2018年8月3日金曜日

闇のはなし

銀河鉄道の夜第3次稿までにはブルカニロ博士という人がいる。
さらにカンパネルラと別れた後、ジョバンニが出会う、セロのような声の男の人。(これは博士と同一人物という声も、賢治自身だという声もある)この人は突然やってきて宇宙の真理について話しはじめる。ほんとうと思われていたものがいかに変遷していくか。時間と空間が一気に流れ、その全てを体感させる。だからこそ、その謎の鎖を解かなければいけない。そしてジョバンニは走り始める。

私が見たのは真っ暗な闇だった。祭の最中一瞬にして真っ黒の穴の中に落ち、またすぐに戻ったけれども、あの闇はなんだったのか。この人の孤独のようなものを読み取ったかと思っていたが、そういうことではなく、この世かもしれないと最近は感じる。いろんな意味で滅んでいく方向に時代は流れていて、そして人も動いていて、ある種の必然の中石炭袋に向かっていくその先を垣間見たのではないか。

いろんな文字、言葉やいろんな画像のようなもので介入してくる思考が増えてきて、それ以来走れ走れと言われている。だからとりあえずその時以来走り続けている。
多分その暗い闇は怨恨とかそういうものではなく、ただ虚無で。(ダン体のレビューに『激しさや怒りを超えた虚無』という言葉があって、ああそうなのかもと思った。だから空っぽだったんだ。と。)
怨恨であればそれなりのエネルギーがあり、それを変えていくことができるかもしれない。でもそういうものではないようで、何もどうしようもない。
でもせめて、少しでもできることがあるとすれば、史実に基づきつつ、この見えてきてしまった物事を言葉にし、踊りにしていくことでしかないのだろうと。ダンスハ体育ナリ2の最後のシーンはどうにもならないけれど、でも踊るとしている。カナリアのように少し先に察知して必死に踊る。
芸能者は時代を読み取る力のある人であり、そして予言をするような存在でもあった。(でも当たらない人もいた)

謎の経緯で預かってしまっておそらく共有しているこの暗闇。このとき起きたことがどういうことかをきちんと言語化していくことと、この暗闇そのものをあらわすことがここしばらくの課題ではないかと考えている。

今回作る死者の書は2つのお話が交錯しており、そのうち一つはこの暗闇の中。折口は1人称で書いていて、その中にいる人として書いている。でもおそらくそれは私がそのまま自分の身体を通して見えるようにしていかなければいけないもの。もう一つは暗闇に触れてしまいせざるをえなくて全力ダッシュしちゃうようなところ。つまり闇の外。でもだからこそ暗闇が見えてくる。
いずれにしても自分の意識をいかになくしていくかを目指していく作業ではないかと。

言葉ではなく、身体を介して目に見えない世界を作り出していくこと。それも2種類、真逆の形で。しかし本当は真逆なのではなく、表裏のような、円の中と外のような。
IchIの時の上野君がやっていた役と私の役割を合わせて私が一人で作り出せればいいのではないか。光と影そしてそれによって明らかになる闇。
Mobiusで話していた表と裏のひっくり返しと追っかけっこのような関係で相互に補完し合っている。

カンパネルラとジョバンニは実は一人の人物だとする説もある。多分そのような試みが『死者の書 再読』の世界ではないかと思っていて制作は続く。




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