私はキリスト教徒ではありません。
では、なぜ教会で踊るのですか?という質問(昨日礼拝後信者のかたから質問された。さらに付け加えると、高円寺の駅前で金色になって踊る集団をみて、こういうのを踊るのか???と思われたらしい。)に対する返答。
宗教上間違った記述があるかもしれませんが、指摘などありましたらよろしくお願いします。
私自身はキリスト教徒ではありません。
しかしながら、ヨーロッパに暮らしているときどこのどんなに小さな町や村にも、教会と劇場があり(私は公演でその土地を訪れるわけだから劇場がない町にいくということはないのだけれど)、そこが町の中心として機能してきました。週に1度、(劇場の場合は月に1度など)町のみんなが集まり、様々な世間話をし、そして町のコミュニティーを形成していました。都市部では最近若者が礼拝にいかなくなったといいますし、教会の場所もどんどん点在するようになっていますが、今も地方にいけばいくほどそのかたちが残っています。
日本ではお寺や神社が同じような役割を果たしてきました。
宗教とはたくさんの人が生きていく中で、共通認識を持つための暮らしの知恵でもあったと感じています。
キリスト教の礼拝を拝見していて、非常に舞台芸術的によく工夫されているとその当時から思っていました。建築物(窓を減らし暗闇を利用する、天へと突き刺す形状、音が響きやすいよう)、音楽、儀式、最後に鐘の音とともに外へと出る瞬間光に包まれることまで含めて一つの作品なのです。
音の質は違いますが、お寺や神社のお堂もにたところがあります。
ひそかに私はその体験型作品を胎内めぐりのようだと思い、さらにつけくわえると劇場で舞台をみるという行為に非常に似ていると感じてきました。
そもそも今回ここで作品を発表しませんか?という投げかけを受けた時点では特に深く考えていなかったのですが、教会には劇場の原型が詰まっており、その共通項を探ってみたいと考えました。
また、AMANOGAWAプロジェクトにおいて、(ダンサーではない)普通の人の普通の生活ひとつひとつがかけがえのないものであり、それぞれに祈りのかたちがあるということを表現する上で、教会は適した場所ではないかと感じました。
はじめは巣鴨教会の歴史を追っていこうと考えて調べ始めたのですが、皆さんの歩んできた歴史をたかだか2、3ヶ月通ったくらいで学べるはずはありません。なので、私は私のことを語り、そしてそこから教会について考えるきっかけになるような作品にしようと考えました。
現代のようにテレビや映画といった様々な娯楽がなかった時代、共に集い、共に語る、その土台となるのは舞台であり、教会でした。
なので、私は今回ここで作品をつくることにしました。
さて、
しかしながら、現在の作品プランを行ったときに、信者の皆さんがどのように思われるか、、、ということが結構気にかかっております。テーマがテーマなだけに、非常に難しく、私自身もかなり考え続けています。
多分最後まで考え続け、そして終ってからも議論になることでしょう。そんな作品をつくりたいと思います。
余談ですが、
そんなこともあり、毎週巣鴨教会に通っています。毎週どころか週2、3回のペースで通っています。が、キリスト教信者になることはないような気がしています。
舞台には舞台の神様がいて、それは観客の皆さんのなかに宿っていると考えているからです。(と、いう話しをヨーロッパ時代にしたら『日本人!」といわれました。確かに日本人的かもしれませんね。)
いまでも。暗闇の中で、私はここにはいないひとに出会うのだと思っています。
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