大学でしたが)推薦いただいたときにも大きく迷いました。
「ダンスを教えるということはできるのだろうか」

日本の芸事の歴史では「芸を盗む」という言葉があります。教えるのではなく「盗む」言葉で教えてもらって得たものは自分の身にならない、自分で考えて見つけ出していくことが大切です。

ただ、現在の教育システムはサービス業でもあるので、わかるように説明したり、見せていくことが必要ですし、技術をつけさせる必要があります。

でも、技術って何だろうかと思うこともあります。

一般にダンサーとして生き延びるためにはプレーンな身体を作る必要があり、そのためのメソッドというものがあります。アカデミックな方法論というのがあります。私はそこからはみ出していましたが、はみ出しているということをわかるためにも必要な経過だったのだと今は思います。でももしかしたらそのためにかなりの遠回りをしたのではないか、と思うこともあります。そして今でもアカデミックな方向性では教えることができないだろうコンプレックスを抱えています。

そもそも大学でダンスを学んで、その後の受け皿が日本にはありません。
そのような状況でダンスを専門にする大学生がどんどん増えていいのだろうか、大丈夫なのだろうか、私自身が微妙なかたちで生き延びているのに、子供たちをそこに引きずり込んでいいのだろうかと考えていました。そして2004年に海外に勉強に出ることにしました。ダンサーとして生き延びていく方法を探してみたりしました。海外でも同じ状況だということがわかり、どうせ同じなのなら日本で活動しようと思って帰ってきました。

ロンドンにも多くのダンス学校があります。世界中からダンサーが集まってきます。でも正直言ってダンサーになれる子はそんなに多くありません。多くは「海外で学んできた」ことをいかして自国に戻り踊りを教え始めます。ダンサーになった子も、一生つづく仕事ではないので、少しずつこぼれていきます。カンパニー自体が教育プログラムをもっている所も多いし(イギリスは特に)、個人でワークショップを開くこともあります。ある年齢になってくると、単に経済的な守りの意味ではなく、人と積極的につながっていくため、自分の得たことを伝えるために始めることが多いです。

でも、教えるってなんなんでしょう。。。

「からたち」内にでてくるように教え子たちにはダンサーになった子も、社交ダンスにはまった子もいます。「タカセの夢」の子供たちもまた旅たっていくことでしょう。ダンスを続けていても生き延びていける、そういう可能性をみせていけるようになったら私はまた教育職をはじめるかもしれません。



2012年6月23日土曜日

考える身体

「考える身体」
三浦雅士さん(ダンスマガジンの元編集長でしたね)の論考。
先日黒田なっちゃんのアフタートークの司会に引っ張りだされたときにこれをテーマにぜひ話してほしいといわれ、30分前に渡されるものの(B4で3枚)、10分や15分のトーク(しかも中学生高校生向け)には適さないと思い、おいておいたもの。
ダンス人はまず間違いなく目にしているだろうこの原稿と国語の先生からの質問より書いておこうと思う。

本文は身体を忘れたオリンピック、芸術スポーツの可能性、老いの感動という3つの章よりなっている。
「人は皆死ぬ。この事実に耐えるために、人は踊ってきた。スポーツにしても同じである。人はそこで戦いの経験、死の体験を先取りしているのだ。ダンスを見、スポーツをみるということは、その体験をともにするということである。それは生きることの意味を全身で感じ取るということに他ならない。芸術スポーツの登場とともに、この問題が深く考えられるようになったのである。」
という部分についてぜひ語ってほしいというのが依頼でした。
依頼からは離れてしまいましたが、いくつか書いてみます。


①そもそも人はなぜ踊るのだろうか
舞踊の紀元は諸説ありますが、一般に「言葉以前の伝達手段としての身体表現」からスタートしたといわれています。また、稲作が始まり、思うようにならない自然に対する祈りから始まったともいわれています。
また、踊ること自体が快楽であり、本能の一種であるという声もあります。
「楽しかったから」「気持ちよいから」それはそれでわかりやすいです。

