取材の関係で(このこと自体が滅多にないこと)今この作品を行うことの意味を聞かれた。
今回の作品は微妙に気になってしまうせいか色んな人が広めてくれているのだけれど、2月の時と今とでは政治情勢も変わってきている。再演を計画した時にはそこまで意識していなかったけれども、この作品が暗に意味しているものは大きい。
終わりにで取り上げた伊丹万作の言葉は重い。戦争責任者とは誰かではなく、そのような無気力、諦め、見なかったふりをしてきた私たち自身ではないか。国会前のデモ行進を見ると、どうにかしたいと思うその気持ちが溢れている。(一方でそれを出さないメディアも多くあり、この国はどこへ向かうのだろうかと考える。)
そもそもは女子体育って?と舞踊はなんで体育なの?という素朴な疑問からスタートしたけれども、近代化とは何か、明治とは何か、神道とは何か、身体はいかに変化していったかと問いていく。9月のこともあって折口信夫も一緒に読んでいく。どう考えても神道主義者のようだけれど、彼は神道を完全に宗教としたかった人だったのだとわかる。政治と結びつかせないために、また完全に独立させることで守ろうとした。
今の時代において、どうなのか。
誰のための政治なのか、誰のための宗教なのか。
私たちは伝統という言葉に弱い。でもそれは明治期に作られたものも多い。
相撲協会の問題もこの明治時代から変容していることがわかる。
だって、昔は女相撲あったもの。
歌舞伎も元々は阿国歌舞伎だったように女性も演じていたものだもの。
そこでかかった圧力、一体どこから来たものか。
政治や社会の枠組みそのものに疑問を投げかける。
明治ってなんでしょう。
私にできることは事実を事実として述べることのみ。
そこから判断をするのは各個人に委ねます。
レクチャーで出てくるように大衆による舞踊は常に禁止され、抑圧される傾向があった。
選び抜かれたエリートによる”選ばれた舞踊”はもてはやされていた事実とともにある。それは修論(2作目)にも出ている。
私は一応ダンサーだ。(だと思う)
しかし、そんなにすごい素晴らしいスペシャルな身体能力を持っている人でもスターでもない。スペシャルではない代わりに、一緒に考える。仕事も半分しながら、そのかわり自活してちゃんと自分の言葉として言えるようにありたい。かっこいいとか可愛いとか、キラキラしたドレスがとかそういうのではないけれど、自分に正直に生きるためのダンスを作りそして踊る人になりたいと考えた。イギリスダンサー時代も早々に切り上げ地道にコツコツ踊っていくことにしたし、その方針は今でも変わっていない。
鳥取夏至祭はスーパーで通りかかりの普通のおばちゃんも、学生も皆同じレベルであるために即興という手法を用いる。みんなでたのしいねえとなるための時間。どんなにすごいダンサーだろうと音楽家だろうと、ここではただの1個人にもどり遊ぶことができる。それは大衆のダンスと捉えられるのかもしれない。でもそういうところからしか新しい価値観は生まれない。そしてそういうダンスが規制され、パレード化するようになったら気をつけなければいけない。それは歴史が語っている。
静岡の大道芸についても心が傷む。鳥取夏至祭と理念が根本的に違うので、比較はできない。ただそもそも芸能とはなんだったのだろうかと思う。なぜ踊るのか、パフォーマンスをするのか聞いてみたい。またプロフェッションとはなんだろうかと聞いてみたい。
プロという言葉はかっこいい。でも本当にかっこいいのはプロではないかもしれないけれども、本当に作りたいもの、作るべきもののために全身全霊を込められる人だと思う。プロかプロではないかはあまり関係ない。(という話を先日大学教員やめちゃった音楽人とする)
今、この時代、本当に複雑で、見失いがちだけれど、そういうことをわかった方がいい。大きな時代の流れの中で、ちゃんと疑問を持てるように。もった疑問を出せるように。そのための試金石。
私の場合はたまたま大学に勤めるという形になり、ある意味表現の自由と学問の自由に守られている。(多分)もしもそれが難しくなったら。と考えてみる。それが今の教育の現場であり、大学の現状でもある。それくらい危うい。
私はこの複雑な歴史を踊ることでは表現しきれなくて、レクチャーにする。もちろん勉強がおっつかなくて大変だ。だけれど、この事実、一緒に考えてくれる人に出会うために作品を作る。
死者の書は企画を立てたのは1年半前、構想は2年くらい前でここまで繋がってくるとは思わず、恋する両性具有乙女な折口さんがいいんじゃないかと思ったせいとかたくさん見まくった民俗芸能系の影響で、ちょっと目論見から外れているのだけれど。
