2012年5月15日火曜日

作品の作り方

最近小劇場の演劇をたくさん見る。Sentival!のせいもあるが(他の団体の公演はできるだけみるよう心がけている)演劇とダンスの境目がない作品(団体)が増えているせいかもしれない。

普遍的な題材を取り上げるべく古典から題材をとってくるグループもある。すべての人が知っているような本・戯曲を取り上げ、独自に解釈することで、あらたな視点を提供する。

逆に普段の生活から完全にオリジナルな戯曲を作り上げる人たちもいる。ときどきわらっていいのか悪いのか反応に迷うときがある。馬鹿にしているのか、あるあると感じてつくっているのか、この劇団の人たちの感覚なのか判断に困る。

演劇という集団になったときにイメージを共有していくためにテキストは不可欠で、その土台をどのようにつくるかは非常に大きな問題だと感じている。
そして役者はその中の役に自分の経験を重ね合わせながら入っていく。
わたしはどうしてもその「役をつくる」という作業がうまくできなかった。
つまり私の視点からしか役をつくることができなかった。演出はできる。しかし役者としては自分との共通項からしか作り出すことができなかった。なのですごいなあと思う一方、では、この集団は何を目指すのだろうかということが気になっている。



今私は一人なので、逆に一人だからこそ自分のことに向かい合う作業を行っている。
その昔、知り合いの振付家さんが自分とは何だとどんどんどんどん穴を掘っていってそしたら何もないことがわかったという話しをしていたが、多分その何もないということをちゃんと明らかにするための作業をこつこつと続けている。
楽しいとは思われない。
作業的には勉強というか研究に似ている。様々な事例をあつめ、本を読んだりしつつ、まとめていく。かなり暗い。しかも個人の記憶や思考をたどっていくので、なかなかしんどい。
でもどんなに個人の些細な記憶や経験でもリアルであるということは強いと感じる。みている人にとってはそれが正しいか間違っているかはそれほど重要ではないのかもしれない。だからこそ多くの小説があり、演劇があり、テレビやラジオのドラマがあるのだろう。しかし、どんな人の生活も、どんな人の一日もそれらのフィクションに勝るとも劣らない要素が含まれている、それは証明しがいのあることではないか。

AMANOGAWAは単にワークショップによる作品であるというだけではなく、各参加者にゆだねている要素が大きい。そしてそれぞれの経験や感想をシェアするということを繰り返していくだけで、押し付けることはない。振り付けとはいわないかもしれないが、「作品の構造」自体に疑問を投げかけていると思う。

今回の作品は(まだ2週間あるのでかわるかもしれないが)自分のことを話す作業、そして自分もまたAMANOGAWAの一員であることを確認する作業なのではないかと感じている。笑える、面白い、という作品にならないだろうことは既に見えている。しかし多分いい作品になるだろうと感じている。

さ、夜の練習始めましょう。

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