②今、なぜ人は踊るのか
ダンスときいてどんなダンスを思い浮かべる?ときいたらAKBとかKARAなどなどアイドル歌手の名前が挙がりました。そう、町の中には既にダンスがあふれているのです。テレビCMをみてみましょう、ほとんどのCMにダンスの要素が入っています。なぜここまでダンスがはやるのか。
私は生活の機械化により動かなくなった身体がその背景にあると思います。「人はこんなにも動けるんだ」という驚きが感動を引き起こすのでしょう。実際研ぎすまされた競技者•ダンサーの身体、動きは美しいと感じさせます。
一般の人の中にもオリンピック選手みたいにはなれないけれどといいながら、様々な踊りを楽しんでいる人が多く出てきています。私はコンテンポラリーダンスというマイナーなジャンルにいますが、フラメンコ、フラダンス、ヒップホップ、ジャズ、社交ダンス、サルサなどダンス全般をあげれば本当に多くの人が踊っているのです。
「かっこいいから」
「やせたいから」
と人はいいます。
では「かっこいい」とは何なのでしょう。

③かっこいいとは
平安時代は下膨れのかおや太っていることが美徳であったことを出すまでもなく、「かっこいい」という概念も時代によって変化しています。
同様に「美しい」「面白い」も変化していきます。
しかしながら、普遍的な何かというのは世の中にあって、芸術家と呼ばれる人たちはそれを追求しています。今の時代で世界に通じるものを作り出そうという人もいますが、多くの人は時代を超えるものをみています。
本文に出てくる芸術スポーツ(フィギュアスケートや新体操など)のように3回転か4回転か、足の上がる角度が180度か200度かといった技術はわかりやすく差がつきますが、(AしかできないよりはAもBもできる人の方が上であるというような)それだけでは判断ができないのが難しいところです。
芸術スポーツとダンスの違いはそこにあると思います。「なんだかよくわからないけれどすごかった」「なんとも説明ができないけど感動した」時代を超える普遍性の可能性はそこにあると思います。

④舞台芸術の難しさ
その瞬間を作り出すために芸術家と呼ばれる人たちは努力をし続けます。絵を描いたり、音楽をつくったり、小説を書いたり、すべての芸術活動が含まれます。ダンスもしかり。しかしダンスあるいは舞台芸術とよばれるジャンルは、その瞬間に生まれ消えていってしまいます。
小説や絵ならあとからみなおして再評価されたり、その後書いたものと比較検討できますが、舞台芸術は現在進行形で消えていってしまいます。
ビデオがあるという声もありますが、ビデオでは「なんだかよくわからいけれど」「なんとも説明できないけれど」の部分は伝わらないのです。
なので、みている人が必要になります。
みた人が伝説をつくりあげていくのです。
小説や絵のように(音楽については楽譜にのこせるという声もありますが半分パフォーマンスなのでここではおいておきます)かたちに残らないかわりに、みた人もひっくるめて作り出していくのです。
すべての出会いは一期一会。
日本ではそういう概念はあまりないのかもしれません。
みたときに感じたことを話すのは恥ずかしいと思うのかもしれません。でもその一言が次のダンスをつくっていくのかもしれないのです。うまく説明できなくとも、ネガティブな感想でもその時間を共有したということを大事にしてほしいと思います。

⑤テレビなどの映像と生の身体
テレビなどのマスメディアの影響は大きいです。有名になりたい、ああいう風になりたいとまねをする子供たちもたくさんでてきます。Jリーグが始まってサッカーの人気が高まったように、ダンスがテレビにでることでやってみたいと思う子供が増えるのはうれしいことです。きっかけは何でもいいのです。ただ、そこからいろんなダンスにふれてほしいとは思います。
生の身体でのパフォーマンスは④であげたように消えていってしまいます。しかしながら、そこでそのパフォーマー(ダンサー)と時間を共有したという記憶が残ります。小劇場でのパフォーマンスは特に。観客からボールを投げ返すということができるその距離感は今の時代だからこそかえって大切なのではないかと思っています。


