2018年8月28日火曜日

舞踊の禁止について

朝日新聞の以下の記事を受けて書こうと思います。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13653458.html

ダンスハ体育ナリその2は1936年ごろの体操の大流行を扱うのと同様に様々な舞踊の禁止令も扱っている。
実は明治期も様々な盆踊り禁止令が出され、舞踊の歴史は禁止の連続だった。
逆にいうとなぜ禁止しなければいけなかったのか、ということでもある。
また、その中で優遇された舞踊というのもある。

イギリスにいた頃、リーマンショックがあり、政権交代が起き、一気に芸術文化予算の縮小が起きたことがある。もともとイギリスの助成事業では社会貢献度が問われていたが、教育やオープンスタジオ、ワークショップ事業を手がけていない私のいたカンパニーは一気に予算縮小の憂き目にあった。作品が今ひとつだったこともある。が、それだけではない。社会貢献ができる団体と、産業として売りに出せる大きいカンパニー(ランダムやホフェッシュなどはラージカンパニー枠)だけに集中して予算配分を行うようになったという。
しかしラッキーなことにちょうどその時期に起きたロンドンオリンピックによって多くのダンサーが生き延びることができた。多くのダンサーがコミュニティダンスを一般に広める事業に関わるようになり、それがコミュニティダンスを広める契機となった。
一方で、全てのダンサーが自身のアーティストとしての信念から動いたとは限らず、振付家が振付をただ教えて踊らせるようなケースもある。

私は修論を書く時(この修論は3つに分けて鳥取大学リポリジトリに公開している)、イギリスに再度訪れて、当時の知人たちに話を聞いた。私が分かっていなかったけれども、当時の予算削減は25%カット、ニューキャッスルに至ってはいきなり予算が0になったという。(最終的には美術館などと合わせての予算を確保したが、多くの事業が潰れ、そこに私が関わるかもしれない作品も含まれていた)。
その時以来助成金に頼りすぎない生き方を考え、最小の形で作品を上演する術を模索してきた。
今でも私の学生たちには自分がやりたいことを自分の力でできるよう、なんでも自分でできる術を身につけてもらえるようにと思っている。

真に表現の自由を考える時、現在の政治状況を考えると、予算の有無ではなく、それでも表現をする力が必要になると思っている。ここ数日大野一雄論文を読んでいるが、慶人さんは父親がリサイタルにお金つぎ込んじゃうから貧しくてと度々話していて、そういう勢い、今ないんじゃないかと私は感じる。それでも社会に訴えなければいけないことってなんだろうか。そのような切実さ、私は最近の舞踊に感じることができない。
今やらなきゃいけないこと。
今だからできること。
作家としてはそれを作るしかないんだと私は思う。

 ダン体プログラムを作っていたので、そこに書いていた文章を転載します。

     舞踊の禁止について
 今回レクチャー内で扱われているダンスホールの閉鎖やダンス月刊誌の廃刊、及び様々な歌謡曲の発売禁止という現象は確かに起きている。しかしながら一方で政府によって保護され支援された舞踊というものも存在する。例えば紀元2600年記念奉祝芸能祭においては石井漠、江口隆哉、高田せい子が『日本三部作』を発表している。これらの奉祝事業の中心を担ったのが松本力とされており、彼の率いる日本文化中央連盟はその後も 「我国民生活に清新なる活力を附与すべき芸術的作品の創造」を目標とし、大衆演劇コンクールを開催するなどしている。この1940年を境に政府が芸能(特に演劇)を積極的に活用し、支援により統制を行っていこうとしていったことを宮崎(2003)は指摘している。なお、現代舞踊のコンクールとして知られる東京新聞舞踊コンクールが始まったのは1939年のことでほぼ同時期であり、プロパガンダ的に利用しうるものを利用し、それ以外を排除、禁止していくというこの時代の流れにのっているものとも取れる。
 昨年ダンスアーカイブプロジェクトでは江口隆哉の慰問公演を取り上げた(坂口・西田,2017)が、それもまた、ある種ダンスが利用されてきた一つの形でもある。支援により私たちは新しい作品を作ることができるのかもしれない。アーティストの政治的自立を考えていく上で、また表現の自由を考慮する上で、それでいいのだろうか。近年、社会的効果や経済効果を問われることが増えている。観光客をいかに呼ぶことができるか、移住者を増やせるか、地域活性化、それは本来の芸術活動の趣旨ではない。本来芸術活動とは個人の純粋なる欲求により成立するもので、それを発露することができる環境を作り出すことによって、多様性のある多くの人にとって住みやすい社会が形成される。つまり、芸術活動が直接的な効果を編み出すものではなく、長い目で見た豊かさのためのものである。

