母校のそばの教会で作品作りをしたのがきっかけで、母校のそばの学校に再び通うようになって2年ほど。様々なスポーツの話を聞き続けてきた。
今日この作品を見に来た私の友人、ダンス関係者はダンスを芸術だと思っているかもしれない。でもここには体育の一種目として捉える価値観がある。さらには今年の体育学会のアンケートでは「スポーツ(ダンスを含む)」と表記されていたという。そうか、ダンスはスポーツなのか。
あれ?
茗荷谷駅のそば、通りを隔ててある二つの母校の歴史を追っていくとダンスと体育の歴史が見えてくる。その歴史は私自身が歩んできた道でもある。保健体育教師からダンサー、振付家へ。ずっと違和感を感じながらごまかしごまかし過ごしてきた部分でもある。学校で必要とされるダンスは私の考えているダンスと違うらしいと長く感じていた。
大野一雄さんも長く体育教師を務めていた。そもそも女子校に赴任しなければダンスを習おうとは思わなかっただろうと聞く。体育であったからこそ、体操教師だった大野さんはダンスに出会った。大野さんの力を借りて体育であるその必然性について、両方の立場から見てみよう。
体育の歴史を追ってみると、オリンピックがあるごとにスポーツ色が強くなることがわかる。昭和40年ごろ体育学会では舞踊と体育教育についてのシンポジウムが多数ひらかれていた。例えば木下(昭和40)は「もしダンスを芸術的視点から教材として主張するのであれば、時間不足に悩む体育が芸術にまで手を広げる余裕などあるはずがない」という。しかしダンスは初期の頃からあり、しかも当時からスポーツとは明確に区分けされていた。発生から違うものなのである。昨年10月にスポーツ庁ができ、体育がその管轄に入ることになった。気がつけばスポーツの中に取り込まれてしまうのかもしれない。(一応現在はカッコ書きにしてくれているあたり、ダンスへの配慮が見られる)そんな中、今一度そもそもダンス教育とは一体なんだろうかと考えて見る必要があるのではないか。ダンスはすでに女子だけのものではなくなっている。であるとすれば今の時代にあったダンス教育のあり方を考えるべき時に来ているのではないだろうか。ダンスに関わるみなさんはどのように思いますか?
母校の中にあるピラミッドのヘリ、Edgeを歩いてきた。その歴史は長い間コンプレックスでもあり、林さんとの対話から多くのことを思い出した。でもそれゆえに作品を作り続けることができたし、それが個性となった。その本流の歴史を見直すことは20年近くが経過した今、外にいるからこそできることでもある。不勉強ではあるが、一表現者として論文ではなく発表することを試みる。
ダンスもスポーツも社会に利用されつつ発展してきた。知らず知らずに影響を受けてしまうものだからこそ、知る必要がある。踊る上で大切なことは当事者として感じ、考えること。現代はそんなにファンタジーじゃないし、カッコつけてる場合じゃない。今、必要なことを考えるためのダンス。それを私は作りたいと思う。
用語解説
1.
体育の3分類
現在スポーツ、体操、ダンスの3つを合わせて体育と呼ぶ。
カイヨワの遊びの4分類におけるアゴン(競争)の原理をもとにしたスポーツ、体を作るための運動である体操、そしてミミクリ(模倣)とイリンクス(眩暈)を基としたダンス。レクチャー内でも出てくるが、ダンスとスポーツでは発生の形が全く異なっており、これは体育の導入時から完全に区分けされている。
図カイヨワの示す遊びの4分類(多田(1990,p359)を元に筆者改変)
2.
ダンスの日本語訳
今回ダンスに統一して用いられているが、舞踊という言葉は坪内逍遥により明治10年頃より使われるようになった。なお、舞踏は平安時代から用いられている言葉であるという。
· 舞踊 (DANCE)
· 舞踏(BUTO)第一義には「西洋音楽に合わせた西洋風の踊り」とかかれる
· 暗黒舞踏(BUTO)土方巽、大野一雄を中心として1960年代に起こった前衛舞台芸術の一種。
3.