⑥「若いとはすばらしいことなのか」
三浦さんの論考は最終的にヨーロッパ近代の「人間が自然を支配するように意識が身体を支配する」「若さを美徳とする」考え方に疑問をなげかけ、「おのずから生成消滅する自然の声に謙虚に耳を傾ける」日本的な考え方を示唆して終ります。日本舞踊井上八千代の例を挙げていますが、武道、能狂言、歌舞伎どのジャンルでも「老い」は負の要素ではないと話しています。
私の身体表現法の授業の中で舞踏の話しをするときに特徴として2点をあげています。外から見たかたちではなく心で思い描いたイメージを重視した点と老いや死、貧しさといった社会的に闇と考えられていた部分にフォーカスを当てその中に新しい美を見いだした点です。
舞踏の考え方は現在海外の舞踊家、舞踏家に受け入れられています。本来の土方さんが考えた思想とはかわってきてしまっているかもしれませんが、それでも広がっていきました。大野一雄さんは今でも伝説として語られ、同じ日本人だというだけで何度となくきかされてきました。
たまたまですがヨーロッパ時代にお世話になったラッセルさんは50歳をすぎた今も現役で舞台で踊っています。舞踏に関心を持ち、どこから入手したのか山海塾の写真集までもっていたくらい日本好きでした。(シルヴィーさんもそうですね)この論考が発表されて10年以上がたち、その間に少なくともコンテンポラリーダンス業界ではかなり「老い」をとらえているように感じています。NDT3のような例、ピナやガロッタのように60歳以上だけで構成したピースの制作(なお、現役世代や子供たちとの比較も行われている)もありました。
すべては何を見せたいか、何がテーマかによるもので、幅広い年齢層のダンサーが存在するようになってきました。コンテンポラリーダンスがたかだか30年ほどしか歴史を持っていないだけにまだまだこれから増えていくことでしょう。


⑦再びなぜ踊るのか
高度成長期がおわり、バブルを体験し、文明という点では成熟期にはいってきました。
本文中三浦さんは生産から消費という言葉の使い方をしていますが、消費もしない、省エネルギーの時代へと入っていくと思います。現在ある資源を生かしながら、こころ豊かに暮らすためにどうしていくか。たくさんものがあっても、お金があっても、長く生きても幸せとは思えないのはなぜか。老いを受け入れていく日本の伝統芸能の考え方は一つのヒントかもしれません。老いを受け入れるためには無駄なものはできるだけ排除していかなければいけません。いかにシンプルに。まさしく省エネルギー。

私はダンスというジャンルにいますが哲学のようになってきました。ダンスとして何を思い浮かべるかは人それぞれです。私にとっては哲学や宗教も近いところにあり、ダンスと名前がついていますが生活すべてがつながっているのです。あくまで私の個人的な考え方で、すべての人にとってというものではありません。
ただ、ダンスを通してもそのように考えることができるというだけです。


その昔ダンスの紀元が祈りであったように、きっと私は考え祈り踊り続けていくのでしょう。







からたち その後

時間が経ってしまいましたが「からたち」ご覧下さった皆様ありがとうございました。
様々な感想をいただいています。
ウェブ上にでているもの
茶会記福地さんのコメントhttp://gekkasha.modalbeats.com/?cid=42168
月羊記http://hiro-moon.at.webry.info/201206/article_2.html

アンケートの回収率が高いと受付担当小島さんより驚かれました。厳しいご意見もありますが、それもまた自分の糧。またがんばっていこうと思います。

さて、いくつかあるコメントの中から気にかかるものを。

①きのさん、やっぱり即興の方がおもしろいんじゃ、、、。
ダンスクラシックも見に来てくれたsentival!参加団体の方より。
「それをいっちゃあ、おしまいよ」と返しましたが、即興の方が面白いというのは昔からいわれていることです。記憶に問題がある分、考えないで動き、それを変容させていく方がはるかに面白いものになる可能性があります。でもそれではダンサーとしてまずいので、作品をつくる努力をしています。
過去の作品でも振り付けがほとんどないかたちで構成を作り上げている物があります。(オリジナル版のEdgeなど)
パッヘルベルは即興です。

