2014年11月23日日曜日

ダンスを教えるということ⑨ ダンスは評価することができるのだろうか

現在私は筑波大学夜間大学院人間総合科学研究科スポーツ健康システムマネージメント専攻スポーツプロモーションコースなる所にかよう学生でもある。
なんだか長い名前でよくわからないが、簡単にいうとダンスも学校教育の中では体育の枠に入るため、体育の枠でダンスをみてみながら、スポーツのシステムを学ぶのがいいのではないかと思って入ってみたということだ。一応元(今も)教員だし。
多くの人に、気がおかしくなったかと心配されたが、母校の先生方にもいろいろ話したりした結果でもある。

ここにきて最も良かったと思うことは、私が踊っていることは悪いことではないということがわかったこと。踊りでいきていくことは不可能ではないし、またプロフェッション(職業)として成り立たせる方法を考え出せるのではないか、ということを学んだこと。

ただそれと同時に他のスポーツ種目と比較してダンスは違うということを多く学んでいる。正直並列して考えてはいけない。
この違いについて述べたいと思う。

体育は実は三つに分類できる。
①身体を作るための運動=体操
②スポーツ
③ダンス

ロジェカイヨワの遊びと人間(学部時代の必読書の一つです)のなかにある分類によれば人間の遊びは4種にわけることができ①アゴン(競争)②アレア(運)③ミミクリ(模倣)④イリンクス(目眩)という。
このうちスポーツはアゴンを中心としていてダンスはミミクリからくるという。(私は個人的にイリンクス要素も強いと考える)
ちなみに今スポーツ庁の設置などが議論されていて、体育がスポーツになるかも??なんていう話しもあるが、もしそうなった場合はダンスはそこにはふくまれない。微妙。
そもそも目標も楽しみの要素も全く異なるものだということを知っておいた方が良い。

スポーツはルールを共有することにより、グローバルに人のつながりを作ることができる人間が作り出した文明の一つのかたちである。成熟社会となった今余暇をいかに過ごしていくかというのは重要なポイントであり、スポーツを通じた国際交流、社会のネットワークづくりなど考えられることは多くある。さらに健康維持などのメリットも大きい(医療費削減などは現実的に投資効果をみれる)。
ただあくまで競争である。
高度化(言い方を変えれば暴走化)しすぎる恐れがあることは否めず、それは嘉納治五郎の時代から疑問視されていた。「現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか」によれば、嘉納が現在の柔道を元に制作した精力善用国民体育(攻防式)の構想段階には表現式もあったが出版、公表されることはなかった。(柔道の形のうち五の形の後半三つが近いらしい)彼の考えた表現式というのはどのようなものであったか。
「四肢、頚、胴の運動によって思想、感情,天地間の物の運動を表現する体育」


ダンスには勝ち負けはない。
こんな人もある、こういうこともある、そういう様々な多様性を知り、受け入れていく(あるいは議論していく)だけのことだ。ただ多様性を受け入れていくためにはそれを感じ取れるだけの感性が必要で,それを育てていくことがダンスの重要なポイントでもある。多様性を際立たせていくためにそれぞれのオリジナリティを模索していくことも必要だろう。自己を知るため、他者を知るための作業。
作品を制作していくための作業、それ自体がコミュニケーションである。
表現に正解はない。
優劣もない。
違いはあっても、それは差異でしかなく、お互いに理解する気持ちがあるかどうかだ。

私は英語を話せないままヨーロッパに渡ってしまい、それでもいきていくことができてしまった。そこで学んだのはお互いに理解する気持ちがあるかどうかでしかなく、言葉がわかるわからないはそれほど大きな問題ではない。相手を受け入れようとする姿勢がつくれるかどうか。それがダンスの可能性でもある。
言語の問題だけではない、障がいを持つ人、環境が異なる人、様々な人とつながること。ルールも乗り越えてしまう可能性がある。身体を動かすということは同じだが、目指すところはスポーツと全く異なっている。
イギリスでコミュニティダンスがものすごい勢いで広まったのは財団(foundation for community dance)の力も大きいが、ダンスのそのような可能性が移民が急増するイギリスの社会問題にぴたりとマッチし、creative partnershipなど教育現場に大きく取り入れられたことが影響している。

Creative
創造力
のためのダンス。
そう考えると私はダンスを評価することはできないと感じている。

元々学校教員だった頃から授業の評価をつけるのに苦労していた。とても悩んでもいた。
そのときの直感はここで戻ってくる。


学校というシステムは指導する側と指導を受ける側に分かれてしまう。
一つの技術を伝える際にはその方が効率的だ。スポーツの場合は指導者(監督など)と選手がそこに置き換わるわけで分かりやすい。
100M走はいかに速く走れるようになるかを追求するし、ボールを遠くへ投げるにはどうしたらいいかと学ぶ。
ダンスでもエアロビクスのようなものや、技術を学ぶタイプのもの(ヒップホップなどでも振付を教授されるタイプ、よさこいソーランなどもそれに相当する)はこちらの方が適している。クラシックバレエも実際の授業で行うのは難しいが一つの理想があるだけに評価は難しくない。

ただ創作ダンス、コンテンポラリーダンスと呼ばれるジャンルは単純に置き換えることも評価することもできない。正しいはないからだ。むしろ評価があるということで自由な発想や発言を制限させてしまうことになるだろう。
コミュニティダンスやワークショップ業界(?)では指導ではなくファシリテートという言い方を用いる。参加者と同じ視点で発言などをしやすい環境を設定するという意味の言葉だが現在のところ日本語訳はない。
学校の中で学校教員はやはり特別な立場になってしまうため、ダンスの授業だけ変化することは難しい。そのため外部者が介入することが重要なのではないかと私は考えている。どんなことをいっても、どんなことをやってもよいという環境を作り出すことが外部者(アーティスト派遣の場合はアーティスト)の仕事である。
学校教員はその時離れてみていることもできるが、一緒に子どもたちと同じ目線で参加することもできる。そうして少し普段と違う側面をみせることができたら素敵だ。

中学校1、2年時の必修となって多くの学校で導入されたダンスの時間。そのうち創作を行う時間はそれほど多くない。(学校によって時間数の設定が大分異なる)その時間評価という視点を外すことで見えることは大きいと私は思う。


おまけ
なお、私が渡欧前に勤めていた学校ではダンス系科目だけで通年授業があったため(私立、国立)ダンス系だけでも評価をつける必要はあった。ラジオ体操やエアロビクスのようなものも含めているためそれらの実技試験及びグループワークでの参加具合、レポート提出などを元に評価をだしていた。)


おまけ②
実はヘルス領域の先生方からは、ダンスが、ダンスがといわれ続けている。特別講義で別々に来た5人の先生が皆ダンスがといったのには驚いた。社交ダンスであったり、ストレッチであったり、様々ではあるけれど高齢になっても続けられる運動、しかも楽しいという意味でダンスに興味を持つ研究者は多い。







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