現在教えられているダンスの内容
平成20年の学習指導要領改正の際に中学校におけるダンスが必修となり、各学校の判断でダンス授業を行うことになった。ダンスの種類は現代的なリズムのダンス、フォークダンス、創作ダンスであるが、そのいずれか、あるいは複数を合わせるなどの具体的な内容は各学校の判断に委ねられている。文部科学省ホームページにはダンス授業のリーフレットが公開されている。
4. 当時の体育の分類
舞踊教育の歴史については時間の都合もあり、今回あまり触れることができなかった。
松本千代栄撰集第2期3(2010、舞踊文化と教育研究の会編)、大正後期の体操科における「体育ダンス」の研究 : フォークダンス教材とナチュラルダンス教材からの考察(廣兼、2014)、明治期ダンスの史的研究(村山、2000)などに詳しい。
図学校体操教授要目の変遷
5.
筑波大学とお茶の水女子大学
茗荷谷駅すぐにあり、通りを隔てて2つの学校は並んである。筑波大学は旧称を師範学校、東京師範学校、東京教育大学といい、現在も茗荷谷地区に付属学校とサテライトキャンパスがある。つくば地区にある本校には120名を超える体育系教員がおり特に体育に力を入れていることで知られる。なお、筑波大創始者嘉納治五郎は講道館柔道を創設、オリンピック招致にも貢献した。彼が考案した「精力善用国民体育」には攻防式(俗に言う柔道の組手のようなもの)と表現式の2つがあり、後者を「舞踊の如き」と記しているが、形にすることはできなかったという。彼がどのようなものを作ろうとしていたのかは分かっておらず、ただ五の型の後半3演目はそれに近いという。
お茶の水女子大学は師範学校女子部、東京女子師範学校、東京女子高等師範学校に由来する。私の卒業した舞踊教育学科は定員が15名と少なく(私の学年は20人であったが)、舞踊経験者とは限らない多種多様な人材が集まっていた。なお、私は水村研究室(運動学)で卒論を書いており「音楽が主観的運動強度に及ぼす影響」というタイトルで、ダンスではなかった。
今回お茶の水女子大学図書館の所蔵本の展示「女子体育の前奏曲(プレリュード) お茶大創立140周年記念展示」を見つけ、ご協力いただいた。いずれも各学校に所蔵されているもののため、卒業生などは利用できる。また、今回使用した写真資料の多くはお茶の水女子大デジタルアーカイブスに所蔵されているものであり、ネットで見ることができる。展示本のリストは下記参照(略)。
6. アーティスト派遣事業
現在横浜市では「芸術文化教育プラットフォーム事業」が行われている。ダンスに限らずアーティスト(美術、音楽、演劇、伝統芸能、ダンス)が小学校に派遣され、授業展開を行う。これまでも文化庁の事業として行われてきたほか、芸術家と子どもたち(東京)など同様の事業が行われているが、自治体主導でこのように大きな規模で行われているのは全国に先駆けてのことである。
この事業と同様のものがイギリスにCreative
Partnership事業としてあり、コミュニティダンスの広がりに大きく貢献した。(なお、私の修論ではこの事業が政権交代のあおりを受け、突然なくなってしまったことを取り上げている。)
7. 今回取り上げたダンスについて
1ちょうちょ
当時はピアノなどが一般になく、当然蓄音機などもない。そのため多くの遊戯は歌を歌いながら行われていた。今回は動きやすいよう林さんに伴奏をお願いした。
2瑞典式体操
井口阿くりによる導入後男子の体操にも取り上げられたため、多くの資料が残っている。レクチャー内にあったようにどこの体育館にもある肋木はこのために用意されているもののほか、綱を用いてぶら下がる等、アクロバティックな運動も含まれている。
今回使用した図は実際にこのように記載されており、しかも番号をほとんど入れ替えず使用している(一部動きが間に合わないなどの理由から省いたり、入れ替えているところがある)。これらの資料の多くは国会図書館デジタルライブラリーにて入手可能。なお、筑波大学がスェーデン体操を復刻したというwebニュースを発見し問い合わせたが、返信がこず確認できていない。
3ラジオ体操
現在行われているラジオ体操は3代目。今回ご紹介したのは2代目ラジオ体操第2である。第2は特に難解で、音楽もワルツであったことからあまり評判が良くなかった様子である。なお、2代目のラジオ体操第1は日本女子体育指導者連盟(おそらく現在の女子体育連盟)、 第3は日本体操協会が作成している。2代目ラジオ体操第3については昨年龍谷大学の安西先生が復刻、かくれたブームとなっており、DVDなども販売されている。運動量も高い。
