2015年5月20日水曜日

ふたりの女

SPAC enfant プロジェクトにかかわるようになり、演劇祭などできるだけSPAC作品を見るようになってここ数年。
昔から宮城作品を見ていて、(それこそメデイア初演時期からみているわけで実は結構長く見続けている)私の中のもう一人の自分について考える。
2008年に私が作った作品IchI(The Place prize初演)のテーマは私と私のなかにいるもう一人の自分。私Iともう一人のIが何かをはさんで存在していることからタイトルは付けられた。その前から、それはもう2003年位からずっと私はだれかと話しつづけてきた。この誰かは誰なのか。元彼ではないかなどとはじめはおもっていたものの、様々な霊(IchI)なのか像なのか、神さま(からたちから)なのかと浮かんでくる。私が作ったイメージにすぎないのではないか、いや、既にそれは消えている。もうこの世にはいない(静)。それでも私はそれを感じながら動いている。
巫女にせよ芸能者にせよ、生と死の境目にいる。半分死んだ身だからこそ、見えるものがある。宮沢賢治がなぜ引っかかってしまったかといえばそこではないかと考えている。

たまたまなのか何なのか、ここしばらくみた宮城作品には必ずその私のなかのもう一人の自分、そして半分死んでいる私がいる。グリムも、夏の夜の夢も、グスコーブドリ、そしてふたりの女。今回のふたりの女では葵の上・六条の狂うの方に意識が向いてしまうけれども、密かに武石さんの既に死んだ男が非常に気になる。(なお、オリジナルの戯曲に既にいるキャラクターらしい)死にながら生き続けるもの。死にながら生き続けるからこそ芸能者は穢れとしてあり、それでありながら神につながるものであったのではないか。

プロフェッショナルな役者は(あるいはダンサーは)そこであの世にいききらずに生きる技術を持っている。もちろん観客にうけるだけの身体技能も不可欠だが、それと同じように舞台上でいききらないという技術。普通にあるというための技術。それが鈴木メソッドなのだろうか。しかし演技の繰り返し、ひたすらの繰り返しはハレのレベルを下げ、また娯楽の世界へとつながらざるをえない。
それでも生きることをちゃんと選べるかどうか。そこがプロかどうかの境目かもしれない。



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