 私たちは目先の効果、結果にとらわれ過ぎていないだろうか。そもそも作品上演の目的とはなんだっただろうか。集客ができればいいのか。観客を喜ばせればいいのか。娯楽として消費されるだけのものではないと私は思いたい。本来芸術活動とは各人の持つ「せざるをえない衝動」に起因する。喜びも悲しみもその瞬間を現しだしたものが作品であろう。助成金や規制にどのようなスタンスを取っていくかも作家としてまた大切な視点であり、特に現在の政治、経済の発展の仕方を考えるとよく見極める必要がある。レニ・リーフェンシュタールのような生き方もあるかもしれないが、私には芸術家としての性(さが)と受け入れることができない。真に自立していくためには助成金に頼らない上演形態、形式、手法を作り上げていかなければいけないのではないかという予感を感じている。

2018年8月26日日曜日

Angels 2018

子どもたちの作品を見に行って来ました。Angels@静岡芸術劇場
SPAC enfant事業は2010年にスタートし、木野はヨーロッパから帰国して7年関わって来ました。初めはタカセの夢(初年度タイトルはユメミルチカラ)、5年が経過しAngelsとなって2年、そして大田垣さんにアシスタント職を任せ2年目。それでもやはり気になって見に行きます。

子どもたちは身体の成長も大きい時期。中高生時期ということもあり、身長も1年で10cmも伸びたり。(私自身もそうでした)それに対応しながら、戸惑いながら、毎年暑い夏を過ごします。
大学に進学する子も、ダンスや演劇の道に進む子も様々。アフリカに留学しちゃった子もいます。おそらくこの子たちがきっと未来の静岡のダンス(あるいは演劇)を育ててくれると思っています。
作品自体も大幅に変化。東京公演(東京芸術祭)を目指します。
あと2ヶ月。少しずつ変化を積み重ね、きっといい作品になるだろうと思っています。


特殊な技ができるからではない。能ができることやフェッテができることや、歌が上手く歌えることが大事なのではない。ただ、その人であるだけで、そこにいるだけで特別な存在になっていくことができますように。
役割があるとかないとかではなく、そこにあなたがいないとこの作品が成り立たないということ。それがいかに大切か。
自身の存在を見失いがちな世の中、自分をきちんと認められるようになることがどれだけ大切なことか。東京公演は11月。ぜひ。

2018年8月18日土曜日

三徳山

バスクからきたマリアさん(ダンサーさん)をつれて三徳山へ。
天台宗の護摩だき法要、食事作法、三徳山登り、ついでに三朝温泉のフルコース。
ある意味死者の書リサーチですが、なかなか素敵な一日でした。
三徳山は門をくぐると川がありそこが三途の川。そこからは結構な修行道です。ワラジの強さに助けられて(普通のスニーカーではだめなんです)登っていく過程は六つのセンスを磨くもの。観音堂の脇をくぐると胎内めぐり、釈迦の生まれて成長していく過程をたどるものなんです。
そんなわけでうまれかわり?
おりしも今日は最澄さん誕生日、わたしもですが、ま、また一年頑張りましょってことです。