今回の復刻に関しては「新しい朝がきたーラジオ体操の歩み50年」(簡易保険加入者協会、昭和54)を参考に行った。音楽は昭和46年当時のSP版をCDに再録音したものを使用している。
4ファウスト(FAUST)
レクチャー内で触れたように現在も幾つかの女子校で継承されている。今回復刻にあたり井口の直接の弟子であった高橋キャウの「行進遊戯」(1929)に始めての記述がある(片岡)ということから、その言葉書きをもとに振りを起こしている。長年の間に様々に変容し、高橋版とは異なる記述も多くある。一つではないことを確認しておきたい。
また、実際の女学校用にアレンジされた当時の音楽を国会図書館内で聞くと、(歴史的音源、1946年版)よりスローテンポになっている(5分程度)ことがわかる。現在多くの学校で使われているものは10分ほどということなので、またこれも異なるものと考えられた。できるだけ古く、近い感じのものをということで今回はyou tube上にある音源を使用させていただいた。各校に残るファウストについては輿水はる海らが調査している。
8. 大野一雄略歴(大野一雄研究所HPより)
大野一雄は1906年10月27日、函館の弁天町に生まれた。生家は北洋を漁場にする網元で、父はロシア語を話し、冬はカムチャッカまで漁に出た。母は西洋料理を得意とし、琴は六段の名手、オルガンも弾いた。母の弾くオルガンで兄弟たちは「庭の千草」を歌ったという。中学に入り、まもなく一雄は母方の秋田の親戚白石家にあずけられる。白石家には子供がいなかった。一雄は旧制大館中学では、陸上部に所属、400メートルの秋田県記録を更新した。
1926年、日本体育会体操学校(現日本体育大学)に入学。在学中、貧乏学生だった一雄は、寄宿舎の寮長に伴われ、帝国劇場の三階席からラ・アルヘンチーナの公演を観た。アルヘンチーナは、「カスタネットの女王」とも呼ばれ、詩人ロルカも絶賛した20世紀のスペイン舞踊の革新者であった。一雄は、アルヘンチーナの舞踊に深い感銘を受けた。体操学校を卒業し、横浜のミッションスクール関東学院に体育教師として赴任する。大野一雄が踊りを始めた直接のきっかけは、その後捜真女学校に転任となったとき、体育の科目でダンスを教えなければならなくなったからだった。そこで、1933年に石井漠の門を叩き、さらに1936年には江口隆哉、宮操子の研究所に入った。しかし1938年に召集を受け、戦中の九年間は、中国、ニューギニアで従軍した。
大野一雄の第一回現代舞踊公演は、1949年、東京の神田共立講堂で行われた。このとき43歳、これが最初のリサイタルだった。ニューギニアのマノクワリで終戦となり、1年間の捕虜生活のあと復員し、すぐに舞踊家としての活動を再開した。「クラゲの踊り」という踊りを50年代の公演のときに踊っている。ニューギニアから帰る航海の船上で、栄養失調や病気で亡く なったひとたちを水葬して見送った体験から、そのときの海に浮かぶクラゲの踊りを踊りたかったのだという。
50年代の終わりに、土方巽と出会い、大野の踊りは大きな転機を迎える。二人の出会いは、「舞踏」、海外でも「BUTOH」として知られるスタイルを創造した。西洋の影響を強く受けたモダンダンスから、日本人の内面的な問題を扱う身体表現への転換であった。大野一雄がソロで踊り、土方巽が演出した「ラ・アルヘンチーナ頌」は、1977年に初演された。この作品は大野自身の代表作であり、また舞踏の代表作でもある。
1980年に、フランスのナンシー国際演劇祭に招かれ、大野一雄は「ラ・アルヘンチーナ頌」を踊る。大野の独創的な表現は西欧の同時代の芸術家たちに衝撃をもって受け入れられることになった。これははじめての海外公演だったが、このあと、大野の70歳代、80歳代の活動は欧州、北米、中南米、アジア各国に広がり、また、世界中から多くの研究生が大野の稽古場に集まって来た。90歳を越えてなお第一線での活動は続いた。最後の海外公演は、1999年12月ニューヨーク、「20世紀への鎮魂」である。しかしこの年、目を患い、体力の衰えも顕著になった。そんな中、老いをダンスの糧とするかのように、大野一雄の踊りは続いている。一人で立って歩くことが出来なくなると、支えられて踊った。支えられても立てないときは、座ったまま踊った。足が不自由になると手だけで踊った。頭がもやもやするとひとりいざって、人はその背中を見て感動した。
踊るとき、輝きを放つ存在になる。普通の老人が、人に力を与える存在に変貌する。そのような繰り返される事実が、大野一雄に対する関心を支えている。長く生きて、人を感動させる。大野一雄は、人間の可能性を拡げた芸術家だ。
