2019年1月16日水曜日

なんのために作品を作るのか。

なんのために作品を作るのか。

自分の訴えたいことを表すのだと私は思っていた。
でもそれはモダンダンス(ちなみに欧米ではモダンとコンテンポラリーの差はない)の領域で、ドイツ表現主義に基づいていると気がついた。
私はなんで踊るのだろうと思っていた。
そもそも訴えたいことがあるのであればダンスではなく言葉を用いた方が良いだろう。私自身が演劇出身であるということを差し置いても。

たまたま先日体育のシンポジウムであったスポーツ系同窓生に抽象ゆえの面白さを指摘された。わからないからこそ、受け取った人の創造力が必要とされ、そこから会話が生まれるのではないかということ。
言葉を超えて通じてしまうことを多分私は信じていたかったのだと思う。

訴えなければいけない題材があれば踊ることができる。
きのうたまたま京都でお会いした人に、見にいけなかったけれど、あの作品(建国体操のレクチャーパフォーマンス)でフェスティバルがしまったのよとコメントをいただいた。現実問題として体育の中のダンスは必然としてあるとしても、芸術の中にもダンスがあるべきであり、その枠組みが今できなければ、多くのダンサーたちの仕事に関わるのではないか(アーティスト派遣事業などでも利用できる時間枠が限られてしまうので特に中高へ拡大させていくときに大きなポイントとなる)現在の自身の作品も運動要素は皆無に近い。これはダンスと呼べないのだろうか。私自身のアイデンティティのためにも踊らねばならないと考えた。
建国体操は扱う時代のせいもあり(それは現代を照り出している)檸檬のように少し苦い。ユーモアや笑いもあるが(バスガイドだしね)、それだけではない。エンタメとしてはもっと甘いマシュマロのような、あるいはディズニーランドのような作品の方がもてはやされるかもしれない。激しいダンスの方がすごい!となるかもしれない。でもコンテンポラリーダンスの作品としては今の問題点を切りだし、そして一緒に考えるための情報提供を行うものであると思う。だから私の考えを押し付けるのではなく、言葉を引き出すことを心がける。その形はダンスでは難しく、レクチャーパフォーマンスになった。言葉が必要だったのである。

死者の書は訴えることとはちょっと違う。どちらかというとモダンダンスに近い。劇場芸術として行うべきこと、また初めて舞台を観る人に見てもらう事を考えるとどうしてもこのような形を取らざるをえない。でも、その中には劇場芸術としてのダンスとは何かが含まれていく。
私は私が動くのではなく動かされるということを考えていた。
これは死者の書の前から、ずっと私ではない何者かと対話し、作品を作り続けてきたことに由来する。イギリスで作った『IchI』は私(I)と私(I)の間に挟まれている何ものかの存在(あるいは私の分裂)を、日本の怪談をイメージしながら、一般の人にわかりやすいように説明しようとした。大学4年の時に制作した『月に立つクローン』は卒業公演でできなかったソロワークに牧野先生が名前をつけてくれたものでもある。私の分身が月にいる。近くにいても遠くにいても私は常に何者かと共に踊っているという感触、それゆえに私は踊り続けてくることができた。
物語をみせようとする演出的な意図ではなく、その中にいかに没入するかを目指し、またそれを言葉化する再読を行っていく。お客様のための構造や解説を作り最小限を確保しながらその先を目指す、だからこの作品は終わることはない。(ただし公演はそんなに頻繁には行えない。例えば今回も私は髪を切ることになり、出家だなと思った)つまり、この作品は自分自身の探求のためが大きい。探求と言うよりは憑依の現象を分析すると言う試みでもある。普通の人はあまりできないししない。日常生活に困るから。でも今ならギリギリできるかもしれないと試みる。

この世の中は忙しい。
そんな暇はない。その中で、これだけの時間を割き、踊り続けていくということは普通の暮らしの幸せを逃しているのかもしれない。だから子供達には勧めない。でもそうとしか生きていけない人もいて、そのためにこんな形でも生きていけるという可能性のために今は存在していると思う。


京都(1月14日京都造形大)でシャンカールさんの作品を見た。インドのカースト制を扱った作品で、彼自身の拠点もジャングルの中の不可触民と呼ばれる人々と接する中間点に置きながら表現を模索しているという。(アフタートークで当事者研究という言葉が日本語なので英語でもToujisya studiesと呼ばれていることを知った。当事者性を考え、またその問題提起としてその場所を選んでいるのだと思う)世界各国で公演を行っているがインドでは6公演(2箇所)とのこと。もともとヨーロッパでのフェスティバル用に制作されている。都市部では「そういう問題あるよね」と受け入れられるけれども、そう簡単ではないとのこと。
今まで見えていなかった問題を明らかにしていくという意味で、意味ある行動であり、それを訴えるためにも作らざるを得ないのがよくわかる。一方で、それが難しいというインドの状況もよくわかる。それでもその苦味、それは「いま私たちが作らなければいけない必然」につながっていて、それこそがコンテンポラリーなのだと思う。

世の中はそんなにファンタジーじゃない。
お客さんはファンタジーを見に対価を払うというかもしれない。だからディズニーランドが成り立つ。2.5次元ミュージカルも流行る。経済的にも人気の上でもそういうものもあるべきだ。
それでもきちんと生き、生きることを考えるために踊るダンスがあっていい。ダンスでなくてもいい。演劇だろうと、文学だろうと。いまの哲学ブームはちゃんと生きたいという欲求のあらわれで、メディアに踊らされないで立ちたいということなのではないかと私は思う。

苦味は大事だ。
それを飲ますのはある種のユーモア、笑い、エロ、何れにしても何かが必要。でもその根本の苦味をなくしては表現をする必然性も失ってしまう。
あなたは何のために作品を作りますか?

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