明日はアメノウズメリハーサル。マジですか⁈と思いつつ。


詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう


宮沢賢治の言葉より今日の言葉。

2018年8月16日木曜日

陸上の墓踊り

先日、しゃんしゃん傘踊りに盛り上がる鳥取中心市街地から少し離れ(カフェミルキーウェイも野口店主に任せ)、陸上(くがみと読みます)の墓踊りに行ってまいりました。駅だと瑞鳳が止まるようになって超おしゃれレストランができちゃった東浜駅。キャンプには最高の立地です。ここの盆踊りはお墓で踊るんです。
明治期にできたようですが、昔は3日間行っていたそうで、寺で踊る大踊りと墓で踊る道念踊りがあったものの、今は1日だけ墓でのみ行っているとのこと。
新盆の5軒のお墓を回り、そこの親族の方々(お盆なので帰省してくる人もいます)も一緒にお墓の周りを踊るというもの。現在盆踊りは櫓を組んで円になって踊るものと思われていますが、おそらく原型はこのような感じだったのではないかと思うんです。
昔は土葬だったから踏みしめるという意味合いもあったのだとか(ちなみにこの地域は砂地で、住宅街の一角の丘が全てお墓になっています)。
70歳代の小山さんが八百屋お七などを良い声で歌ってくれます(シンプルに太鼓と唄だけなんです。マイクなども使いません)が、今年で引退なんだよと話してくれました。ガリ版の台本も見せていただき、でも今はこのうち4曲くらいしか歌ってないとのこと。しずかにしずかに。だんだんいろんなものがなくなってしまいますが、こういう風習をちゃんと伝えておきたいなと思うのでした。
鳥取伝統芸能アーカイブ
https://www.tottori-dentou.net/dantai_detail.php?id=74


夜空、満天の星。天の川も出てて、あ、ここで出張ミルキーウェイをするべきだったと思いながら帰ってきたのでした。そんなわけで出張もできます。

2018年8月15日水曜日

折口さんの言葉〜戦没者追悼式典に合わせて

死者の書を書いた折口信夫は民俗学者であり、詩人であり、そして国学者として知られる。日本という国を愛し、天皇を愛し多くの文章を残している。
この人の本を読むとただ単に日本万歳型の人ではないこともわかる。

戦後、彼の愛する養子春洋を失ったのち、『神やぶれたまふ』をよみ、またこのような手紙を春洋の兄に残している。

ただ思えば思えば、今が今まで、陛下の貔貅をあだ死にさせるような人々でないと信頼していた者どもが、今になって皆、空虚な嘘つきだったと痛切に知った悔しさ。例えようもありません。何よりも国をこうした危い状態まで導いておきながら、今なお、はづる(りっしんに鬼)ことなく、報導に技巧を凝らして、戦記を発表していることです。
(『折口信夫』植村和秀の指摘による)

天皇の言葉を重んじる折口としては天皇の代理者として職を軽んじ、国民の信頼を裏切った指導者たちに憤りを感じている。1935年頃より既に下克上の危険性を指摘し(『日本の古代国民思想』)ており、その後226事件(1936年)などの天皇の言葉と関係なく暴走する軍を見てきた折口だからこその思いがある。
問題は天皇制ではなく、天皇制を利用して自らの権力をつよめようとするところにある。そしてここしばらくの公文書の書き換え問題やメディアによる報道内容の偏りをみると「報導に技巧を凝らして」あたりがまさしくリアルに感じられる。


私自身は天皇制に賛成も反対もない。特別な感情を抱く人もいるのはわかるので、静かに見守ってきた。2016年8月退位の意向を表明した際(http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12)、祈る人としての天皇の役割を述べ、健康上の理由から維持できないとした。祈り、そして各地を回り、直接国民と会って話すことは天皇を神格化させる流れと逆行している。人間のみこともちとしてできることとは何かを考えた挙句であろうと私は捉えていた。しかし今日戦没者式典を見ながら、ふと思ったのは、自らが動けなくなったり、意識がなくなったりすると、”やばい”という危機感からだったのではないだろうか。単純に大喪の礼などの行事や手続きが大変ということだけではないだろう。自らの意思に反して物事が動いてしまうことを防ぎたかった、そして憲法を、またこの国のこれまで歩んできた形を守るべく、あるいは国民全体にかんがえなおすきっかけとして退位を持ち出したのではないか。

実際退位が決まった直後から憲法改正への動きが活発化している。それまでもずっとあり続けていた議論だが、今上天皇がいなくなるならというような勢いがあって、心が痛い。そうやって式の映像をみてみると、安倍さんを睨んでいるようにも見える。
実際その心の中を知ることはできないけれども。


ダンスハ体育ナリ?其の2で扱っている時期1936年から40年くらいと折口は重なるところも多くある。例えば今日の報道で江橋慎四郎さん(元鹿屋体育大初代学長、ダン体2では学徒出陣の答辞を読んだ人として紹介)も今年春97歳で亡くなったことを知る。時代が過ぎ、かつてを知る人はいなくなってしまう。過ぎ去った歴史を振り返るのは文字の力しかない。私たちは彼らの遺した言葉を読み解きながら、どのように戦いが始まり、そしてどうして止めることができなかったのかを考えてみる必要があるだろう。

