タカセの夢2014ゴールデンウィーク公演が終了しました。
ふじのくにせかい演劇祭に呼ばれての公演(なお、2回目になります)。3回の楕円堂公演はいずれも満員御礼となりました。お越し下さった皆様ありがとうございました。
フェスティバル期間中は他演目もあるため、実際の楕円堂での稽古はかなり回数が限られてしまい(しかもゴールデンウィークとはいえ、学校がある日もある)、そんななか子供たちはよくがんばっていたと思います。実はかなり何度もみている人がいて、子供たちの成長がわかるとよくいわれます。特にこの1年の差はとても大きいと。
2日目の終ったあとのレセプション(こどもたちは参加できなかったのですが)で、初演時よりみている方から多分この作品における最大のノーツがありました。
確実に上手くなっている。でも上手くみせようとしすぎな気がする。初演の頃って下手だったかもしれないけれど、もっと必死だったし、それが人のこころをうつのではないか?
また、
カーテンコールであがったニヤカムさんの身体(とダンス)がこの作品の全てを物語っている。その根本にあるものはどのように伝えたらいいか?
先日テレビ向けのインタビューがあり、その中でもニヤカムさん自身もプロフェッショナルダンサーは確かにできることが多いけれど、表現に必ずしもそのような技術は必要ないし、時としてアマチュアゆえにすばらしい表現ができることがある。テクニックとはなにかと思って一般の子供たちとの作品制作をはじめたという言葉がありました。
とはいえ、私たちが教えることができるのは俗にいう技術の部分、効率よく身体を動かしたり、ケガをしないようにという部分だけ。踊りの根本にある部分は「教える」ことはできないもので各人が「つかんでいく」ものです。その根本があれば、それがちょっとでもみれれば多分お客さんとしては満足。逆にどれだけ上手に踊っていてもその根本がなければ、多分意味がない。
プロフェッショナルであってもその根本を忘れてしまう人たちは多い。
そしてそれをつかむ方法はむしろたくさんテクニックをもてばもつほど難しくなる。
それらの垢というか皮を少しずつむいていく、減らしていくのが一生をかけて行っていく仕事。
私自身がプロフェッショナルのダンサーとして舞台に立っているときも、一番何もできなくて(少なくとも私はそう思っていて)とにかく毎日必死で踊っていたことを覚えています。私の場合はその必死さが根本につながっていたのだろうと思っています。
何もしていなくとも身体に根本がにじみ出るまでには大分時間がかかりそうです。が、多分そこにいきつくまでは上手くみせようという自我をとびこえてひたすら必死で踊るしかない、そんなことを思いなおしました。
そんな話しを宮城さんにしたところ、もしかしたらすごい緻密に練習していて、でも本番迎えてみたら想定外のことがおきて、それどころじゃないとなったときがブレイクスルーするときなのかもね、というお言葉。カメルーン、たしかに何がおこるかわかりません。
これまでもこどもたちは、体調崩して踊れない子が出たり、パネルが動かなくなったり、雷が落ちて停電になったり、お客が極端に少なくて衝撃を受けたり様々なアクシデントを経験してきました。ある意味経験豊富かつ度胸のある(?)この子供たちの想像を超えるようななにかとは何なのでしょう??
夏休みが楽しみです。
ピーターブルックと演劇研究所の方々がアフリカに行ったときのビデオを拝見し、その体験者笈田ヨシさんの話しを聞きました。演劇の根本とは何かと思い100日間にわたるアフリカの旅(途中集落にてパフォーマンスを行いながら)にいったときの映像。あらかじめ作っていった演劇とか全然わかってくれなくて、とりあえず万国共通だからって歌を歌っても日本やアメリカのものには全然反応してくれなかったそう。手を叩いたり、あーだけつかったりいろんなことを即興的に試みつづけたそうです。言葉を超える、普遍的な表現とは?それはダンスとか演劇というジャンルを飛び越えて私たちが探し続けなければいけないことかもしれません。
タカセの夢(?)来年度のオーディション開催決定しました。今年8月おそらくカメルーン公演、静岡公演後に行う形になると思われます。
?なのはタカセの夢のままなのか?新しい作品なのかもまだわからないからです。
1つの作品で5年というのは長いと思うかもしれないけれど、これがカンパニーとして考えたら、知ってもらえるようになるまでにもまだもう少し時間がかかる、とのこと。
形は変わっていくかもしれないけれど、ニヤカムさんと宮城さんの夢はまだ続きそうです。
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