「室内」(@KAATクロード•レジ演出作品)みてきました。
長く(2013年初演@SPAC楕円堂)上演されているものの、実は見るのをおそれてこれまで逃げつづけてきた作品なのです(実際満席だったり、タカセと重なってみることができなかったせいもあります)。私自身がヨーロッパ時代につくった作品にIchIというのがあるのですが、ヨーロッパにいて、日本らしさを考えたときに一番はじめに浮かんだのは闇でした。はじめの3分は薄暗い照明のまま、その後も全体的に暗く、わたしはその気配や音そして広がる想像力こそがダンスだと提案しました。暗闇と光そして影をテーマにつくっていて、室内の話しを聞きつつ、レジさんが暗闇に惹かれた気持ちはわかるような気がしていました。
楕円堂の美しさに惹かれてつくりはじめた室内、きっと美しい作品になるだろうことはわかっていたし、SPAC俳優ゆえの身体技法だと私は思いました。砂の上を音もなくゆっくり歩くこと、ただシンプルなことですが日々の訓練があればこそです。そういう意味で本当にコラボレーション作品で、よい意味で期待を裏切られた気がします。
メーテルリンクはあまりよく知らず、盲点たちで衝撃を受けたのですが、
このような考えるための作品は今の世の中で必要な気がしています。
私たちは何ものか
生きるとは、死ぬとはどういうことか
神と何か
生きるための言葉、作品がこれから必要になっていく、そのように思いました。
家にかえりつつ、私がしている作業は間違ってはいないと思いました。
最近民俗舞踊をいろいろ調べていて、
お祭りのイメージだとすごい踊っていたり、祝祭のイメージがまずくるのですが
神さまはみえないものなのです。春日若宮御祭なんて神さまが出てくるときわざわざ全ての光を消します。
なぜならそれぞれの人の中に既に神さまがいるから、1つの造形を見せる必要はないのではないか。
ニヤカムさんのお祭りに関わりながら、多分その反動だと思うのですが、
最近は静かに見つめる作品が続いています。
うならせるよい作品だったと思います。
拍手喝采みたくならないですが、きっと見た人はダメージをうけながらかえるのだと思います。うぐぐ、、、
さて、2%
Angels冒頭のシーンの作成中に照明の調整を行いながらこの暗さだと1、2%の違いが大きいんですよという話しをこの夏照明さんとした。その1、2%の差を感じる演出家さんがいて(レジさんもそのひとりだし、鈴木忠志さんなども非常に厳しかったらしい)照明家は気を抜けない。そしてそういう人は毎回ちゃんとみてる(笑)。ラッセルさんも結構気がつく人で、公演回数が増えていくうちに照明の芯にいるいないみたいなことまでダンサーはわかるようになってしまう。(それは確かにプロフェッショナルだけれど稽古で何とかなるものではないし教えれるものでもない気もする)その1、2%を決めるためのリハーサルの繰り返しをできる環境って実は日本にあまりない。そういう意味でなかなかありそうでない作品ではないかと思います。
実はEn attemdant,,,,,の照明は2%単位で調整をして、加藤さん(照明)と話しをしながら、そんな話しを思い出しました。
なお、海外だとおそらく電圧のせいだと思うのですが、大分見た感じの印象が変わります。コントラストがはっきりする。本当の意味での闇しかもその奥に何かいるかもしれない闇は日本でしかつくれないそんな気がしています。
闇のかわりではないですが、私が好きなアンソニーゴームリー作品で霧でみえない(でもみえる)ものがあります。TATE Modernでみたのですが,なにものかにふれるその瞬間、私はとても面白いと思っています。
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