2014年5月31日土曜日

ホーゲさん(大野一雄研究所でのワークショップ)

老いと踊りというシンポジウムをききにいく。
http://agingbodyindance.tumblr.com
ただし学校の都合もあり私が参加できたのは1日目のヤナギミワさんまでで、しかし大好きなライムントホーゲさんは捨てきれず、大野一雄研究所のワークショップへ伺う。
(余談だがヤナギさんはやはり伝統芸能に興味を持ち毛越寺延年の媼の話しがでてきた。翌日には鎌田東二さんの話しがあり、日本の伝統芸能しっかり調べなければと思う)

西洋の価値観ではタブーにされていた老い、そして死。
それに目をむけたのが舞踏、つまり価値観を転倒させた。
今、ヨーロッパのダンサー達の多くは舞踏を学び、大野さんのワークショップなどをへて変わってきている。(シンポジウム内の問いではあくまで2項対立がみえたが、大野さんの存在は大きかったし、現在は明らかに変わってきていると私は思う)

ライムントホーゲさんの作品を私は好きでかなりよく見ている。今回のワークショップでふれていたマリアカラス作品も、私なりのダンスの歴史も、白鳥の湖、牧神の午後といった名作シリーズも、上野くんが出てた作品もみているのでかなり詳しい方だと思う。しかもラッセル作品でデュッセルにいったときにもあっている。(ぜったい覚えていないと思う)彼のレクチャーを聴けなかったことは残念だったが、彼のワークショップをうけることができた。
「僕はクリエイターではない。音楽が導いてくれる。そして僕はオープンでいるんだ」という言葉はとても心に残る。
彼がかつて大野さんにあったときの話しもし、彼のいた椅子、アルヘンチーナの写真に敬意を示す気持ちもちょっとすてき。彼はきっとみててくれるからと必ず椅子の前はあけさせていた。
彼がドラマツルグをしていたピナバウシュはダンスからあるいは身体の躍動感から離れることができなかった。優秀なダンサーが集まり、今でも世界一のカンパニー(の一つ)だろう。彼はそこから躍動感を削ぎ落した。自身の身体の不自由さもあっただろうが、ダンサーにもそれを封じることを強いた。それゆえにみえてきたもの、それが彼のダンスではないか。
躍動感を封じたダンス、それがみせるものはその人の身体でしかない。
存在、そのものとは何か。
私はその突き止め方がとても好きで、そう考えていったときにダンサーとしての身体は必要ないのではないかとまで思った。(その影響で一般の人の身体に目を向けることになった。Amanogawaプロジェクトなどは特にそう思う。それぞれの人の記憶や思い入れのようなものは真剣に願うものほど強く人のこころを打つ。惰性で踊っているプロフェッショナルダンサーなんかよりはるかにすばらしい)

パリでみたときには必ず10人単位(場合によっては半減するらしい)で席を立つ(本国ドイツでもそうらしい)問題作の作者。でも彼の論理、私はわかる。
6月4日京都で上演。お時間ある方ぜひどうぞ。無料だって。上野くんも出るんだって。(でもちょっとだけらしい)
http://www.kyoto-art.ac.jp/events/497




芸術家は新しい価値観を作り出す。
それゆえに公共性だといえるのではないか。そんな本の言葉が気にかかりつつ。



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