折口自身はその救いの先は宗教と文学だと見出し、そして古代の生活を見直そうと試みていた。直感を信じて。彼自身がある種の巫女のような存在であり、膨大な文章を書き残しているが、しかし最後には論文ではなく詩と小説として広く一般に広めようとした。文学に残されたある種の自由度を信じていたのではないだろうか。

私は自分が踊る人だったからダンスにする。受け取る人がその先を考える余韻を作ることが大切ではないかと思うので。

死者の書チラシが出来ました。




今後の予定(2018.8.15)

今後の予定
◎死者の書再読


お隣兵庫県にある城崎アートセンターで滞在制作を行います。9月15、16日には試演会も行う予定。鳥取県内では12月末を予定しています。美しいチラシ、小川さん、小木さんありがとうございます!この色使い、木野では思い浮かばない世界です。

http://kiac.jp/jp/post/4448

鳥取を拠点に活動するダンサー/振付家の木野彩子による折口信夫「死者の書」再読プロジェクトの滞在制作。
折口信夫の口述文学の傑作小説「死者の書」における、2つの世界が交錯していく構造や、多用されるオノマトペをもとに各シーンの動きをつくり、折口の心の中の物語として再構成し、ダンス作品を創作する。2つの世界を象徴する存在として音楽家のやぶくみこ(ガムラン、パーカッション)、杵屋三七郎(江戸長唄、三味線)が参加し、この世とあの世、男性性と女性性が重なる瞬間を模索する。また、照明家の三浦あさ子との共同作業により、この世ではない世界の見せ方を探究する。滞在中、市民を招いたオープンスタジオで成果を発表する予定。滞在制作後は、鳥取県内での上演を計画している。



◎わらべ館即興音楽とダンスのワークショップシリーズ
夏至祭の時に踊るの楽しーと思った鳥取の皆さんに即興の面白さを定着させるべく2ヶ月に1度の即興音楽とダンスのワークショップシリーズを開始します。(助成:文化庁大学を活用した文化芸術推進事業)
夏至祭メンバーだった皆さんにもお越し頂き即興ワークショップを遊びつつ幅を広げていけるといいのではないかと。日程は以下の通り。
次回9月は金井隆之さん(声楽、マンドリン、ギター他)と荻野ちよさん(ダンス)が声を使って遊びます。
7月22日(日)午前
9月30日(日)午前
11月18日(日)
1月26日(土)
3月10日(日)

この事業は鳥取大学芸術文化センターのアートマネジメント人材育成事業の一環でもあります。こちらの講座も企画中。多角的にアートマネジメントの視点を学びたい人を募集中です。正しくは私が学ばないといけないんですけれども。










◎「ダンスハ體育ナリ?」またやります!10月6、7日@ドイツ文化センター
実は大野一雄編(其の1)でという話が動いていたのですが、両方やっちゃいます。本気です。ダンサーで先生という木野経歴ならではのレクチャーパフォーマンス、いそうでいないと様々な方に言われています。おだてられたからではないですが、これはこれでもう少し掘ってみましょう。
DNAは青山ビエンナーレ、トリエンナーレの後継事業。青山円形劇場に育てられたと言っても過言ではない私としては久々に故郷帰りです。

http://dancenewair.tokyo/2018/木野彩子『ダンスハ體育ナリ?』/
ウェブサイトに紹介も載っています。

ステージナタリーさんが取り上げてくれています。
https://natalie.mu/stage/news/290729




◎鳥取銀河鉄道祭2019年11月に開催します。
それに向けてのリサーチ・ワークショップ活動がスタートします。

取り急ぎフェイスブックでページを作りました。ウェブサイトも制作予定。少々お待ちください。
https://www.facebook.com/Gingatetsudou.Tottori/

HPを作ったら、どうもインターネットエクスプローラーだと動かないらしいということが判明。グーグルクロムなどでご覧ください。
https://scrapbox.io/gingatetsudou-tottori

ほぼ毎週1回くらい(ほぼというところが私たちの緩さらしい)鳥取の皆さんと一緒
に銀河鉄道について、宮沢賢治について、鳥取の暮らしについて語るカフェ・ミルキーウェイ続行中。こちらに記事載っています。http://totto-ri.net/news_cafe_milkyway2018/