②台詞覚えの悪さというよりはシェークスピアだったからしょうがないよ
作品内に台詞覚えの悪さについて語るシーンがあり、それが何を意味しているかわかったのは高校時代の友人だけでしょう。シェークスピアの3時間半の作品の3ページ半ならいいのかといえばやっぱりだめだと思います。。。
シェークスピアというだけではなく、基本的に覚えるということがとても難しいです。今でも授業でするべき内容をその日の朝にリハーサルしてから授業にいくような有様です。たとえ「むすんでひらいて」でも油断できません。
ラッセルカンパニーにいる間に大分ましになりましたが、逆に海外の場合は振り付けを覚えるだけの時間をかけることができます。
こちらに帰ってきて作品をつくるときはたいてい家にこもってつくっていますが、かなりの時間をかけて(くりかえしを経て)作品をつくっています。練習場所が家なので朝から晩まで、たまに深夜までです。本当に。やっていること簡単なんですけれどね。

③その台詞覚えの悪い人がどうやって覚えているのか
まず動きをつくっていき、その動きにあわせて台詞を思い出していきました。
型のようなものをつくり、これをしたらこの話しをするということで覚えています。通常の逆ですね。ちなみに「からたちの花」の歌もまだ歌えません。
また、個人の話しをしているのと、脚本家がいないので多少つけくわえられたり、へったりしてもゆるされるのですが、それにたいする詰めが甘いという声もあります。


④やはり感傷にすぎないのではないか
⑤一般の人を巻き込んだにしてはよい事例。
⑥一般の人がでてきても何も物語らない。
今回の作品はAMANOGAWAのシーンへといかにつないでいくかを考えて構成されています。個人の歴史→それぞれの人の歴史→観客へと広めていくと拡散していくかたちをとっています。時間的には短いのですが、AMANOGAWAの皆さんの身体にポイントをおいています。できるだけばらばらの、トレーニングされていない身体(本当はダンサーさんも混ざっているのですが)で行うことに意味があると考えています。
中途半端にトレーニングしている身体くらい気持ち悪いものはないと思います。でもだからといってある程度の年齢からできることというのは限りがある。であれば発想、視点の転換で勝負をするしかありません。私自身があまりよいダンサーではないので、そんなことを思います。

たまたまというかそれもまた必然なのか、私は小さい頃からダンスに触れてきました。が、世の中にはダンスとは関係なく「いるだけで面白い」人がいます。「いるだけで物語ってしまう」人はダンスのトレーニングとは関係なくうまれてきます。
ダンサーや役者になるためのトレーニングとは様々な役をやれるキャパシティを広げるためのものです。が、それは個性を減らし、プレーンな状態にしていくことでもあります。まさしく一般のダンスのクラス、大学での授業などはそういう視点でつくられています。(私はその中に入れずにいました、長いこと)

しかし今の時代一般にとって必要なのは自分の身体を知り、自分を受け入れていく、信頼していく作業ではないか。みんなで一つの物をつくる「よさこいソーラン的な」達成感も大切ですが、自分と向かい合う時間をもつということが大事なのではないかと考えています。そういう所から個人の存在感は生まれるのではないかと。
AMANOGAWAは短い時間で作成しており、継続性ということは考えていなかったのですが、個人的にとても興味深いプロジェクトなのです。

なので、何らかのかたちでつくり続けていきたいと考えています。

演劇サイドの方からは後半のシーンは好評で、ダンスサイドの方からは「素人でしょ」という声になるところがとても興味深く思っています。


⑦なにかが足りない
何かが足りない、ではそれは何か?
だから私は踊り続けていれるのかもしれません。
作品中大学時代の同期の話しが出てきましたが、その多くが結婚したり、指導者になったりと踊りからはなれています。何かが足りないままだからこそ、私はまだつくらねばならず、今に至ります。
破綻のようなもの、意外性という声もありました。
が、そのような破綻は私が自作自演でつくっている以上考えだした時点で破綻ではなくなります。つまり他者の存在がなければ難しいと私は思っています。それは音楽・照明などのスタッフかもしれないし、演出家かもしれません。
「でもいつかはのりこえなければいけない」
銀河鉄道が中止になり、その話しを報告したときにいわれた言葉です。一人をのりこえなければいけない。
からたちはすべてを一人で行う作業でもありました。構成演出ということだけではなく、制作的な作業も含め。多くの人に手伝っていただきましたが、大本はすべて握って。この作品自体が「自分について語る」しかもできるだけ一般的な事象だけを使ってたんたんと、というのがテーマだっただけに、一人ですべてつくっていくのは必然でもありました。ここからすこしずつ広げていくというのが目標です。


