2018年7月28日土曜日

ダンスは恥ずかしいか。

ダンスは恥ずかしいか。
私は恥ずかしいと思う。

私はダンサーという仕事をしているが、実はダンスは得意ではない。
少なくとも運動神経は鈍目の方だ。(正しくは運動神経という神経はないのだけれど、運動適応能力が低いと言えようか。)跳び箱3段飛べないのに体育教師になってしまったくらいだ。だから人前で踊る時はかなり緊張するし、さらに言うとできるだけ避けたい。

なぜ恥ずかしいかという感情が現れるかといえば、それは傍観者がいるからであり、離れて見ている人の目を気にしている証拠でもある。すべての人が踊っているような場(例えばお祭りのカオス)では恥ずかしいという感情は出てこない。そもそも近代になって”自我”が生まれて恥ずかしいという感情が出てきた。(何せそれまでは裸だろうと何だろうと何でもOKだった文化だ)私のワークショップのような場ではむしろ踊っていない方が目立つので恥ずかしいとなる。(なので見学などは入れない)
皆でやっていても、あ、間違えた。あ、向き違った、目があったと恥ずかしくなることがある。しかしこれもまた、正しいという規範があるから起こること。
なので、正しいという規範を取っ払ってしまえばいいのではないかと思い、即興なども始めた。(本当は私自身は即興が苦手なのにもかかわらず、理論上、また一般への広がりを考えて戦略的に選んでいるところがある)


ダンスハ体育ナリの中で行う体操は動きは簡単だし、皆できる。できるように作られている。でも、この若干の拒絶感もありつつ、みんな立ち上がってやっている中やらないという選択肢を選ぶ人はいないし、その言い出しにくさみたいなものが実は集団性をも作っている。
みんなやってるしまあやってみようか、やってみたらまあ気持ち良かった、健康になるらしいよ。そうやって少しずつ慣れていくもの。
でもそのちょっとした恥ずかしさ、抵抗、言い出すことができる場を本当の意味で作り出せるかといえば学校というシステムの中ではすごく難しい。


かつて体育教師として「ダンスは自由に踊っていいんだよ」と言いながら、整列やラジオ体操も正確にこなし(あれも実は踵を上げる上げない問題など細かい規定がある)、体育祭ではマスゲームを作って、100人で踊るみたいなことを行いながら、私がやっていることと何かが違うと感じてきた。でも毎年やっていることだから、学校の方針だからとそれなりに続けてきた。現実として集団性を作り出していくためにも、ある程度の流れが必要とされており、みんなを引っ張るという点でしっかりしていなくて、私はダメ先生だったし、反省している。一方でこの矛盾はどうなのか?と変えることはできなかった自分もいる(それでも先輩先生をかなり質問攻めにした)。
恥ずかしいと素朴な感想をいいにくいのはそれにちょっと近い。

10年以上が経過し、皆がダンスを踊るようになり、でもそれは自分が踊っているダンスではない時に、私はあえてそれでも自由に踊るダンスについて全く違う価値観の中話そうとしている。私の言葉で、でも私の言葉だけではなく、様々な視点を冷静に見つめ。
下手なりに、でもそれでも今これ言わなきゃいけないだろう、恥ずかしいなりにでもここでいっとかなきゃ、そういう覚悟と決意と一生懸命さを持って。
レクチャーパフォーマンスもセルフドキュメンタリーもそういう必死さでしか私は作品を成り立たさせられない。

裸になって出る覚悟。それでも訴えなきゃいけないこと本当はそういうことだったんじゃないかと思う。ある種の当事者性。時間かかってるけれど、自分の中の素朴な疑問、素朴な訴え、それを形にしていくのが私の仕事。

Dance Archive構想の会報誌に乗っている山添さんの言葉への私なりの返信。





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