演劇とダンスの境目について
体操とダンスの境目を考えるダンスハ体育ナリ?シリーズだけれども、学生さんなどに演劇とダンスってどう違うのか聞かれたので少し書いてみます。
私自身は高校時代に演劇をしかもシェークスピア3時間やっちゃうような地域(石狩支部)出身で、全国的に見ても当時は演劇が盛んなところだったので、その影響を受けています。当時60代の顧問陣がかなりの勢力を持っていたせいもあり、合同公演などかなり多彩な活動を行っていました。(さらに言うと鳥取大学に来てからその勢力は今でもあることを知り衝撃を受けました)
大学時代はダンスを、その後一回演劇に浮気(?ク・ナウカにいた時代があります。学校の先生をしていたこともあり、半年ちょっとで「身体追求します」とやめています)してまた戻り、海外でて演劇の国でダンスを踊り、戻ってきたら「歌って、踊って、演技するアフロコンテンポラリーダンス」(SPACニヤカムさんワーク)に巻き込まれ、自身の作品でも「自分で自分のことを語りながら踊るセルフドキュメンタリー」と「レクチャーパフォーマンス」を扱うようになりました。
自分のことを取り上げる上で、半分は演劇という意識があるため、言葉を使うことには抵抗がなく(ただし言葉を覚える能力に問題があるため苦労はする)、しかしそれでもあえて私はダンスの人間だと思っています。
ダンスと演劇の境目をよく言葉の有無で判断するのですが、もはやダンサーが語る作品は少なくないし、無言劇のようなものも増えていて、そこでは判断ができません。
ただ、私がダンスと演劇の両方を体験してダンスとは「私が私のまま存在している」ことと「あえてわからないことに手を出しているところ」本質的に「観客ではないものへ差し出しているところ」があると感じています。
役柄が存在しないため、あくまで私は私のまま。例えばボレロのような演目でも「ギエムさんの」「ジョルジュドンの」となります。その人がそのまま浮き彫りになってくるのがダンス。
わかるためなら言葉を使用した方が確実だけれども敢えて使用しないことによって抽象性を高め、かつ観客の自由解釈を可能にしているダンス。
つまり理解したかったり、カタルシスを感じたい観客を裏切っているという点で不親切なダンス。でもそれは神様とか何か別物のために行われている儀式のようなものだったり、情動の流れだったりするので、行わざるをえないもの。
ちょっと動物さんに近いんです。
理性を超えて動物としての人間の力みたいなものを解放するような行為。
逆に言えば、「自分ではない何者かに変わる」演劇、「わかることが前提にある」演劇、「見に来た観客のために作りこまれた」演劇みたいなことを思うのです。演出家の意図したパッケージみたいなものをそのまま受け取ることが求められるし、そういう快楽だと思う。だからこそ非常に政治的、社会的なアプローチが多い感じもします。
先日平田オリザさんの『日本近代文学衰退史』を拝見しながらそんなことを思いました。すごく面白く、個人的にはこれまた宮沢賢治さんがツボなんですけれども。あ、私やっぱりダンスなんだと改めて思いました。思考回路が演劇の人とずれている感じは前から思っていたけれど、基本としてコントロールを超える方向へ進んでしまうし、組み上げていく感じではない。もちろんダンスにもいろいろあるのですが、非常に個人的で、かついかに解放していくかということで、開放していくということなのだなあと改めて思い、一般に言うダンスとの違いについても考えさせられました。
ダンスはものさしが一つだからと言われたことはわからなくはないけれども、鳥取夏至祭は様々な身体性を提示するために設定したと私は捉えています。
演劇は一つの箱の中にたくさんのものさしを入れて世界の縮図を提示する、そこから学んだ結果です。大分あらわれ方が変わってしまったけれども、両方関わり、みてきて、今自分にできることはそういう立ち位置でした。
授業の中でもこんな感じで横断しているので、どうしようかなと思って研究室につけた名前は「ダンス・身体表現研究室」。演劇は専門家(五島先生)がいるので、お任せしつつ、でもいつか身体表現という大きな枠組みで、あらゆるものが混ざった何かが作れるようになったらちょっと素敵だと思っています。
