2018年10月17日水曜日

ダンスハ体育ナリについて(北里義之さん)

北里義之さんが長文のレポート(レビュー)を書いてくれていたので、転載します。
いろんな意味でいろんなところに引っかかりを残すこの作品。私もその1が2回目、その2は3回目ですが、毎回考えさせられています。
ちゃんと作品見ている人は最後のところの記述がちょっと違うことがわかります。北里さんに話したところ、そうあってほしいなあーっていうことなので、じゃあ、その形でそのまま載せてしまいましょう。ちなみに「死者の書再読」チラシが黄色いのは檸檬に合わせたからではありません。


10月7日(日)東京ドイツ文化センターにて、木野彩子さんのレクチャー・パフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?』を観劇。<DANCE NEW AIR 2018>参加作品。暗黒舞踏で知られる大野一雄が体育教師だったことを切り口に、「ダンスとはなにか」という大きな問いを掲げながら体育とダンスの関係をさぐりつつ、女子体育の実際についてレクチャーした第一弾「ダンスハ體育ナリ」(2016年2月)と、国策として進められた戦前オリンピックの招致や「建国体操」に代表される国民運動を通して、男子体育=国民体育の実際やスポーツとの関連についてレクチャーした第二弾「建国体操ヲ踊ッテミタ」(2018年2月、5月)を連続して公演、ふたつのレクチャーの間にバスガイド姿で付近を案内(高橋是清翁像、同記念公演、草月会館、赤坂御所など)する「課外授業」で、東京ドイツ文化センターが建つ土地の歴史にも触れられました。レクチャーにはその後の研究の進展による新情報も盛られていましたが、構成そのものに大きな変化はなく、ダンスとは「社会の利用からむしろ逸脱していくものではなかったか」という結論もそのままでした。横浜BankARTでおこなわれた一番最初のレクチャーでは、戦後民主主義が身体の多様性を生んだことを背景に、ダンスに希望を寄せる言葉が語られていたように記憶しますが、その後の研究は、講義をペシミスティックなものにするのにじゅうぶんだったように感じられます。そうした経緯は、今回の連続講義にはっきりと投影されることとなり、そのせいで、かつての同僚である林洋子さんや、ピアノ演奏の戸井香織さんと共演された第一部の明るさが、ことのほか印象的に映ったのでした。レクチャーの内容にあわせ、前半は、おそろいのセーラー服を着用、華やいだ女学生を演じながらのパフォーマンス、対する後半は、いかにも野暮ったい詰め襟の学ラン服で講義されたという見た目も影響したように思いますが、ここにはもっと本質的な身体の歴史──近代国民国家を創設するため、多様な身体を均質化し、集団化し、統御管理することで社会に包摂するという国家的なプロジェクト──の二段階が影を落としているのだと思われます。

【木野彩子レクチャー・パフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?』@東京ドイツ文化センター】承前。身体における「國民の創生」の二段階というのは、第一段階が、いわゆる「近代的自我」の基盤になるもので、誰もが等しくひとつの身体を持ち、「体育」がそれを可能にするように、自分の意志によって変えていくことができる(物質的)対象のひとつである(身体の主人はお前だ!)という認識を植えつけること。いわば「私の身体」の創造というべきもの。第二段階が、そのようにして誕生してくる個別の身体を、オリンピックのようなスポーツの祭典とか「建国体操」といった身体装置はもちろん、軍隊制度、学校制度によって国家的なものに関係づけ、近代的なハレの場の創設とともに、(最終的に「神風特攻隊」へと収斂していくような)「国家的な身体」という幻想をいきわたらせること。「暗黒舞踏」も「コドモ身体」も、それ自身のローカリティに依拠しながら、このようなプログラムの下で覆い隠されていく身体、見えなくされていく身体の存在を可視化する運動だったといえるでしょう。今の私たちは、近代の第二段階は批判することができても、第一段階は、批判が依拠する身体そのものとして、あるいはいまもなお多様性を再獲得可能なものにする基盤として、疑いえないものとなっているように思います。特に「ダンスハ體育ナリ」講義が対象にしていた女子体育は(「遊戯」に関連づけられたそもそもの教育方針のためでしょうか)男子のような徹底した収奪から逃れ、多様性を失わずにいられたというところがあり、実際のダンス現場を歩きまわっていても、男女間のこの相違は、現実のものとして感じられるところです。「ダンスハ體育ナリ」講義の明るさは、そうしたプロジェクトの段階的な相違に起因するものではないかと思います。これに加えてもう一点、講義が3人の女性によってなされたこと、ここにも性差を男女に固定してきた近代国家のプロジェクトが見逃しつづけている身体の関係性が生きているように思いました。

【木野彩子レクチャー・パフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?』@東京ドイツ文化センター】承前2。レクチャー・パフォーマンス「建国体操ヲ踊ッテミタ」の最後は、サイレンが鳴り響くなか、ダンスが置かれている社会的現実に対し、木野さん自身のメッセージを公私の両面から表明する場面になっていて、「初演時はサイレンで慌てて逃げ出し、再演時はサイレンの中それでも踊り続けると変更」(木野彩子、公演プログラム)とあるように、彼女にとって悩みどころの多い結論部となっています。今回は、「第二の国歌」と呼ばれる「海行かば」の男声アカペラを流しながら、他界した漫談家テントのネタ「私たちの国では」を替え歌にした「私たちの船では」を、声高にではなく、ぼそぼそと、せつなげに歌いながら、元ネタであるテントの声を自身の声に重ね、さらにふたつの声をおおうようにサイレンの響きを重ね、天井にさげられた万国旗が落ちたのは故意か偶然か、最後にポケットからレモンを取り出すと、ガブリと齧りつき、「作品とはなんなのでしょうか? ダンスとはなんなのでしょうか?」と背後のスクリーンに文字が出て暗転、終幕となりました。これまで以上の直接的な語りかけとダンスによって、木野彩子の「憂国」を表現する末尾。前回の公演に参加したとき、最後の場面を以下のように書きました。<最後に自由スタイルのダンスを踊って扉の外に走り出していった木野さんは、会議室の床に一個のレモンを残していかれました。これは梶井基次郎の短編小説『檸檬』(1925年)を思い起こさせました。丸善の書棚にひっそりと残してきたレモンを、主人公は「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう」と空想するのですが、木野さんも、なにかそのような思い──誰をも傷つけない感性の爆弾によって灰色の世界を一変させるようなダンスをしたいというような思いを、このレモンにこめられていたかもしれません。> 木野さんがレモンを齧る姿は、まるで手榴弾の信管を口で抜く人のように見えました。このレモンが語り手の身体そのものを象徴することはあきらかです。おそらく現在クリエーションされている作品に対する思いを重ねつつ、ダンスと社会の両面に対し、もう少し積極的に身体を突き出していこうとする決意のあらわれだったのではないかと思います。■

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