お越しいただいた皆様、本当にありがとうございました。


2012年6月18日月曜日

Never let me go 無事終了しました。

Never let me go 無事(?)終了しました。
?がはいっているのは、どうにもこうにもやっぱり何かが起きてしまう作品で、それもまた面白いというのかそういうものだと受け入れるしかないという点があるという意味です。

普段たおれるだろうところでたおれず、もう大丈夫と安心したところでたおれてくる。はらはらどきどきさせられる存在のコートちゃん。
自立するコートちゃんとの生活もはや半年近くになり、かなりなれてきましたが、それでも何がおこるかわからないのです。思わず支えたまま照明がついたときにはどうしようかと凍り付きました。手今から引っ込められないし、これは貞子化するしかないのではないかと思ったり。(貞子やらないか?という依頼があったこともあるくらいひそかに近い存在の貞子イメージ、、、でもここで貞子になっては作品のイメージと意味が大分かわってしまうので踏みとどまりました)予想外の展開に作品後半がかなりかわってしまいました。


今回以外なお客様が多くいらしていて、ちょっと驚き。
皆様からの感想をお待ちしています。




コートちゃん愛されています。アフタートークでも言及されました。コムデギャルソンを思いおこすだそうです。ぜひ店でやるべきだとのこと。それはぜひ計画をねらねばなりません。(このコメントくださった方、連絡お待ちしています)

ちなみにあのコートはイギリスのフリーマーケットで10ポンド、、、。しかも衣装の使い回しでこれで舞台に出すのは3回目(過去2回はプレイスで行ったThe theree cornered world)。




余談ですが、とりあえずこの舞台芸術祭(テーマ宮沢賢治)の参加者はかなり幅広く、演劇、大道芸、ダンス、音楽なんでもありで、本当にレベル差も激しく、中身もばらっばらですごいです。すごいがどう表現したらいいのかよくわからないのですが、とりあえず世の中いろんな表現があるなあということと、世の中こんなにたくさん人がいるんだということがわかります。たまたま私がみた日が強力だったのかと思いきや、そういうわけでもないらしい。ちなみに私の日は上田さん(シアターX)より「真っ向勝負をする人たち」という評を得ました。その前の日はすごくまじめにストイックに踊るアンサンブルゾネさんとミヤケンサンバの対決(別に張り合っているわけではない)でした。カオスです。
面白いのかどうかちょっとわかりませんが見に行くたびになんらかの衝撃をうけて帰る気がします。
それをみたせいか、なんだか「無事?終了な感じ」がするのかもしれません。
国際舞台芸術祭は24日まで。


帰りの電車の中で大学時代の先生に「宮沢賢治がおりてきて」休講になった話しで盛り上がりました。私たち同期(同窓生)の中では伝説となっている事件。賢治さん、こんな所にまで影響を及ぼすとは。侮れません。



2012年6月15日金曜日

Never let me go 予告

「幻想 銀河鉄道」構想中より、宮沢賢治についてかんがえてきました。
銀河鉄道の夜は彼の代表作ですが、その作品は何度も書き直され、未完のままになっていることはあまり知られていません。最愛の妹とし子を失って、書き始めた銀河鉄道ですが、はじめはカンパネルラは死んでいなかったし、すべての旅は博士の実験でした。(筑摩文庫、宮沢賢治全集の中に異稿ものせられています。原稿にナンバーなどがないこともあり、様々に文の置き換えが行われてきました。)10年、病床の中でも書き直してきた過程はまるで、とし子の死を受け入れていく、とし子の生き方、信仰を見つめ直していく旅のようでした。とし子の自省録などもありますが、彼女が本当に何を考えて生きてきたのかは謎のままです。

法華経だった賢治がキリスト教にふれたのもとし子の影響が大きかったと思います。銀河鉄道のシーンのイメージがあったこともあり、巣鴨教会に出会ったとき私はAMANOGAWAはここでやらなければと思ったのでした。

この作品をつくる前から、私は自分の中にいるもう一人の自分をテーマに作品をつくってきました。自分のかたわれとの対話から多くの作品が生まれてきました。ただ、そのもう一人の自分というのもまた自分が作り出したイメージにすぎないということも私は知りました。きちんとみつめおくりださねばなりません。私にとってはまさしく「幻想 銀河鉄道」の代わりにつくった作品です。

