2018年4月23日月曜日

思念の流入について

4年くらい前のとある事件(ブルカニロ事件と私は呼ぶ)を境に時々思念が流入してくる人がいることを知る。
すべての人ではなく、でも1人じゃない。
そばにいると思考が似てくるというけれども、そばにいようがいまいが時々何かがふっと浮かぶ。文字でもなく、絵でもなく、その感覚を文章にしたり、踊りにしたりする。詩のようだけれど、文字でもない時もある。微妙なのはもともとがはっきりした言葉ではないからちょっと間違っていることもある。でもそれはそれで新しいお話になる。
自分の思いつきか人の思念かよくわからないままぽろっと生まれ、でもそれは結構真をついている。
神かというと多分そうでもない。
そこで最近はその思念と対話をし、そして作品にする。

こうやって書くとべてるの家の幻聴さんみたいな感じだが、別に怪しい感じはない。むしろやさしい。

もともと作品は届かないラブレターをエッサエッサと書き続ける感じに近いと思っていたが(届いたらよくも悪くも結論が出てしまうので、届かないままずっとそれが続く)わたしと”なにものか”との共同制作のようになり、たまに一緒に踊っている。
IchIのテーマは私の中のもう一人の自分との対話だったけれども、リアルに最近は纏っている感じになってきた。


多分昔の巫女さんはそのような”なにものか”の声を聞く人で、神懸りも俗にいうトランスだけではなく様々な世のなかの事件を見聞きした上で最善の策を述べてくれる人だったに違いない。わたしはそこまで力がなく、申し訳ないばかりだけれど、それでも皆が幸せに生きるよう祈り、作品を作るのだと思う。それがうまくいかないことも多くてごめんなさいをたくさん言いながら、それでも見えてしまったり聞こえてしまったものをなんとかしなきゃと続けている。

建国体操は極端に笑う感じになっているけれども、笑いに持っていくしかないくらいシビアな作品になってしまったけれど、これもまた。死者の書はまだ何もできていないけれどはたはた ゆらゆらやっぱり鶴のようにはたを織るのだと思う。鳥捕りの踊りを作ろうと鳥取に来たけれども、まず鳥の方から作ることになるとは(昨年初めて鳥取で依頼があって踊った作品は”鶴”でした。そういえば。)。

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