2019年1月17日木曜日

未来の体育を構想する

未来の体育を構想するシンポジウムに行ってきました。(1月12日お茶の水女子大付属小)
とても興味深い内容だったので、簡単にシェアします。

そもそも体育とはなんだったのか、ということを考えている人たちが集まっている会でした。特に体育がスポーツへと変化しつつある中(一応現在は広義のスポーツとしてダンスが含まれています)運動能力ももちろん大事だけれども、体育がすべき内容はもっと大きいのではないかという印象を受けました。参加者は小中高で教員をなさっている方、地域でスポーツ指導をしているNPOなどの方、運動が好きな(嫌いな)地域の人、運動機器メーカーの方など100名以上が集まっていました。実は私を含めかなり遠方(宮城、大阪など)から来ている方も多かったです。

その中で取り上げられているのは体を通じて考えていく哲学のような要素、また言葉を超えて人と繋がること、新しくルールを作ったり、種目の枠組みを作るような創造力をつけることなど体育と呼ばれている授業ができることは他にもあるのではないかということです。
AIなどが浸透し、誰もがスマホで様々な情報を得られるようになる今、体そのもののあり方を改めて大事にすべきではないか。

実際に現在の指導要領はかなりそのような視点を取り入れており、障害を持っている子供達などが参加できるようにグループで種目のルールを変えたり、練習方法を考案したりというような内容も含めて授業は展開されることになっています。が、特に小学校は保健体育専門の教員とは限らないし、種目に偏りが起きたり(単元としては扱ってはいても熱量が異なる)ということが起きてしまう。
そして実際の現場の声としてやはり評定をつけなければいけないため、何らかの技術向上あるいは達成感を味わうためのトレーニングに重きが置かれているというのも挙げられました。カイヨワによればそもそも遊びであった体育に評定をつけなければいけないのだろうか。様々な運動能力、身体条件を持っていても、皆で楽しく自由な時間を共有するためにはどうしたらいいかを考えることの方が、今の時代において重要なのではないだろうか。評価は必要かもしれない。個人の努力、モチベーションを引き出す上でも個別に設定していく必要はある。でも集団の中で評定をつける必要はないのではないだろうか。

後半ではスポーツを作るということで、運動会協会、ゆるスポーツ協会などの活動が紹介され、様々な”面白い”の模索の仕方が見えてきました。運動会の種目そのものを作ってしまう。新しいスポーツも作ってしまう。そこに様々なテクノロジーや美術の要素も混ぜつつ、笑いと意外性を取り込みながらみんなの頭をフル回転させる。こうなってくると体育の枠組みも超えてしまう。
その中でお話ししてくださった運動会協会の西さんはもともとはEsportsの仕掛け人でありプレイヤーでもあったそうで、ファミコン第1世代とも言える(おそらく年代的には私よりも上)テレビゲーム、パソコンにどっぷり浸かっていた世代。それを極めていながら(実際今も大ブームだ)その人が身体へとシフトしたことがとても興味深い。頭も体も全てを使ってフロー体験を味わうのが面白くてたまらないそう。

フローというのはチクセントミハイが提唱した自身の能力を少し超えたところを経験する時に起きるハイテンション。感覚が敏感になり、様々なことがつながってくる感触で、スポーツ選手などに経験者が多いが、レジ打ちのような単純労働においても、知的活動においても起こりうる。私自身の感覚としてはものすごく時間がゆっくりになったような気がするという現象。微音だけれど自分にだけははっきり聞こえる(作品"Edge"初演時の感覚)状態に陥る。

楽しいとはどのような状態だったろうか、それを身体を通じて共有する。それがスポーツの文化であり、可能性でもある。もちろん競技ルールを覚えたり、それを知った上での楽しみ方もあるけれども、その前の身体が面白がるところを体験できれば特に小学校段階の体育は十分なのではないだろうか。そんなことを思いました。


個人的にはからだ科とか名付けて、からだを使って考えたり、瞑想したり、スポーツや様々な身体表現などもあわせて体験型学習として拡充させたいと思ったりもします。どれだけAIが進化しても、私たちは自分の身体から離れることはできない。つまり、身体からしか考えることもできない。快不快を決める最大の要因は私たちの身体がどのような状態にあるかで決まるという当たり前のところに落とし込むと、身体について知り、学ぶこの体育という枠組み、スポーツに狭めてはいけないよなと心から思うのです。













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