3月にAMANOGAWAプロジェクトの副産物として映像での制作を行いました。本来発表するはずであった、踊るはずであったアルテリオで制作したかったのです。
それから3ヶ月がたち、私はもう一歩前にすすまねばならないと思い、後半に新しいシーンを付け加えました。

今回初お披露目、そして今回で最後になることでしょう。賢治のフェスティバルゆえに上演しようと思いました。

「私を離さないで」というタイトルは小説・映画にありますが(カズオ•イシグロ作)特につながりはありません。友人と話していたときにたまたまでてきた言葉です。しずかにみつめ、丁寧に向き合いたいと思っています。


6月17日(日)2時半開演 シアターX



おまけ
巣鴨教会さんの掲示板にあった「隣る人」という映画のチラシにNever let me goの文字が。
(受付を手伝ってくれていた小島さんが発見してくださいました)理由あって家族とともに暮らせない子供たちのくらす児童福祉施設のドキュメンタリーです。こちらも関係はないのですが、あまりにタイムリーだったのでみてしまいました。


2012年6月9日土曜日

ダンス×クラシック

ダンス×クラシック
あの巣鴨教会でマリンバとピアノ(とオルガン)のコンサートにダンスが加わるという企画。本当は別のダンサーさんが行うはずだったものが回り回ってきののもとへ。しかしダウンしてるんじゃないかと不安だったのと、面白そうだったのとで永井美里ちゃんに声をかけ広めてみました。
実際面白かったです。
礼拝堂空間広いし、昼間なので明るいし、2対2になるので、いろんな組み合わせが考えられるし、「きまりのある即興をしているようなものかも」と演奏者よりいわれるほど。
もしかしたらもっと自由にできるのかもという気もしていて、それは今後の課題です。

マリンバのカタバミさん、ピアノの香取さんともにかなり柔軟な感性の持ち主で(カタバミさんは即興演奏も行う他、香取さんの旦那さんはカトリ企画のプロデューサー)面白いです。美里ちゃんはまえまえよりブログに登場しているようにきの作品で踊ってもらおうと思ったダンサーさんなだけにはずれません。(教会が似合うという点でもぴったりでした)
また何かの機会にご一緒できればと思います。


その後へにゃへにゃになったのはカタバミさんだけではありません。私もダウン。それだけがんばったってことにしてよく休むことにします。


なお、6月27日にダンサー阿竹さんで再度ダンス×クラシックがあります。ちなみにそのときは1階での開催。ちょうどグランドピアノがはいったところ。ご興味あればぜひ。

ちよっこ

この忙しいさなか、教え子が母校で踊るというので見に行きました。
「からたち」本編の中でも語っていたとおり、ダンサーになった子も社交ダンスで全国優勝なんて子もいますが、その中の一人黒田なつこの呼びかけです。
残念なことに一般人が来れない学校行事の一部、しかも午前中ということもありましたが、普段ダンスをみないだろう学生さんたちが直接ダンスにふれるというのはとてもいい機会だと思うのです。
ついでにアフタートークを担当することになり、コンテンポラリーダンスについて解説することになってしまいました。

8年ぶり(2004年にフランスに行くまでつとめていた)ということもあり、ドキドキしましたが、グラウンドも体育館も健在!先生方も多く残っていて(これは私学のいいところかもしれません。公立の学校は移動が多いので。)、ご挨拶ご挨拶。皆さんお元気そうでした。

たまたまですがダンス部の中でもとてもいい時期にいさせていただいて、私も多くのことを学びました。また彼女たちが自分の力で自分の道を切り開いていこうとしていることを誇りに思います。富田先生ありがとうございました!


