2015年1月19日月曜日

グスコーブドリ

グスコーブドリをみに静岡へ行く。
この直前のばたばた具合だけれどどうしてもみたく思って平日に強引にいくことにした。

宮沢賢治作品だからというのが私にとってはとても大きい。

宮沢賢治は詩人である。
言葉の人。
自身も戯曲を書き演劇を指導したりしていて、楽しい作品も多い。
言葉遣い、擬音語擬態語もたくさんはいっていて、純粋に言葉を楽しむ作品だと思う。

銀河鉄道を作ろうとしたときにも言葉のことは気になっていた。
どうしてもそのままやると演劇的かたちをたどらないとできないのではないか。ダンスとして絵巻物のように、観客も鉄道にのっている(観客自身がジョバンニとしてなりたつ)かのようにシーンを展開できるように考えた。

言葉のひと宮城さんがつくるんだったらどうなるんだろう、と思ってみにいったら、
演劇だった。
当たり前なことだが演劇ってずるいよなあと思ったりした。
とても重要なことは賢治の言葉ではない言葉がかなり挿入されており、そこにかなり重い台詞が混ざっているということ。哲学というか真理のようなものが、ものすごくあたりまえのことにように折り込んであって、ぼーっとみているときがつかないかもしれない。多分その日みていた中学生の多くが通り過ぎてしまった言葉。ナオコーラさんの言葉なのか宮城さんや役者さんたちからでたものなのかはわからないけれど、それここでくるのか、ということ少なくとも3回。私はこれを再び戯曲として(テキストで)よみたい。

もっとも私が好きなシーンはブドリが無音の中静かに仕事をしていくところでしょうか。
多分、それだけでもう十分なのです。

とても美しくとても凛とした生き方のような作品だったと思う。
でも中学生たちにその感覚がわかるかというとわからないだろうなあ。。。


賢治の生き方をブドリにかぶせているけれど、なんだか宮城さんそのままみたいと思う。


一方で賢治はそんなに美しい人ではなかったし、美しさを求めていたわけでもなかった。もっとエネルギーの高い人だったと思うし、熱い人だった。その熱さはどのように出していけるのか、そんなことを思ったりもしました。だからダンスと思ったのかもしれない。

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