◎Amanogawaプロジェクト鳥取2018年11月の予定でしたが2019年1月になりそうな感じです。準備が色々間に合っておらず、でもこれはちゃんと続けたい企画です。

2018年8月12日日曜日

ネパール仏教

このタイミングで何故か、ネパールから金剛阿闍梨が来るからきませんかと言うお誘いをいただき比叡山へ伺う。
このブログを見るとわかりますが、木野は昨年カトマンドゥへ行き、何故か謎のダンス教師チャンドラマンさんに出会い、様々なチャリヤヌテラを教えていただいたのですが、私よりはるか前よりネパールに通い詰め、学んで、今は尼となり普及に務める岡本さんと言う人がいます。
え?なんで比叡山??とか思いつつ伺いました。
で、護摩だきをしました。(ちなみに来週は三徳山での護摩だきなので、比較の上でも貴重な経験です)そのあとチャリアヌテラを拝見し、ご飯をいただき、住職さんとお茶をすると言う謎の経験に巻き込まれました。

ここにきていた民族音楽の先生と色々お話しし、この世の中の不安定さ、また自身の存在感を失ってしまうのを止めるのはやはり音楽や舞踊といった芸能と、宗教しかないのではないかと言うこと。様々なお祭りの魅せる前のお祭りの面白さなどを話し、妙に共感。
重要なことはうまいとかへたとか誰が決めたのか、その前に戻せばいいんじゃないかと言うこと。

その先生曰く、一時期ネパールによく通っていたそうで、正直貧しい国だけれど、お祭りを欠かすことはない。つまりこのお祭りによって人々は心のバランスを保っていて、それゆえ豊かに暮らしていると考えたそうです。
心の豊かさ。
コンピューターやAIに全ての仕事が置き替わられてしまうなか、人でなければできないことは何かと考えた時に、この身体に関することと、心に関することしかありません。
芸能や哲学、宗教はそこにダイレクトにつながる可能性がある。

宮沢賢治じゃないけれど、なんで生きるかって大事だと思うんです。
(比叡山で宮沢賢治歌碑見つけてビビりました。まさかこれに呼ばれたわけじゃないよね??って)


注(追記)
岡本さん、日本の密教について学ぶべく、比叡山にて修行をし、尼になったそうで、その時の指導教官(僧の世界にもあるのです。また比叡山の住職という仕事は輪番と呼ばれ、3年で交代していくのだとか)がご住職だったということもあり、今回の企画が行われたとのこと。ネパール仏教も天台宗も、どの宗教も受け入れるという比叡山の懐の深さがすごい。(日本の仏教はみんなそうなのかもしれません)実際に真言宗の僧籍の方がいらっしゃり伝法灌頂を受けていました。
尼になる修行はかなり厳しいもののようで、あまりにもたくさん詰め込まれるので、毎日1時間くらいしか寝れなくて、でもそういう密な時間を持てたことはとても貴重な経験だったそうです。

余談ですが私、最澄さんと同じ誕生日らしいということを知りました。(お祝いがあるのだそうです)

31th All Japan Dance Festival in kobe

帰りの電車の中。
All Japan Dance Festival神戸31回大会の引率をしてきました。
うちの学校はすでにカリキュラムの関係でそもそも参加できるかが怪しい状況で、しかもプログラムデータの送信が遅れ、厳重注意を受けてしまうものの、学生たちの希望で今年も参加発表部門のみ参加しました。(コンクール部門の予選日に試験が入るため)
俗に言う裏方作業もしておらず,すみませんなのですが、この大会が作ってきたものとはなんなのだろうかと色々考えさせられます。

自身が学生時代に関わっただけではなく、中高の教員時代に引率していた学生が入賞、受賞したこともあり、それがきっかけで何人かの学生が舞踊で大学に進ぬ学しました。そのうちには現在もダンサーとして活躍する子もいます。
大学時代に一緒に踊っていた子たちが審査員となり、コメンテーターとなり。

私が出演していたのは第8回(大学1年時)、第10回(大学3年時)(母校では大学3年までしか出演しない規定になっているため)その時には文部大臣賞、特別賞(とそれに伴う学長表彰など)を受賞しました。その時の話はダンスハ体育ナリでも語っています。選ばれた側ですが、それでも思うのはダンスは評価できるのだろうか、と言うこと。

