2018年8月28日火曜日

舞踊の禁止について

朝日新聞の以下の記事を受けて書こうと思います。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13653458.html

ダンスハ体育ナリその2は1936年ごろの体操の大流行を扱うのと同様に様々な舞踊の禁止令も扱っている。
実は明治期も様々な盆踊り禁止令が出され、舞踊の歴史は禁止の連続だった。
逆にいうとなぜ禁止しなければいけなかったのか、ということでもある。
また、その中で優遇された舞踊というのもある。

イギリスにいた頃、リーマンショックがあり、政権交代が起き、一気に芸術文化予算の縮小が起きたことがある。もともとイギリスの助成事業では社会貢献度が問われていたが、教育やオープンスタジオ、ワークショップ事業を手がけていない私のいたカンパニーは一気に予算縮小の憂き目にあった。作品が今ひとつだったこともある。が、それだけではない。社会貢献ができる団体と、産業として売りに出せる大きいカンパニー(ランダムやホフェッシュなどはラージカンパニー枠)だけに集中して予算配分を行うようになったという。
しかしラッキーなことにちょうどその時期に起きたロンドンオリンピックによって多くのダンサーが生き延びることができた。多くのダンサーがコミュニティダンスを一般に広める事業に関わるようになり、それがコミュニティダンスを広める契機となった。
一方で、全てのダンサーが自身のアーティストとしての信念から動いたとは限らず、振付家が振付をただ教えて踊らせるようなケースもある。

私は修論を書く時(この修論は3つに分けて鳥取大学リポリジトリに公開している)、イギリスに再度訪れて、当時の知人たちに話を聞いた。私が分かっていなかったけれども、当時の予算削減は25%カット、ニューキャッスルに至ってはいきなり予算が0になったという。(最終的には美術館などと合わせての予算を確保したが、多くの事業が潰れ、そこに私が関わるかもしれない作品も含まれていた)。
その時以来助成金に頼りすぎない生き方を考え、最小の形で作品を上演する術を模索してきた。
今でも私の学生たちには自分がやりたいことを自分の力でできるよう、なんでも自分でできる術を身につけてもらえるようにと思っている。

真に表現の自由を考える時、現在の政治状況を考えると、予算の有無ではなく、それでも表現をする力が必要になると思っている。ここ数日大野一雄論文を読んでいるが、慶人さんは父親がリサイタルにお金つぎ込んじゃうから貧しくてと度々話していて、そういう勢い、今ないんじゃないかと私は感じる。それでも社会に訴えなければいけないことってなんだろうか。そのような切実さ、私は最近の舞踊に感じることができない。
今やらなきゃいけないこと。
今だからできること。
作家としてはそれを作るしかないんだと私は思う。

 ダン体プログラムを作っていたので、そこに書いていた文章を転載します。

     舞踊の禁止について
 今回レクチャー内で扱われているダンスホールの閉鎖やダンス月刊誌の廃刊、及び様々な歌謡曲の発売禁止という現象は確かに起きている。しかしながら一方で政府によって保護され支援された舞踊というものも存在する。例えば紀元2600年記念奉祝芸能祭においては石井漠、江口隆哉、高田せい子が『日本三部作』を発表している。これらの奉祝事業の中心を担ったのが松本力とされており、彼の率いる日本文化中央連盟はその後も 「我国民生活に清新なる活力を附与すべき芸術的作品の創造」を目標とし、大衆演劇コンクールを開催するなどしている。この1940年を境に政府が芸能(特に演劇)を積極的に活用し、支援により統制を行っていこうとしていったことを宮崎(2003)は指摘している。なお、現代舞踊のコンクールとして知られる東京新聞舞踊コンクールが始まったのは1939年のことでほぼ同時期であり、プロパガンダ的に利用しうるものを利用し、それ以外を排除、禁止していくというこの時代の流れにのっているものとも取れる。
 昨年ダンスアーカイブプロジェクトでは江口隆哉の慰問公演を取り上げた(坂口・西田,2017)が、それもまた、ある種ダンスが利用されてきた一つの形でもある。支援により私たちは新しい作品を作ることができるのかもしれない。アーティストの政治的自立を考えていく上で、また表現の自由を考慮する上で、それでいいのだろうか。近年、社会的効果や経済効果を問われることが増えている。観光客をいかに呼ぶことができるか、移住者を増やせるか、地域活性化、それは本来の芸術活動の趣旨ではない。本来芸術活動とは個人の純粋なる欲求により成立するもので、それを発露することができる環境を作り出すことによって、多様性のある多くの人にとって住みやすい社会が形成される。つまり、芸術活動が直接的な効果を編み出すものではなく、長い目で見た豊かさのためのものである。

 私たちは目先の効果、結果にとらわれ過ぎていないだろうか。そもそも作品上演の目的とはなんだっただろうか。集客ができればいいのか。観客を喜ばせればいいのか。娯楽として消費されるだけのものではないと私は思いたい。本来芸術活動とは各人の持つ「せざるをえない衝動」に起因する。喜びも悲しみもその瞬間を現しだしたものが作品であろう。助成金や規制にどのようなスタンスを取っていくかも作家としてまた大切な視点であり、特に現在の政治、経済の発展の仕方を考えるとよく見極める必要がある。レニ・リーフェンシュタールのような生き方もあるかもしれないが、私には芸術家としての性(さが)と受け入れることができない。真に自立していくためには助成金に頼らない上演形態、形式、手法を作り上げていかなければいけないのではないかという予感を感じている。

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