にんげん研究会は鳥取大学五島朋子先生が中心となって行なっている学外ゼミ。そのメディアをめぐる勉強会の3回め(昨年も行っていて、昨年は毎回いけたのですが、今年はなかなか伺えず)にダンサー・振付家の砂連尾理さんが来たのでお話を聞く。
なんとDNA版体操レクチャーを見てくれていたそう。(驚き)
過去の作品を見たことはあるもののちゃんとお話をするのは初めて。
老人ホーム(@舞鶴)での活動を続けて10年近く、様々な障がいを持つ方々とのワークをしながら、それぞれの身体に新しさ(自分が知らなかった身体性)を発見していったそう。最近は山が語りかけてくるような感じがあった話をしてくれました。ベルリン(在研)から帰って来て電車の急行の速度についていけなくなって、各駅停車に乗っていたら突然大山崎のあたりで話しかけられた気がしたそう。わかります!それ!
山に限らず、いろんなものから声というか何か来ていますよね。そういうものと踊っていて、自分から自分で踊っているのと何か違うんですというような話で他の学生・教員たちをポカンとさせてしまう。
コンタクトワークやパーソナルスペースの考え方を短くしかし分かりやすく説明してくれ、たぶん既にダンスではないなにものかだけれども、この身体を通じたコミュニケーションをダンスと呼ぶことである種の読みかえを行なっているのではないかと感じました。そうして、ダンスの領域を広げて行く。
多分やっていることはかなり近い。呼吸をしたり、言葉をかわすように身体があり、現代人はそこに鈍感になってしまっているけれども、気付くためのワークを指している。作品化するときにある程度の分かりやすさ(お客さんを置いていかないような)の工夫が文学作品に依拠したり、リサーチに依拠していたりするちがいがあるが、元々の身体感は結構近いんじゃないかと感じてちょっと嬉しい。
(コンテンポラリーダンスの人の中でもそんなに多くないと思う。もうすこしテクニカルな面を重視するため)
ただ、私はコンタクトインプロをベーステクニックとしていたカンパニーに所属していたにもかかわらず、じつはコンタクトが苦手で、完全にオープンにはしていないという話も改めてしました。それは本当に流入してしまう体験があるためで、一枚薄い皮膚を纏うような距離感は保つことにしています。合気道を始めとしたコンタクトインプロのとくに2人組みのワークでは2人の境界を溶かすような作業でありある意味で絶対的な信頼感の上に成り立っている。ワークショップ会場全体がひとつの空気感にして行くことで集団の安全を保つというかそういう感じがあります。
演劇の集団性とも異なるのはフラットな関係性であるということだとわたしは思っているが、それに警戒してしまう人の気持ちもわかる。私自身もすこし苦手で、それが大学時代から続く活動にも現れていると感じています。さすがに長く踊ってきているので、私自身はそこに警戒はしないものの、そのような感触、あるいは空気を感じ取る人がいるのもわかる自分もいます。(一応先生として働いているもので)
ダンスの危うさの部分であり、魅力である部分。
建国体操も、様々なお祭りも集団故に盛り上がる。
宗教の中でもダンス(舞踊)が多く利用されてきた。ダンスの持つ同一性。
翌日その場にいた同僚とそんな話をする。
大宗教と呼ばれるものの始めはいずれも一人の人の口語によることばとうたであった。それを弟子たちが書き留め、書きとめた言葉の解釈を巡り様々な争いが起こって行く。それを解決して行くのは踊りの力ではないかという川田順造の発想を思い出す。(『響き合う異次元』平凡社に記載)
キリスト教文化圏では踊りが長く禁じられてきた。今でもどちらかといえば身体は言葉に比べて疎んじられている。それは身体の超越する可能性を危惧してのことではないか。(木野論文に記載)
体の持っている力を信じつつ、でもその使い方、その距離感は気をつけなければと思う最近。(この1年ハラスメント案件の会議とか増えてるせいもあるかも)
『響き合う異次元』平凡社、たまたま手に取った本(そういうことがよくある)ですが大学時代に入ろうと思っていたゼミの先生が参加していて、彼女の活動が単に解剖学、運動学といった範囲ではなかったことを初めて知りました。独立前のニューギニアにいってたりする。定年退職ということで実際にゼミに所属することはできなかったけれど、もしかかわっていたらまた違う人生になっていたのかなと。(人類学とか民俗学に意識が向いている点では志向も感覚も変わりはないのかもです)
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