2018年3月18日日曜日

障がい者アートって?

ここしばらく障がい者アートという言葉について考えていた。
また適応障害などの様々な病名について考えていた。
狂気とはなんだろう。
精神病とはなんだろう。
実はけっこう前から気にかかっていた言葉だったのだけれど、ここのところ障がい者アートと呼ばれる領域の展示をみたり話をよくきいたせいかもしれない。

たまたま昨日「マイノリティマジョリテ」が作った映像(今から10年前の「ななつの大罪」という演劇(?)作品を作っていく過程とその後の10年の振り返るようなドキュメンタリーをみる。10年の間に亡くなったり生活の変化もあり再演はできなくなった作品を映画にしさまざまなところで上映会とトーク(話し合う場)を持ち、リサーチをつづけているという。記録にいかに残していくべきか、またいかに伝えることができるのかという点でも興味深いプロジェクト。(感覚的に非常にはAMANOGAWAプロジェクトの感じに近い)とても面白いし、こういうものが10年前に試みられていたことにもうれしく思う。そしてこれをエイブルアートオンステージの枠組みでおこなっているところもまたすごい。また、私が感じていた疑問は私だけが感じているものではないのだとわかりうれしくなった。

私が感じていたのは障がい者というがわたしもまた障がい者でありすべての人が多かれ少なかれそういうものをもちうる。なぜ障がいを持つ人だけが区別されるのだろう。障がいの有無にかかわらず素晴らしいものは素晴らしい。障がいを持つ人がアートを必要とするのであれば同じようにアートを必要すると人がいるはずだ。長津さん(九州大)はマイノリティ・マジョリティという区分けは線引きではなくグラデーションではないかという。そうやって言葉化して法令化していくことでどんどん線引きは強まり別のものというふうになっていったのではないか。この10年で助成やサポートは増えたかもしれないが、健常と呼ばれる人と障がいを持つ人との距離はひろがったのではないだろうか。

オリンピックに対するパラリンピックの選手たちの活躍が連日報道される。障がいがある人でも活躍できるんですよというアピールのようにも見える。それはきっと多くの人を励ますのだろう。でも本当は障がいがあったとしても同じ土壌で戦うようなものではなく、異なる良さが評価されることがあるはずだ。目が見えない人が聴覚に素晴らしい能力を有することがあったり、色彩感覚に優れていたり、一定のことにものすごい集中力を発揮したりする。様々な形でその個性が現れるし、一部の人はそれによってアーティストとして評価されるが、そういうとくべつな能力がある人ばかりではない。
それは障がいの有無とは関係ない。
障がいの有無を飛び越えるものだ。

前任の佐分利先生は様々な障害を持つ子供たちも含む「インクルーシブダンス」をすすめてきた。障がいを持つ人も持たない人も一緒におどる。こどももおとなも、おじいちゃんも。夏至祭ワークショップもそうだが、みなただこの世の中を生きているということ。スポーツは身体技能だからとしてこだわるのであればダンスは、芸術活動はそれをのりこえることができるのではないか。

大学院時代の先輩がスペシャルオリンピクスについて取り上げていた。四肢障がい以外の目に見えない障がいをなぜメディアはつたえないのか。
本当に大切なことは私たち自身が線を引いているということではないか。
これは私とは違う、一般的ではない、倫理が、道徳が、様々な形で線を引いてしまう自分がいるのではないかと。私自身もまたきづかされ、そして考えさせられている。



おまけ
孤独な心に入り込む悪魔は悪魔とはかぎらない。悪魔も天使も皆等しく、そしてそれらは誰か別のものではなく、実はその人自身の中に内在している。狂気もまたすべての人に内在している。その現れ出る度合いが違うだけで、誰もにおこりうる。それもまたグラデーションではないか。私は確かにふつうの人より地雷を踏みやすいかもしれない、でも踏まずにはいられないということもある。そういう運命なのかそういう節目なのか。
 

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