2009年10月20日火曜日

記憶について

大野一雄フェスが終了しました。
実はここのところ尋常じゃない忙しさだったため(それぞれはそれほどでもないのだが、合わさるとすごいことになって、しかも帰りも毎日遅すぎてほとんど寝れていない状態が続いていた)、更新が遅くなってしまい、申し訳ないです。
今回禁色という舞踏のはじまりともいうべき作品を再び考えてみようという試みがあったのですが、とても面白い会でした。私は3回のうち2回目がみれなかったのですが。(その一回は札幌に行っていた間です)
私にとって何が面白かったのかといえば50年経た型をたどっていくという作業です。慶人(一雄さんの息子さん)の身体の中にある土方さんとの思い出や、当時の記憶がその型をたどっていくことによってよみがえっていきます。運動量としては多くなく、そして年老いた身体では(失礼!)当時の美男ぶりはわかりません。しかし、だからこそその思いのようなものは見えてしまうのです。
私の札幌ダンスもそうですが、30年分の記憶、その当時の作品の記憶というのは蓄積として見えてきます。ましてや50年分。その人のいきてきた軌跡をみるようなものなのです。グレングールドのゴールドベルグもそうですが(彼ははじめてのレコーディングでこれをひき、死ぬ直前にもう一度レコードしたので2種類のバージョンがあります。はじめのテイクの方があまりにもすばらしいといわれますが、その迷いや思いのこもった2回目のテイクを私の作品では使用しています。生きるということはそういうことなきがして。)。
どんな小説も1人の人の人生にはかなわない。そんな言葉を思い出しながらみていました。

もう1つ3回目の禁色の会では慶人さんディヴィーヌ抄を踊られました。父の代表作であるその作品を踊ることは彼にとってどういう意味を持っているのか、またその作品しか彼を表現することができないのだとしたらそれはとてもしんどいことだと考えさせられます。本当に美しい、いい舞台でした。それだけに、この人の生き方を感じました。
以上、すごいよい会だったので、お知らせしておきます。


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