2018年12月21日金曜日

音楽とダンス

出張先でたまたまテレビ番組でやっている音楽番組を見る。(普段私はテレビ番組を見ていない)

歌う人がセンターで、その後ろで踊る人々。
歌はBe my selfなど個性を出せと歌いながらもユニゾンが多い。

アニメ研究者に同じように見える中に差異を見出しているという話を聞きつつも、こんなにも集団の統一性をだされた場合、それに入ることが良いことになってしまう。あの中に入りたい!と憧れる子供がどれだけいるだろう。現実的にダンスの必修化後、多くの学校は現代的なリズムのダンスを選択し、創作要素や民俗芸能には振られていないのが現状だ。なぜなら体育教員の殆どは国体も絡んでのスポーツ人材で、ダンス未経験者が多い。評価も容易だし、自身が訓練すればできなくはない。
でも、それ、メディアに踊らされていないだろうか。
音もダンスも元々は同じものだった。いつからダンスは音楽に従属しなければいけなくなったんだろう。個人的にはかなり残念。

体育はスポーツ庁へ
芸術は文化庁へ移動する中、間のダンスってどこにいくのでしょうか。
国立大学の唯一の芸術文化センター所属、そして恐らく唯一の芸術部門のダンス教員として、いま何ができるのでしょう。

昨年教育大学協会保健体育舞踊部門では大野一雄がダンス教育で考えていたことに対し指摘し、ダンスハ体育ナリを元に研究発表しました。しかしその意味をちゃんと理解されていない気がしました。たとえ舞踊教育の関係者が集まっている場所であったとしても。体育教育の枠だけ考えていていいんですか?という問いかけはある意味喧嘩をうっているようなものです。
アーティスト派遣事業なども広まる中、創作ダンスって本当は芸術の枠組みに入れていくべきではないのかとか。みんなのモヤモヤがあります。
2018年DNAの場合はかなりのドイツ文化センターにも引きずられました。かなり考えさせられたんです。見にきた人に渡したブックレットを読むとお茶大の歴史から明治期のダンスも含め学ぶことができるでしょう。でもそれでも、私は一生理解されないだろうクエスチョンを投げかけている。ダンスは体育ではないだろう。

若い世代が集団性や統一感に意識を持つことはわかる。それはかなり危険でもある。

年代、歴史を超えて。
私は時代の流れに反したとしてもそれでも逸脱した存在でありたい。そうでしかいれない。見えてしまったものをあきらかにする。ただそれだけのこと。


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