さて、そのとき野田先生より「考える身体」三浦雅士のお題が出されてしまい、さすがにアフタートークでは難しいだろうということで、棚上げになってしまいました。これはこれできちんと論考したいものです。

now here dance /ren dance

山崎広太さんの企画When where festivalの2演目で踊ってきました。

Now here dance
簡単にいうとスコアのある即興で、私は一昨年参加しました。(去年は静岡にいてお休み)
直前に1時間ほどのリハーサルがあるものの、とりあえず段取りをおぼえるだけでいっぱいいっぱい。参加者だけで2、30人いるので名前を覚えきれないまま終る。
でも終った後少しずつ話し、ちょっとずつつながりをつくっていく、そんなかんじ。
ダンスの場合スコアといっても楽譜と違って曖昧な物で、だいたいこんな感じで動く位の物でしかないのですが、ある意味いろんな人がどんどん入ってどんどんかわっていくのが面白いのではないかと思うので、何回か違うメンバーで展開してもいいのではないかなと思ったりしました。

Ren dance
舞台上に4人のダンサーがのっており、①自分の体験談を話す②紙に書いてあるお題のダンスをする③周りにあわせた即興④移動をおこなう。
体験談はなんでも。世代間の対話というサブタイトルがついており、おそらく70代の大先輩から20代ちゃきちゃきダンサーまで幅広い。なので話題もぎっくり腰から視力まで幅広い。(しかし今回なぜかけがや身体の不調に関する話題が多かったことが気にかかる)どうしてもそのとき話す人の言葉に左右されるところが面白いというもの。
ちなみになぜか私は話し手1番に当てられてしまい(紙に書いてあった)しかも話しのリハーサルをしそびれて焦る。
ちなみに話しの内容は前日の巣鴨教会話より。
「昨日おとといと舞台の本番で、とある教会で踊っていました。そこの牧師さんとお話をしていたらその昔、それも25年も前に大野一雄さんのリサイタルで演奏したことがあるとのこと。恐れ多くも一曲演奏していただくことになりました。その日はちょうど大野さんの命日で。私はキリスト教徒ではありませんが舞台の神様はいると信じています。高校生のときどんな舞台にも神様はいるといわれました。今は観客の皆さんの中に神様がいるのだと信じています」
というような話しをしました。

高校生のときの舞台の神様の話しは森ちゃんよりです。(といっても合同公演関係者しかわかりませんが)

巣鴨教会について

今回「からたち」でお世話になった巣鴨教会についていくつか質問がきているのでお答えします。

◎渡辺牧師について
あの語り口、存在感、とりあえず圧倒的にインパクトをのこした牧師さんについて質問が多数寄せられました。1日目にははなしていませんでしたが、その昔25年ほど前に大野一雄さんのリサイタルで演奏をしたことがあるそうです。元々はパイプオルガンを専攻なさっていて、ロンドンにまで留学したという腕前。うまいはずです。(現在もリサイタルなどで演奏はしていますが、最近は合唱団の指揮者として活躍しています。あの声はここからきているのでしょう)
そのとき演奏したのはバッハの曲で、実は合わせのときに演奏していただきました。そのビデオはiphoneでとっていますが、ちょっとすごいです。でもあまりにハードで今回は見送りに。結局パッヘルベルになりました。
ちなみにその日は大野さんの命日。2周年ということで3回忌というのでしょうか。
たまたま見に来てくださった大野研究所の方にありがとうと感謝されました。

◎アルバムについて
作品中で手に取るアルバムですが、これは昭和48年の巣鴨幼稚園のものです。私のアルバムではありません。そこから読み取ったこと、個人の記憶を混ぜ合わせながら読んでいただきました。
実は閉園後なかなか整理ができないままアルバムなどが山積みになっていました。たまたま訪れて手にしたアルバムでした。ある意味運命の出会いです。
ちなみに「手にしてめくったページに写っていることから何かをいう」ということになっているので、皆さん毎回読むことがかわります。

◎オルガンについて
渡辺牧師の演奏してくださったオルガン、教会100周年の建て替え(つまり昭和48年)のときにいれたものだそうで、教会用電子オルガンの走りともいえるものだそうです。当時の価格で250万円(!!)。黒田オルガンさんというところのものだとか。
31個もストップがあり、さまざまに音色を変えれるのだそうです。足下を見ると足踏みペダルもたくさん。現在も礼拝ごとに使用されていますので、ご興味のある方はぜひ。

◎巣鴨教会の礼拝
毎週日曜10時15分から
聖書、賛美歌の本などは貸し出してくださるので、とりあえずいけば大丈夫。
ささやかながら献金用の小銭があると好ましいです。
公演が終ったこともあり、毎週伺うことはできないのですが、(なにせ私の家は遠い)今後も時々伺いたいと思っています。