今回の作品は微妙に気になってしまうせいか色んな人が広めてくれているのだけれど、2月の時と今とでは政治情勢も変わってきている。再演を計画した時にはそこまで意識していなかったけれども、この作品が暗に意味しているものは大きい。
終わりにで取り上げた伊丹万作の言葉は重い。戦争責任者とは誰かではなく、そのような無気力、諦め、見なかったふりをしてきた私たち自身ではないか。国会前のデモ行進を見ると、どうにかしたいと思うその気持ちが溢れている。(一方でそれを出さないメディアも多くあり、この国はどこへ向かうのだろうかと考える。)
そもそもは女子体育って?と舞踊はなんで体育なの?という素朴な疑問からスタートしたけれども、近代化とは何か、明治とは何か、神道とは何か、身体はいかに変化していったかと問いていく。9月のこともあって折口信夫も一緒に読んでいく。どう考えても神道主義者のようだけれど、彼は神道を完全に宗教としたかった人だったのだとわかる。政治と結びつかせないために、また完全に独立させることで守ろうとした。
今の時代において、どうなのか。
誰のための政治なのか、誰のための宗教なのか。
私たちは伝統という言葉に弱い。でもそれは明治期に作られたものも多い。
相撲協会の問題もこの明治時代から変容していることがわかる。
だって、昔は女相撲あったもの。
歌舞伎も元々は阿国歌舞伎だったように女性も演じていたものだもの。
そこでかかった圧力、一体どこから来たものか。
政治や社会の枠組みそのものに疑問を投げかける。
明治ってなんでしょう。
私にできることは事実を事実として述べることのみ。
そこから判断をするのは各個人に委ねます。
レクチャーで出てくるように大衆による舞踊は常に禁止され、抑圧される傾向があった。
選び抜かれたエリートによる”選ばれた舞踊”はもてはやされていた事実とともにある。それは修論(2作目)にも出ている。
私は一応ダンサーだ。(だと思う)
しかし、そんなにすごい素晴らしいスペシャルな身体能力を持っている人でもスターでもない。スペシャルではない代わりに、一緒に考える。仕事も半分しながら、そのかわり自活してちゃんと自分の言葉として言えるようにありたい。かっこいいとか可愛いとか、キラキラしたドレスがとかそういうのではないけれど、自分に正直に生きるためのダンスを作りそして踊る人になりたいと考えた。イギリスダンサー時代も早々に切り上げ地道にコツコツ踊っていくことにしたし、その方針は今でも変わっていない。
鳥取夏至祭はスーパーで通りかかりの普通のおばちゃんも、学生も皆同じレベルであるために即興という手法を用いる。みんなでたのしいねえとなるための時間。どんなにすごいダンサーだろうと音楽家だろうと、ここではただの1個人にもどり遊ぶことができる。それは大衆のダンスと捉えられるのかもしれない。でもそういうところからしか新しい価値観は生まれない。そしてそういうダンスが規制され、パレード化するようになったら気をつけなければいけない。それは歴史が語っている。
静岡の大道芸についても心が傷む。鳥取夏至祭と理念が根本的に違うので、比較はできない。ただそもそも芸能とはなんだったのだろうかと思う。なぜ踊るのか、パフォーマンスをするのか聞いてみたい。またプロフェッションとはなんだろうかと聞いてみたい。
プロという言葉はかっこいい。でも本当にかっこいいのはプロではないかもしれないけれども、本当に作りたいもの、作るべきもののために全身全霊を込められる人だと思う。プロかプロではないかはあまり関係ない。(という話を先日大学教員やめちゃった音楽人とする)
今、この時代、本当に複雑で、見失いがちだけれど、そういうことをわかった方がいい。大きな時代の流れの中で、ちゃんと疑問を持てるように。もった疑問を出せるように。そのための試金石。
私の場合はたまたま大学に勤めるという形になり、ある意味表現の自由と学問の自由に守られている。(多分)もしもそれが難しくなったら。と考えてみる。それが今の教育の現場であり、大学の現状でもある。それくらい危うい。
私はこの複雑な歴史を踊ることでは表現しきれなくて、レクチャーにする。もちろん勉強がおっつかなくて大変だ。だけれど、この事実、一緒に考えてくれる人に出会うために作品を作る。
死者の書は企画を立てたのは1年半前、構想は2年くらい前でここまで繋がってくるとは思わず、恋する両性具有乙女な折口さんがいいんじゃないかと思ったせいとかたくさん見まくった民俗芸能系の影響で、ちょっと目論見から外れているのだけれど。
0 件のコメント:
コメントを投稿