一期一会 山崎阿弥さんの回が終了。
今回の記録をできれば文字起こしをしたいと思いつつ、時間がかかりそう。
山崎さんとの話し→その話しをうけつつそこからキーワードをひろう→踊り(山崎さんは照明をやってみてほしいというお客さんの無茶ぶりにも対応)→話しという流れでした。
きて下さった方もまた私と山崎さんの活動をよく知る人たちだったので結構ディープな話しになり、山崎さんがこれまでたどってきた活動(写真、映画、音楽、インスタレーションなど幅広く)にはじまり、いろんなお話を伺いました。
その中で「シェアをする」という言葉について引っかかりを感じるとの話しが出てきました。つまり私たちが行っていること(山崎さんだと声を出すための身体の操作術になるだろうし、私の動き方もそう)はそう簡単にシェアできるものではない。自分の技術がそう簡単に伝えられるものであれば、私のいる意味はなくなってしまう。
ラッセルさんが(現在はワークショップのようなものも行っているらしいが)当時教えやワークショップを行っていなかったこともそうだが、その振付家ごとに身体の作り方があるわけで、それはそう簡単に習得できるようなものではない。
これができれば良いという正解がないコンテンポラリーダンスだからこそ、下手にトレーニングをふむことで無個性化していくし、それくらいなら一般の人が踊った方がという流れがあり、コミュニティダンスという形でどんどん広まっているし、今後も広がっていくと思う。その一方で誰でも舞台にのれるというのはどうなのか?という話しが出てきました。
貸し館の公共ホールでお稽古場の発表会が開かれるというのと何が違うのか。
これは現在かかわっている仕事でもそうですが、今後仕事として一般の人の身体を舞台上にのせ普遍性の表現にする演出力が問われるようになるだろうと考えています。演出力、ファシリテーター力、みせ方。つまりダンサーとしての職業は特殊技術を持つ人(サーカス、クラシックバレエなど)はともかくどんどん減っていき、演出、ファシリテーションがより必要とされるに違いないと思っています。
さて、今回私は山崎さんの声の出し方や技術をまなぼうとしているわけではなく、見方、視点を引き出したいと思いました。引き出し、思考回路の元になっているもの。シェアするものというよりは既に多分近い概念を持っているのではないか。
歌はそれだけで涙がでてくる、心臓にとても近い部分だとのこと。
自分の発している音と聞いている音が一致するようになったこと、自分の耳がパコッと外してまるで外にあるかのような感じ。
音が時間芸術だとは思わない、私にとっては空間芸術だと思う。
など。
山田せつ子さんとお話していたときに
よいダンサーにはたくさんの秘密がある。との言葉が出てきたことがあります。
様々な記憶、質感そういうものがダンスの引き出しになる。
この一期一会は私がそれぞれの人たちから学ぶために設定した場。
秘密の引き出しを少しのぞかせていただく会。
本来だと宣伝をたくさんしてお客さんをたくさん呼ぼうとなりますが、この会だけはむしろひっそりと。自分のためにまた表現者のために開く会。ここから新しい作品が生まれるかもしれません。
茶会記 福地さんがブログに写真をあげていただいています。
茶会記は狭いこともあり、映像や写真記録はとれないのですが、ありがたいことです。
http://gekkasha.jugem.jp/?eid=954722
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