2012年6月7日木曜日

ここしばらくのこと

ここしばらく公演が続き、簡単にいえばずっとフル回転、ちょっとたくさん書かねばならないことがあるので、あげきれず、そのままブログも放置になっている。
ちなみにうちの中も大混乱、さらに冷蔵庫の中は空っぽ(冷蔵庫の中身は公演前にいっぱいにしておいたけれどまとめ漬けしておいたピクルスまでも食べ尽した)。とりあえず、早く日常に戻さねばならない。

追記 これを書いたのが木曜朝。学校いってる間にみるみる具合が悪くなり、丸一日ねこみました。せっかく妹が出張ででてきてるのに、約束をキャンセル。ボストン展もみにいけなさそう。 誰も信じてくれないけど、一応かよわいんです。ダンサーとしてはかなり情けないけど。 とにかく来週土曜にむけて体調回復させます。

2012年6月3日日曜日

からたち無事終了しました。

「からたち」無事終了しました。
お越し下さった皆様本当にありがとうございました。
作品について語ることは多くあり、また後日別途アップします。
ただ、今回本当に多くの人に関わっていただき、それについて本当に感謝しています。
たまたまとはいえ、この巣鴨教会に出会い、さまざまなお話を聞き、作品をつくりました。公演パンフレットにあるとおり、教会について語ることはできませんでしたが、多くの人にこの教会で同じときを過ごしていただき、とても幸せな時間でした。
さまざまな人の縁で踊り続けて来れた私自身もまた常に助けられ支えられてきました。
私はキリスト教信者ではありませんが踊るということはとても宗教に近いと感じていました。
暗闇の中にここにはいない誰かをみる。
自分の信じる踊りを追求し続けること、自分と向き合うこと、多くの人に伝え広めていくこと。

昨日今日、たまたま、誘われて、さまざまな理由で公演を見にきてしまったお客様、ありがとうございます。多くのアンケートの言葉、とても心強く、また励まされます。(たとえ厳しい言葉でもそこから新しい作品が生まれることがあるのです)もし可能であればどんな感想でもいいので回りの皆さんにお話ください。(私にもお寄せください)「すごいへんなものみたよ」かもしれません。「なんかすごかったよ」かもしれません。コンテンポラリーダンスというジャンルはいままだマイナーなジャンルです。その一言がAMANOGAWAのろうそくがお客さんへと広がっていったように、2000年前からキリスト教が少しずつ広まり今につながっているように、つないでいけたらと思います。
フランスのコンテンポラリーダンスの歴史は30年ほどです。30年でどこまでかわっていくのか、1ダンサーとして日本で踊ろうと思い、多分踊っていくのだろうと思っています。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

ありがとうございました。



2012年6月2日土曜日

からたち初日でした。

本日、無事?からたち初日をむかえました。 学校仕事があり、しにかけましたが、なんとかおえ、様々な意見をいただきました。アンケートが濃いです。個人の話のせいでしょうか。 前日、当日におそろしく予約がふえ、満員御礼となりました。立ち見のようにごらんくださった皆さん、ありがとうございます! 明日はまず、音響チェックからです。反省事項。渡辺牧師さんの演奏は明日もあります。 明日は少し座席に余裕あります。昨日のように一晩で15人とか増えると不安ですが。 どうぞよろしくお願いします。

2012年6月1日金曜日

いよいよ明日です

いよいよ明日「からたち」本番です。(え、今日??もう既に日付はまわってますね)

今日も巣鴨教会でリハーサル、鳴海さん(第七劇場)ががんばってくださり照明など本当に美しい舞台になりそうです。渡辺さん(巣鴨教会牧師)にも演奏していただくなど盛りだくさんの会になります。

そして今回来れない皆さん(なにせ遠いなどの理由で)からもたくさんの応援のメッセージ、ありがとうございます。返事が不十分ですがとても励まされます。よい舞台になりますように。

巣鴨教会は駅から遠くはないですが一本入るので、お早めにお越し下さいませ。
お待ちいたしております!

(実は明日朝は授業があってあぶくたったをしているはず、、、今もその準備中。)