2018年8月12日日曜日

31th All Japan Dance Festival in kobe

帰りの電車の中。
All Japan Dance Festival神戸31回大会の引率をしてきました。
うちの学校はすでにカリキュラムの関係でそもそも参加できるかが怪しい状況で、しかもプログラムデータの送信が遅れ、厳重注意を受けてしまうものの、学生たちの希望で今年も参加発表部門のみ参加しました。(コンクール部門の予選日に試験が入るため)
俗に言う裏方作業もしておらず,すみませんなのですが、この大会が作ってきたものとはなんなのだろうかと色々考えさせられます。

自身が学生時代に関わっただけではなく、中高の教員時代に引率していた学生が入賞、受賞したこともあり、それがきっかけで何人かの学生が舞踊で大学に進ぬ学しました。そのうちには現在もダンサーとして活躍する子もいます。
大学時代に一緒に踊っていた子たちが審査員となり、コメンテーターとなり。

私が出演していたのは第8回(大学1年時)、第10回(大学3年時)(母校では大学3年までしか出演しない規定になっているため)その時には文部大臣賞、特別賞(とそれに伴う学長表彰など)を受賞しました。その時の話はダンスハ体育ナリでも語っています。選ばれた側ですが、それでも思うのはダンスは評価できるのだろうか、と言うこと。

それは既に亡くなられた石川さん(元横浜ダンコレプロデューサー)などにも話しましたが、賞をつけられないものではないか。と言う素朴な疑問です。
様々な多様性をと言うのであれば多様性を評価すべきである。少なくとも特プロを見ながら3賞になると突然意味のないところで足を上げ、見栄えのいいリフトをする学校が増えてくる。(学生でできる)見栄えのいいリフトはそんなにないから、同じ動きになってきて、音と衣装の違いくらいしか見えてこない、となるのは何故なんでしょうか。

私ができることはうまいってなんですか?と疑問を投げかけること。
なんでみんなで揃って踊るんですか?と疑問を投げかけること。

この世の中にちゃんと警告を投げるような作品がどれだけ見られただろう?
みんな見栄えの良さに囚われていないだろうか。
それは一昔前の体操の大流行と変わらないんではないか。
確実にこの数年で数押し、迫力押し作品が増えていることに関し、危機感を感じています。(ダン体その2のメインテーマです)


特プロを見る前に時間が空いてぷらぷらしながら(死者の書衣装を探していました)、そこですごく泣いてしまう。
自分のコンプレクスの源であり、絶対変革しなければいけない、でもそれを愛し、かつそれにより生きている人がいる時に、私は何が言えるのだろうか。
高校生が大学生の踊りを見て憧れて入学する(AOなど推薦入試も多々ある)システムもでき、そんな中、わたしは何ができるのだろう。

今年大学は予選通過と受賞校数がかなり減ったそうです。高校生の比率に合わせてとのこと。大学の部の特プロと決戦を見て私は多様性と言う意味でももったいないことではないかと思いました。審査員に誰がなるかと言うのも大きく影響を与えていそうです。


ダンスハ体育ナリ(その1、その2ともに)への宿題は多く残された。そんな感じです。10月までの宿題。


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