9. 出演者プロフィール
林洋子:
神奈川県生まれ。お茶の水女子大学舞踊教育学科卒業。
クラシックバレエを深沢和子、モダンダンスを吉沢恵に師事。2001年頃からソロ活動を本格的にスタート。群舞、ソロの振付を行うほか、自らもダンサーとしてステージに上がる。2006年横浜ダンスコレクションR横浜ソロデュオ グループ部門に選出。現在は2児の母であるが、ダンサー生活と子育て生活のあまりのギャップに心身の疲れを感じ、癒されたいという思いから、ヨガと出会う。 2013年11月に全米ヨガアライアンス認定校・リラヨガインスティチュートにて200時間ティーチャートレーニングコースを修了。現在はヨガの学びを生活に取り入れながら、子育てと、DANCE&YOGA Boothのバレエ講師、Art Life YOGAのヨガ講師などをしている。
木野彩子:
札幌生まれ。幼少より能藤玲子創作舞踊研究所にてモダンダンスを始める(邦正美系)。小学生の頃誕生日のプレゼントとして大野一雄の「死海—ウインナーワルツと幽霊」(赤レンガホール、札幌)を見る。お茶の水女子大学舞踊教育学科卒業(水村真由美研究室)、在学中から牧野京子(江口隆哉系)に師事しつつ、山崎広太、松山善弘・典子、厚木凡人など多くの人に影響を受ける。大学卒業後中学高校の非常勤講師として保健体育を担当し、体育の中のダンスを模索する。横浜ソロデュオコンペティション2003で財団賞を受賞後、文化庁在研で渡仏(2004)、その間に出会ったRussell Maliphantの作品に参加するべく渡英、”Transmission “と“Cast no Shadow”に出演、その間に振付家として、日英仏韓と公演を行う。Russell
companyの経営不振(作品の不成功及び教育授業を一切行わない方針であったことに基づく。英国の助成シ ステムの大幅変更も影響している)に伴い、イギリスに振付家といるとしてもコミュニティワークは不可欠であり、だとすれば日本でできることができないかと思い帰国を決める(2009)。帰国後1年に2作(小作品や即興のセッションを除く)ほどのペースで作品を制作、自らの生活をもとに問いかけるセミドキュメンタリーの手法を用い、言葉で語り踊るようになる。これは自身の高校時代の演劇経験に基づく。2010年からは静岡舞台芸術センター(SPAC)のこども事業SPAC ENFANTにメルランニヤカムの振付アシスタントとして参加。現在筑波大学人間総合科学研究科スポーツプロモーションコース(修士)2年。修士論文は「コミュニティダンスの歴史的原点と概念の再構成に関する研究―日英の現状からみたプロモーション再考のために―」。今春より鳥取大学芸術文化センターに入る予定。教育とは見守ること。そして自身の背中を見せていくこと。このような生き方も成り立つと切り開いてみせること。
生きることが全てダンスとなりつつある最近。
9. Special Thanks
林さんは木野作品を踊ったことがある数少ないダンサーです。2児の母であり、現在はヨガを教えるなどの活動を継続しており、超多忙な中今回快く引き受けてくれたことを感謝します。今回の企画は私自身が過ごしてきた大学時代、体育教育を振り返るものであり、身近にいた存在が必要不可欠でした。
筑波大スポーツプロモーションコースの皆様、先生方、お茶の水女子大学の先生方、ありがとうございました。今回様々な方にアンケート「あなたにとってダンスとはなんですか?」をとりましたが、最終的に使用できなくなってしまい、お詫び申し上げます。しかしながらそこでお聞かせいただいた話は作品の随所に含まれています。
今回は多くの先駆者たちの文献、書籍に助けられました。また大野一雄さんに関連した資料を快くお貸しくださった溝端俊夫さん、美奈さんに感謝いたします。まさかここまで自分の生き方にリンクする作品になるとは思っていませんでした。私自身が知り、発見していくために私は作品を作っていくのだと思います。
Dance
Archive Project 2016 ダンスハ體育ナリ
2016.2.11 14:00 start・2.14 14:30 start
BankART studio NYK 3C ギャラリー
構成:木野彩子
出演:林洋子、木野彩子
舞台監督:橋本慶之
照明:久津美太地
音響:國府田典明
映像:たきしまひろよし(PLASTIC RAINS)
主催:ダンスアーカイヴ構想
提携:国際舞台芸術ミーティングin 横浜 2016
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