体操とダンスの境目を考えるダンスハ体育ナリ?シリーズだけれども、学生さんなどに演劇とダンスってどう違うのか聞かれたので少し書いてみます。
私自身は高校時代に演劇をしかもシェークスピア3時間やっちゃうような地域(石狩支部)出身で、全国的に見ても当時は演劇が盛んなところだったので、その影響を受けています。当時60代の顧問陣がかなりの勢力を持っていたせいもあり、合同公演などかなり多彩な活動を行っていました。(さらに言うと鳥取大学に来てからその勢力は今でもあることを知り衝撃を受けました)
大学時代はダンスを、その後一回演劇に浮気(?ク・ナウカにいた時代があります。学校の先生をしていたこともあり、半年ちょっとで「身体追求します」とやめています)してまた戻り、海外でて演劇の国でダンスを踊り、戻ってきたら「歌って、踊って、演技するアフロコンテンポラリーダンス」(SPACニヤカムさんワーク)に巻き込まれ、自身の作品でも「自分で自分のことを語りながら踊るセルフドキュメンタリー」と「レクチャーパフォーマンス」を扱うようになりました。
自分のことを取り上げる上で、半分は演劇という意識があるため、言葉を使うことには抵抗がなく(ただし言葉を覚える能力に問題があるため苦労はする)、しかしそれでもあえて私はダンスの人間だと思っています。
ダンスと演劇の境目をよく言葉の有無で判断するのですが、もはやダンサーが語る作品は少なくないし、無言劇のようなものも増えていて、そこでは判断ができません。
ただ、私がダンスと演劇の両方を体験してダンスとは「私が私のまま存在している」ことと「あえてわからないことに手を出しているところ」本質的に「観客ではないものへ差し出しているところ」があると感じています。
役柄が存在しないため、あくまで私は私のまま。例えばボレロのような演目でも「ギエムさんの」「ジョルジュドンの」となります。その人がそのまま浮き彫りになってくるのがダンス。
わかるためなら言葉を使用した方が確実だけれども敢えて使用しないことによって抽象性を高め、かつ観客の自由解釈を可能にしているダンス。
つまり理解したかったり、カタルシスを感じたい観客を裏切っているという点で不親切なダンス。でもそれは神様とか何か別物のために行われている儀式のようなものだったり、情動の流れだったりするので、行わざるをえないもの。
ちょっと動物さんに近いんです。
理性を超えて動物としての人間の力みたいなものを解放するような行為。
逆に言えば、「自分ではない何者かに変わる」演劇、「わかることが前提にある」演劇、「見に来た観客のために作りこまれた」演劇みたいなことを思うのです。演出家の意図したパッケージみたいなものをそのまま受け取ることが求められるし、そういう快楽だと思う。だからこそ非常に政治的、社会的なアプローチが多い感じもします。
先日平田オリザさんの『日本近代文学衰退史』を拝見しながらそんなことを思いました。すごく面白く、個人的にはこれまた宮沢賢治さんがツボなんですけれども。あ、私やっぱりダンスなんだと改めて思いました。思考回路が演劇の人とずれている感じは前から思っていたけれど、基本としてコントロールを超える方向へ進んでしまうし、組み上げていく感じではない。もちろんダンスにもいろいろあるのですが、非常に個人的で、かついかに解放していくかということで、開放していくということなのだなあと改めて思い、一般に言うダンスとの違いについても考えさせられました。
ダンスはものさしが一つだからと言われたことはわからなくはないけれども、鳥取夏至祭は様々な身体性を提示するために設定したと私は捉えています。
演劇は一つの箱の中にたくさんのものさしを入れて世界の縮図を提示する、そこから学んだ結果です。大分あらわれ方が変わってしまったけれども、両方関わり、みてきて、今自分にできることはそういう立ち位置でした。
授業の中でもこんな感じで横断しているので、どうしようかなと思って研究室につけた名前は「ダンス・身体表現研究室」。演劇は専門家(五島先生)がいるので、お任せしつつ、でもいつか身体表現という大きな枠組みで、あらゆるものが混ざった何かが作れるようになったらちょっと素敵だと思っています。
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