観について
ダンスを追求していくと生贄というか、祭祀のようなものにいくしかないのではないかと思っている。石井達朗さん(批評家、ちょうど観ゲネの日にみたときにトークイベントでいらしていた石井さんにお会いできました。が、残念ながら戻らねばならず肝心のトークを聞くことができず)は演劇祭ブックレットのなかで「祭祀からコンテンポラリーな時空に向けて」というタイトルで解説を寄せている。(本人曰く、作品みる前に書いている者だけれどね、とのこと)
演劇がナラティブを追求していくなかで、身体にこだわってくとどうなっていくか。言葉を超えるもの、それを追求していくと神さまの領域に行ってしまう。それは強度に哲学的であり、存在について問う領域。
各演劇劇団のトップも指導者として存在していると思うが、この団体もそしてニヤカムさんも、もっというと能藤先生もちょっと演劇とはレベルの違うカリスマ性を持っている。その様子はとても宗教的で、生き方、宗教、哲学様々な点でコントロールする強さがあり、皆がその価値観についていくようなところがある。
ダンスは長く宗教と密接に結びついてきた。
そんなことを思い返す。
集団で作り上げる一つの世界観。
そこに長くかかわるTさん(元SPAC制作さん)は本拠地台北でも1年に1度くらいしかみることができず、世界へのツアーはあるもののそれほど多くはない、つまり1年のほとんどを身体づくりにあてているというこのカンパニー。静かにそして美しい。
ここ数年ヨーロッパではプロジェクトベースが基本になり、カンパニーに長く所属するダンサーというのが減りつつある。(SPACも年間契約という形態がなくなったと聞く)日本でも様々なテクニックを様々なワークショプで身につけるダンサーが増えている今、このような一つのことにこだわり作品制作を続けるグループは珍しい。身体、そして質感とはどこまで物語ることができるのだろうか。
私でなければ出来ないこととはなにか。
おまけ、
ニヤカムさんカンパニーはあまりにも体型、スタイルがバラバラで、まあ、ある意味真逆な観点ともいえます。
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