建国体操正しくはダンスハ体育ナリシリーズは制作と呼ばれる人が入っている。
私はこれまで基本的に自分で企画を立て、予算も最小限に抑え、(それゆえ照明なども基本自分)やってきたけれども、依頼があって受けたものなので、そのような形になっている。
舞台は一人で作るものではないけれども、心強い仲間でもある。
そもそもの発端は昔のバイト先の上司が大野一雄さんが体育教師だったことを元に作品を作れないかと持ってきてくれた依頼だった。
その時に女子体育の歴史を扱っていたので、男子体育の歴史をと言われて2作品めのリサーチが始まった。
1作品めのリサーチで出てきた女子体育展覧会の写真があまりに変で、それを追いながら、1940年のオリンピック(実際には開催していない)を見出し、ほんとは同じ時代の別事件を追うはずが建国体操に落ち着いた。(別ネタについてはそのうち出すことになると思う)でもそれを追いながらこの時代のあまりにも現代に近い状態に気がつき、更に言えばそこには触れないようにちょっとずらしている演劇の現状に気づき、ダンス業界の我関せず状態に気づき、そのずれのようなものはどこから生まれるものかと考えていた。
初演時見にきたとある批評家さん(前からよく知ってくれている人だった)が気をつけたほうがいいと指摘してくれたけれども、
それでも訴えなければいけないことがあるのではないかと私は感じた。また、私の現在の立場は大学という枠に守られている。だからこそ可能になる表現もある。
つまり、もしも何かが起きた時、表現の自由と学問の自由両方を問うことになる。炭鉱のカナリアと一緒でだからこそそこをつかねばならないのではないか。
そういう危うさを私は感じている。
制作さんはこの超短期間で作り上げてしまった作品ではあるけれども(実際にはリサーチは2年続いている)、奇跡的にまとまったものとして、更にダンス以外の人に知ってもらわねばならないといい、積極的に宣伝しようとする。私はこれまで自分の作品は当事者研究のようなもので自分とそれを見たい人が見るべきだと思っていたけれども、話し合い、外へ出していくことになる。プレスリリースは3弾出ているがまだ出すという。席数マックスで30人二回公演でも60人。集客ではなく、そのあとの発展を考えてそれでもプレスを出すという。彼らの生活がかかっているからというのもあると思う。(正直芸文の許可が下りなかったのはかなり痛手だったはずだ)
でもそれはそれで愛情を感じる。
学校や、美術ギャラリーなど小さな場所でもできる小規模作品(今回は一人だ)、ドミニクボアヴァンの『私なりのダンスの歴史』のように上演が続けていけるようになるのだろうか。
あまりにもたくさんのことが起きている。
今私がしなければいけないこととはなんだろうか。
今回私たちは完全再演としている。しかしそれでも多分たくさんの矛盾やずれを感じるだろう。3ヶ月の差は大きい。そして今やらねばならないことが見えてこればと思う。