再びかめりあに戻り、
最後のシーンで服を着ていくことと脱いでいくことがおきるがそこもつっこみ満載だった。
牧野先生は最後なぜ服を脱ぎきらなかったか?とおっしゃる。
別にぬいだからといって減るものではないが、私の身体はそんなに美しいものでもないし、別にそこでアピールしなくてもと思っていたけれども、意味上できれば完全に服を脱いだ方がきれいに終わったのではないかという。むむむむむ。
舞踏をはじめ服を脱ぐ作品は多くあり、最近のコンテンポラリーダンスではかなり見慣れた光景である。(だからといってそれを狙ってくる客がふえても困るのだが)ただ、下手に服を脱げば、そのことに意織がいってしまい、印象がそれしかのこらないということもある。そして大概の場合全裸は美しくない(笑)。だから私はたまに遭遇すると観客として?と思う。
今回はすぎっこの服をいただいて着る(いろんな意味で思いを着ていく。記憶を着ていく。それに伴い動きが制限されてしまう)ということが大きな意味をもち、それをはぎ取るという意味合いが含まれている。だけれども。
服を脱ぐことについてはシンと話していたプラン。
舞台を半分ずつわけて踊った後、それを舞台上に脱いではおき脱いではおきと円を描くようにしておいていく。
彼のプランにはそこに意味はなく、(サイコを脱がせようという意図はあったかもしれないが)脱ぐこと自体が特別な意味をもつと感じたのは私の感覚だ。
その作品は形にならず、まさか地球の反対側で勝手に作品になるとは思いもよらなかったけれど引き継がれた。
そういうことは多々あって、ラシュパと話していたことが木の並び替えのシーンや、服の点在につながっているし、そもそも団塊世代ダンス企画はアシュフォードさんと話していて思ったことからできている。
いろんなものがいろんな形で連動していて、この7年が私を形作るようにかめりあをつくってくれました。見そびれた人残念でしたね。再演は難しいと思いますよ。。。
ともあれ、かめりあ反省会はまだ続きます。
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