それは既に亡くなられた石川さん(元横浜ダンコレプロデューサー)などにも話しましたが、賞をつけられないものではないか。と言う素朴な疑問です。
様々な多様性をと言うのであれば多様性を評価すべきである。少なくとも特プロを見ながら3賞になると突然意味のないところで足を上げ、見栄えのいいリフトをする学校が増えてくる。(学生でできる)見栄えのいいリフトはそんなにないから、同じ動きになってきて、音と衣装の違いくらいしか見えてこない、となるのは何故なんでしょうか。

私ができることはうまいってなんですか?と疑問を投げかけること。
なんでみんなで揃って踊るんですか?と疑問を投げかけること。

この世の中にちゃんと警告を投げるような作品がどれだけ見られただろう?
みんな見栄えの良さに囚われていないだろうか。
それは一昔前の体操の大流行と変わらないんではないか。
確実にこの数年で数押し、迫力押し作品が増えていることに関し、危機感を感じています。(ダン体その2のメインテーマです)


特プロを見る前に時間が空いてぷらぷらしながら(死者の書衣装を探していました)、そこですごく泣いてしまう。
自分のコンプレクスの源であり、絶対変革しなければいけない、でもそれを愛し、かつそれにより生きている人がいる時に、私は何が言えるのだろうか。
高校生が大学生の踊りを見て憧れて入学する(AOなど推薦入試も多々ある)システムもでき、そんな中、わたしは何ができるのだろう。

今年大学は予選通過と受賞校数がかなり減ったそうです。高校生の比率に合わせてとのこと。大学の部の特プロと決戦を見て私は多様性と言う意味でももったいないことではないかと思いました。審査員に誰がなるかと言うのも大きく影響を与えていそうです。


ダンスハ体育ナリ(その1、その2ともに)への宿題は多く残された。そんな感じです。10月までの宿題。


2018年8月3日金曜日

闇のはなし

銀河鉄道の夜第3次稿までにはブルカニロ博士という人がいる。
さらにカンパネルラと別れた後、ジョバンニが出会う、セロのような声の男の人。(これは博士と同一人物という声も、賢治自身だという声もある)この人は突然やってきて宇宙の真理について話しはじめる。ほんとうと思われていたものがいかに変遷していくか。時間と空間が一気に流れ、その全てを体感させる。だからこそ、その謎の鎖を解かなければいけない。そしてジョバンニは走り始める。

私が見たのは真っ暗な闇だった。祭の最中一瞬にして真っ黒の穴の中に落ち、またすぐに戻ったけれども、あの闇はなんだったのか。この人の孤独のようなものを読み取ったかと思っていたが、そういうことではなく、この世かもしれないと最近は感じる。いろんな意味で滅んでいく方向に時代は流れていて、そして人も動いていて、ある種の必然の中石炭袋に向かっていくその先を垣間見たのではないか。

いろんな文字、言葉やいろんな画像のようなもので介入してくる思考が増えてきて、それ以来走れ走れと言われている。だからとりあえずその時以来走り続けている。
多分その暗い闇は怨恨とかそういうものではなく、ただ虚無で。(ダン体のレビューに『激しさや怒りを超えた虚無』という言葉があって、ああそうなのかもと思った。だから空っぽだったんだ。と。)
怨恨であればそれなりのエネルギーがあり、それを変えていくことができるかもしれない。でもそういうものではないようで、何もどうしようもない。
でもせめて、少しでもできることがあるとすれば、史実に基づきつつ、この見えてきてしまった物事を言葉にし、踊りにしていくことでしかないのだろうと。ダンスハ体育ナリ2の最後のシーンはどうにもならないけれど、でも踊るとしている。カナリアのように少し先に察知して必死に踊る。
芸能者は時代を読み取る力のある人であり、そして予言をするような存在でもあった。(でも当たらない人もいた)

謎の経緯で預かってしまっておそらく共有しているこの暗闇。このとき起きたことがどういうことかをきちんと言語化していくことと、この暗闇そのものをあらわすことがここしばらくの課題ではないかと考えている。

今回作る死者の書は2つのお話が交錯しており、そのうち一つはこの暗闇の中。折口は1人称で書いていて、その中にいる人として書いている。でもおそらくそれは私がそのまま自分の身体を通して見えるようにしていかなければいけないもの。もう一つは暗闇に触れてしまいせざるをえなくて全力ダッシュしちゃうようなところ。つまり闇の外。でもだからこそ暗闇が見えてくる。
いずれにしても自分の意識をいかになくしていくかを目指していく作業ではないかと。

