ゼミ合宿というものがあり、筑波山のふもとまでいってくる。
修士論文をかくべく、ひたすら本を読み、まとめ、本を読みというのを繰り返しているけれど、なかなか大変な作業で、本当にかけるようになるのかかなり不安。
まとめる形というのにあわせて書かなければいけないのに、それにあわせるということがまずできない。研究倫理申請という書類をつくるのに、まずつまづいてしまい、助教さんを困らせてしまう(おそらく普通の人だとこんなところで転ばない)。
優秀なゼミ友人がこれまで発表を聞いてきた中より、木野の分析をしてくれ、それがとても面白く話題になる。話すときの接続詞がすべて逆接になる。つまり、正解という物がなく、常に新しい概念を作り出そうとするがゆえに言語化することできたこと全てを否定してしまう。ある意味いつまでも掘り続けられるのかもしれないが、それゆえに苦労し続けなければならない。(こうして文章化してみるとちょっと不幸な人だ)
さらに論文を書く際には「いいたいこと」が大事だが、私は作品を作る際にもそもそも自分のいいたいことなんてないし、いいたいことから構築していくという作り方をしていなかったということにも気がついた。つまり、1つの事例について調べていき、掘っていくと全てはつながっている一点があり、その一点を見出したらそれを元にそれらの事象を丸めるだけで、「そのようにせざるをえない」というのが作品であった。さらにいうとその私は私の想定した作品を出すが、その作品を見る人がどのように解釈するかは自由であり、その解釈の違いあるいは誤解を私は最も面白いと思う。その変容が起こるのは言葉で説明しきらないからであり、そのわからないことこそがダンスの魅力であり、演劇ではなくダンスというジャンルにいる理由だと思っている。そもそも私が一生懸命構築するという物ではなく、最終的には天からふってくるものであり(?自然のエネルギーとか、なんでもいいんだけれど)、ふってきやすい諸条件とは何かとは考えるけれども、私という存在が表そうとした範囲ではものごとは解決しない。少なくとも「私」をいかに消していくかの方がむしろ大事なのではないか。
それはかなり俗にいうダンスイメージとはかけはなれており、しかも「かわっている」と思われるらしい。私自身はこれまで「かわっている」といわれても???と思っていたが、最近になってだんだんそれがわかってきた。先日のオーバースローパスにしてもそうだが、なにが、なぜどうかわっているのかを言葉の世界の人は分析してくれる。結構な衝撃である。
スポーツ系の皆さんが集まっているので、女子サッカーの試合をみれば元選手の、甲子園をみれば元球児の詳細な解説がつく。それぞれ研究分野が違うので、お話を聞くと面白い。元選手たち(学科には元選手ばかりではなく、様々な職種の人が集まっているが)は私も含め言語化するのが苦手らしく、ちょっと苦心している。しかし、ダンスと少し違うのはチームがあったり、ルールがある中で活動してきているので、形にはまること自体はスムーズにできているし、コミュニケーション力も高い。
学ぶことは多い。