2018年3月31日土曜日

旅に出た2018①

久高島

久高島は不思議なところだという。

柳田、折口と当時の民俗学者たちは一斉に沖縄を目指した。
その後八重山へと意識を向ける。
それらの南への思いはどこから来るのか。

昨年たまたま上映会を知って見てしまった久高オデッセイと、なぜか飛行場で浮き上がってみえた本、そして折口本でも柳田本でも繰り返し扱われるイザイホー、一度おとづれてみたいと思っていた久高に足を運ぶ。

仕事間に合ってないけれど、とりあえず行くしかないから行く。

降り立って泊まるところどうしようかなとウロウロしていたら、なぜか先輩女優Mさんに出会う。彼女はすでに4日久高にいるという。今日泊まる予定のところに聞いてみようと言ってくれて、そのままご一緒することに。不思議な縁です。知り合いだけれど、すごく親しいわけでもなく、1年に1度くらい話すかどうかなだけに、今回は本当に色々お話できて楽しかった。

舞台に立つ時にエネルギーを使い果たしてしまう分、また常に闇の世界のぶん、太陽の光や、土の匂いを嗅ぐことが必要なのではないかという彼女の説は結構あたりで、私も白州の時からそんな予感は感じている。自然の力をきちんと感じ、受け入れる身体を作る上ではそういう当たり前のことが大事なのではないかと最近思う。

私自身は今は基本が学校の先生として昼の仕事に従事しているので、陽の光が浴びられないということはないけれども、一回スッキリオフにしてしまおう。

演劇とダンスでこれが違うかもと思うことの一つに演劇の場合は私ではないものを演じる(模倣の遊びに由来)し、ストーリー性が多かれ少なかれ存在するのに対し、ダンスは抽象度が高く、また私は私のままであるということがある。私は私の感情が溢れ出てしまうし、何かがくる可能性を高めていくことはできるけれども、それはカウントや何かで決めていくようなものではない。システマティックにカウント化していくことで正確性が増し、全ての人ができるものにもなりうるが、一方で「この人でなければできない」ということを見失ってしまう。
民俗芸能の教育現場への落とし込みでもカウント化に疑問を投げかける人もいる。呼吸や間合いと言った部分をもう一回見直してみる必要があるのではないか。
また、私が私であることを捨てることができるとき、その時はダンスでもないものになるのだろうとも思う。個人的な引っかかりを普遍的なものへと昇華していく作業がダンスであって、それは社会とつながっている時もあるけれど、あくまで個人の内的な話なのではないか。そこが演劇との最も大きな違いであると感じている。演劇にも様々あり、一人芝居などもあるので、個人か集団かという違いではない。それ以上になんのためにの部分とその立ち方に違いがあるのではないかと感じた。

多くの現代アートがリサーチをベースとしたプロジェクトへと移行している。それはソーシャルエンゲージドとも言われ、社会貢献を促す助成システムともつながっている。様々な展示や絵画、映像などにまとめられ、見た目もとても面白い。でも本当に大事な部分はそのプロジェクトが作者のどこにリンクしているかではないかと私は思う。個人的な引っかかり、コンプレックスかもしれないし、幼い頃の記憶かもしれない、そういうものとつながっている作品は強度を持つと私は思う。長い人生において、様々な出会い、別れがある。その一つ一つが作品になりうる。だから滞在したその場所それぞれに何かは生まれるけれども、一方でその人のコアに触れるような作品でなければ、「私たちのこと調べてくれてありがとう」「お手伝いできて楽しかった」の領域で止まってしまう。生きていく上でどうにもならないことをいかに腑に落とし込んでいくか。それには本当はすごく時間がかかるし、たとえAmanogawaプロジェクトでもできていないなと思う。私がわさわさしすぎているからかもしれない。
ある種の見せるものにする技術というのはあるけれども、ちゃんとその人の思いや生き方があるということの方がもっと大切で、それさえあれば極端にいうと全ての人が作品を作ることができるはずだと思っている。たくさん作ることができないかもしれない。全てはその一つの作品を作り上げるためのプロセスに過ぎない気がする。
ゆっくり構えて落ち着いて、1個ちゃんと作るというのが本当はいいなと最近感じる。(でも現状は常に嵐)


ゆっくり過ぎていく時間。
wifi繋がるって書いてあったけれど、繋がらないし、でもこれはオフにしなさいというお言葉だろうとしみじみ感じとる。

島の人口は現在約150人。もっと減っているかもしれない。土日は多くの観光客で賑わうが、フェリーが帰ると一気にひっそりする。島中の人が話しかけてくれる。どこ泊まってんの?どこから来たの?それは都会から来た人にとっては驚くほど。でも島の中のほとんどが親戚や同級生知らない人がいない島の中では、当たり前のこと。ああ、この前来てたあの子ねとか、あの時なんだかさんと話してたねとかいろんなことを忘れず覚えている。

たくさん来る観光客のうちの一人ではありますが、久高の人の温かさに触れ、ゆっくりした時間を過ごしています。



とりあえず、初日その運命の再会を果たしたのち、海にザッパーンと落ちて、携帯を水没させてしまう。でも久高の夕日に当てて乾かしたらなんとか復活。本当に大丈夫か怪しいけれども、今の所大丈夫そうだ。ゆっくり過ぎるはずだが私はどうもそそっかしい。。


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