言葉ではなく、身体を介して目に見えない世界を作り出していくこと。それも2種類、真逆の形で。しかし本当は真逆なのではなく、表裏のような、円の中と外のような。
IchIの時の上野君がやっていた役と私の役割を合わせて私が一人で作り出せればいいのではないか。光と影そしてそれによって明らかになる闇。
Mobiusで話していた表と裏のひっくり返しと追っかけっこのような関係で相互に補完し合っている。

カンパネルラとジョバンニは実は一人の人物だとする説もある。多分そのような試みが『死者の書 再読』の世界ではないかと思っていて制作は続く。




毎週、銀河鉄道の夜

来年銀河鉄道の夜を基にした音楽劇を作るにあたり、街中リサーチの一環として毎週、銀河鉄道について考えたり、話したりする会を始めます。
毎週、銀河鉄道の会。第1回目はいきなり倉吉と津山からお越し下さったお客様が。山陰地域のフットワークの軽さに驚かされます。宮沢賢治が書き換えていった初期型と最終稿の違いなどをお話ししながらあっという間に2時間半。
毎週火曜日だと来れない人もいるということで、少しずつ日程をずらしながら続けていくことになりました。とりあえず次は8月7日。

(鳥取銀河鉄道祭という名前も長すぎるので、素敵な略称もお待ちしています。とりぎん以外でお願いします。)


とフェイスブックにあげていたところ早速この名前堅いと言う声が。
そんなわけで次回からゆるーくカフェ・ミルキーウェイです。かわいい。。

2018年8月2日木曜日

狂言

このタイミングで野村家鳥取公演を見に行く。演目はちょっとマニアックだけれど(舟取婿と小傘)わかりやすく動きのある演目だったので、お客さんも楽しんでいました。オリンピック効果もあり観客席満席。
万作さん、萬斎さんの順で出てくるのだけれど(これは昔から。人気の問題と小傘は人数が多く出てくるタイプの演目なせいもある)万作さん87歳まだまだ元気。笑わせどころから何から可愛くってしょうがない。能も含め歳をとってからが勝負と言われる伝統芸能の凄さを思い知りました。遠くてもしぐさがすべてわかる。そしてその人の色が出てくる。狂言の言い回しには独特の節があるのだけれど、そのお約束に乗っかっているのに自然に聞こえてくる。そしてあの倍音みたいな声。そんなわけで万作さん、今見時です。

狂言は大学時代実は狂言研究会(入学した頃に配っていたチラシに大きく丸と狂が書かれていて、ナンダコレハと思ったのがきっかけ)に入っていて、野村家にお世話になっていた時代があります。当時萬斎さん、襲名したばかりで、イギリスに行って帰ってきたあたりの頃。
伝統芸能というと堅苦しそうだけれど、すんなり入らせてもらって、装束の虫干しとか稽古場とか見させてもらえたのはある意味貴重な経験だったと思っています。(当時はマニアックな部活で、4つの大学合わせても私の学年は私しかいなかったという)謡本のカバーが皆千代紙とか使っているのに、たまたまあったアルビンエイリーかなんかのチラシで作っていたら驚かれた記憶が。変な子だと思われていたに違いありません。
扇の使い方、すり足の基礎みたいなものはここで学んだと思っているし、民俗芸能を見に行ったりするくせもここでついたような気がします。(なので教材としても結構いいのではないかと思って非常勤枠の授業を作ろうとしたこともあります)

能だと眠って起きてもまだ同じシーンだったってことがあるという昨日の解説をしてくれた高野さんの言葉は、同じことをキューバ人も言っていました。でも高野さん曰く、狂言は全部しゃべり尽くすから進行しちゃって気がついたら終わってますからと。能が舞であるのに対し、狂言がセリフ劇であるとも。なるほど。そういえばそう。(でも私自身は小舞といって練習曲のような舞を学んでいたのだけれど)能だと源氏物語とか文学の話になっていくんですけれど、狂言普通の人ですからとも。
常に能の陰に隠れていた狂言という存在。ここ数年茂山家の活躍もありどんどん表に出るようになってきています。今の時代に合っているんだろうなとも思てみていました。
一方で多分今自分のしていることは能の世界に近いことであえて舞なのだなあと思ったのでした。